最終話–––その1

「ヴィットーさんの甥っ子さん?」


 カウンターの向こうで、受付の女性は目をまん丸くして私を見つめて言った。既視感のある光景である。


「ええ。叔父がお世話になっていたそうで……」


 私は、勤務していた病院に行った時と同じで、馴染みの顔と対面している。


 が、


『ピギーーーーーーーッ!!』


 私の言葉は途中で、こちらも馴染みの羽の生えた常駐員に遮られてしまった。途端にデジャヴを感じる。




 私は、過去一年間、月に一度は通っていた獣医のクリニックに来ていた。


 受付を終え、待合席に座ってカウンターの端に置かれている鳥籠を見れば、相変わらずカラフルな彼がきゅろきゅろ鳴きながら、右に左に行ったり来たりしている。そう言えば、彼の名前は知らないままだ。


 忙しなく首の角度を変えながら無感情な目でじっと観察されると、正体を見破られた様な気分になってくる。彼にはお見通しなのでは無いか、と。私は、常連である医者の甥などでは無く、ルイス・ヴィットー本人なのだと。


 しかし落ち着かない気分なのは彼のせいだけではない。さっきからここで働く女性達が、入れ替わり立ち代りドアの隙間や受付裏の窓からこちらを覗いているのだ。


 無理も無い。今の私は、彼らにとっては馴染みの患者の飼い主では無く、その人物に、恐らく些か似過ぎているであろう別の人間なのだ。興味はあっても、気軽に挨拶は出来ないのだろう。


「……ヴィットー……の……」

「……に……そっくり……」

「……い……も……」


 ヒソヒソと話す声と、押し殺した笑い声が絶え間なく聞こえて来て、私は更に落ち着かなくなるのであった。




 待合室には私の他にもひとり、膝の上に小型の茶色いプードルを乗せた女性が居た。


 プードルは獣医を訪れるのが怖いのか、遠目に見ても分かるほどぶるぶると震えている。女性は愛犬を励まそうとしきりに声を掛けて、抱きしめては撫でていたが、効果は無さそうだ。


 その気の毒な様子を見て、私は自分のを連れて来た時の誇らしい気持ちを思い出してしまった。




 は、獣医に来るのを怖がる事は無かった。いつもハイキングに行く時と変わらない調子で車の中に乗り込んできて、クリニックに着けば尻尾を振って受付や獣医に挨拶をした。人懐っこい気性の彼女は達にも愛想を振りまいていて、彼らを元気付けようとしているように見えた。


 彼女は診察の時でも機嫌を損ねた事は無かった。居心地は悪くてもじっと耐えて、終われば礼代わりに尻尾を振って見せた。採血や注射の時でさえ、困った様に瞼をハの字にするだけで抵抗した事は無かった。


「何て良い子なの!!あなたのお陰で仕事が本当に楽だわ!」


 看護師達は、彼女の顔を両手で挟んでわしわしと撫でてはそう言ったものだった。




 彼女は、誰にでも愛されるアイドルだった。


 散歩の時でもそうだ。すれ違った人、動物、分け隔てなく笑顔を振りまいた。視線を合わせる人間には少しだけリードを引っ張って寄って行き、挨拶をした。小さな子供には怖がられないように伏せて、仰向けに転がって見せることもあった。


 彼女の笑顔は、周りに伝染する力を持っていた。


 彼女のお陰で、私は笑顔に囲まれていた。


 彼女は––––––



「ヴィットーさん、どうぞ。」


 受付の女性の声で、私は物思いから我に帰った。立ち上がって、独りぼっちで診療室に向かう。自分にとって最後になるであろう、この場所での面会へと。


 ◇◇◇



「ヴィットーさんが……それはお気の毒に……」

「ええ……それで私は自宅の整理を頼まれていたわけなんですが、貴方にも一言礼を言っておいて欲しいと伝えられまして……」


 病院の元同僚達にも使ったを世話になっていた若い獣医に伝え終わり、私は右手を差し出した。


「今までお世話になりました。」

「それでわざわざ……。いいや、こちらこそ有難うございました。」


 獣医は、感嘆したように声を上げてから、がっしりと私の手を取った。


「私からも、お見舞い申し上げますと伝えてください。私達は、毎回彼とハニーに会うのを楽しみにしていたんですよ。彼は素晴らしい人で、愛犬家の鏡でした。それで、彼女は?」

「……ええと……」


 私は、わかり切った問いの答えを躊躇った。


「ヴィットーさんは入院中で、しかもイギリスにいるのでしょう?貴方が代わりにハニーの世話を?」


 不意に、昨日の走り去るクリスティーナの姿を思い出した。


 そして彼女の、涙に濡れた頬も。


「……いえ、私は……仕事柄彼女を預かる事は出来なくて……。でも、信頼出来る人物が付いていますから大丈夫です。私の側にいるより安心ですよ。」

「なるほど。彼がこちらに帰ってくる目処は?それかハニーを、あちらに送れたりするのかな?」

「いえ、それは……まだはっきりとは……」

「そうですか……彼はどうしています?彼女と離れて、随分と辛い思いをしているんじゃ無いですか?」

「……」

「まぁ、そんなに酷い怪我ならそれだけでももちろん辛いでしょうが……彼は彼女を溺愛していましたからね。彼女と離れて、どんなにか苦しい思いをしていることか……。」


 しみじみと、首を振りながら言う彼に、私は何も言い返せなかった。


「いやぁ、すみません。ただ、ほら、私は獣医ですから、定期的に彼らとは会っていたんですよ。彼女は、彼の生き甲斐みたいなものだった筈なんです。私はまだ若輩者ですけど、それなりの数の患者は見ていますからね。飼い主と動物の間の関係性は、何となく見えて来ちゃうものなんですよ。」

「……。」

「まぁあのの場合、固い絆で結ばれているのは誰が見ても明らかでしょうね。一緒にいたのはたった一年ぐらいでしたが、ハニーの方はヴィットーさんを本当に信頼していましたし、いつも一緒に居られるのが嬉しくて仕方がない様子でしたからね。犬がそうなるのは、溢れんばかりの愛情を与えたからですよ。元々の気質だけじゃないんです。

 いやぁ心配だなぁ……。ハニーちゃんも可哀想だけど、僕はヴィットーさんが特に心配だ。そんな対象を突然失って、ひとりぼっちで病床だなんて、大丈夫かなぁ……。」


 殆ど独り言のように喋り続ける彼の言葉を、私は半ば呆然と聞いていた。


 いつも簡潔なアドバイスで私の不安を拭い去ってくれたこの獣医が、自分からこんなに話したのを聞いたのは恐らく初めてである。私が若返ったことで、親近感を感じているのだろうか。


 少しの間の後に、彼は一息ついてから続けた。


「いや、失礼しました。ひとりでペラペラと……彼らはどうにも、思い入れのある患者なものですから。」

「あ、いや……いいえ、大丈夫です……。」

「貴方の叔父さんは、犬の事なんかこれっぽっちも知らないところから始めたのですよ。最初の頃なんか、殆ど毎日僕に電話をかけて来て……こっちは愛犬家のアドバイザーじゃなくて、獣医だって言うのにね。あれだな。手のかかる子供ほど可愛いって、多分そんな心理状態なんですよ、きっと僕。」


 そんな愚痴をこぼしながら、からからと彼は笑ったのだった。



 私は、何も言うことができなかった。


 嘘を信じているにも関わらず、私の心中を言い当てた彼には。


 ◇◇◇



 霧に姿を変えて着衣のままの移動は出来ても、大きな物を一緒に運ぶのは無理なようだ。


 運べるものと運べないものの境界線がどの辺りなのかの検証は出来ていないが、とにかく引っ越しにはあまり役に立たない能力である事が分かった。


 私はクリニックを去った後、身の回りの必要最低限の物を詰め込んだ車で、高速道路を走っていた。ダッシュボートには、ヴィットー氏にいつでも連絡して欲しいと伝えて欲しい、と、再度受け取った獣医の名刺がある。



 家具付きの借家を借りていたので、持って行くものはそれ程多くはない。移動は何度も経験があるため慣れたもの。持ち物はいくつかのボックスを宅急便で送れば、あとは車のトランクに余裕で収まってしまった。




 引っ越す事を大家に伝えた時、唐突過ぎて困ると随分ごねられた。契約期限より早いためどちらにしろ違約金は払う事になるのだが、私はなんとか、更に一ヶ月分の家賃を余分に払う事を条件に押し通した。


 その際、大家は引っ越す際に布製のソファーだけは、自費で新調しておいて欲しいと伝えて来た。


 を飼っていたのだから、次の借主がアレルギー等で困らないようにとの事である。私は借用時の契約書にもそのことが書かれていた事をしっかり確認してから、それを承諾した。まともに目を通したことの無い契約書に項目が無ければ断ったところだが、記載があったのだから仕方がない。


 家具の販売業者が新しいソファーを持ち込んできたのは今朝の事である。古いソファーは、同じ業者が引き取ってくれることになっていた。


 古い方をどうするかと聞かれたとき、引っ越し先に持って行こうかと一瞬迷った。しかしあのソファーがあれば、いやが応にもの事を思い出してしまう。


 私は断腸の想いで、引き取りを依頼した。




 業者のスタッフ二人は到着後、まずドア周りに破損防止の為の緩衝材を取り付け始めた。私はその様子をコーヒーを淹れながら眺める心づもりだったのだが……私が感傷に浸る間も無く、手際の良い作業員達はあのソファーをさっさと運び出してしまった。


「どうですか?新しいソファーは。」


 思った以上の喪失感に突如襲われ、半ば唖然としていた私に、スタッフの一人はにこやかに新品のソファーの感想を聞いてきた。


 感想もへったくれも無い。適当に選んだソファーである。私はこの後直ぐにこの家を出てしまうのだから。


「……ああ、良いね。悪く無いよ。」


 ため息混じりの私の言葉でも、スタッフ達は満足したようだ。意気揚々と撤収して行った。




 彼らの去った後、私はすっかり変わってしまった景観の中、しばらく一人で立ち尽くしていた。黒い革のソファーに、随分と無機質な印象を受けた。

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