契約の真実と末路

「今日は病院の診察日よね。車の手配をしているからいってらっしゃい」

 上品な母親が俺の部屋の前に立って言った。

「別に俺はどこも悪くないぞ」

 俺はいささか不機嫌になり、母親に強く言った。すると母親は俺をなだめるように、ていねいに諭した。

「毎月検査をしないとだめでしょう。今は良くても、無理はダメよ」


「そうだ、無理に働く必要はない。お前は安静にしていなさい」

 ロマンスグレーの父親がねぎらう。なんで、俺、ねぎらわれているんだろう? そうだ、ここへ来てから少し違和感があったのだが、みんな俺を必要以上に気遣い、無理をしないように甘やかしているように思っていた。これだから、御曹司は……なんて思っていたんだけれど……他に理由があるのだろうか?


 一応、確認のため聞いてみる。本当のことを聞くことになるので、内心はドキドキしていた。

「俺、どこか病気だったっけ?」

 そんな言葉に両親はとても驚いた顔をして心配していたようだ。


「記憶がないの? もしかして病気のせい?」

 母親が心配している。俺は病気なのか?

「お前の病気は最先端の病院でお金をかけて治療しているんだ。絶対によくなるさ。不治の病に打ち勝つ人間の第一号になればいい。応援しているぞ」

 父親が変に熱く励ましてくる。病気って……不治の病って……。俺の中で、何かと何かがつながった気がした。疑念の正体がぼんやりみえたのだ。


 病院の診察予約に行き、俺はきちんと医者に確認してみる。

「俺は不治の病なのですか?」

 やはり医者は質問内容に驚いていたが、優しく説明してくれる。

「この病気は難病だよ。今のところ世界中で1人も生存者はいないが、君が完治患者第一号になれるように精一杯、病院がバックアップしてフォローするからね」

 医者はあきらめないで、という悲しい瞳をしていた。俺はもうダメなのだろうか。


 どんなに偉い人でも、金持ちでも、天才でも死は訪れる。早いか遅いかだけの違いだ。環境は違えど、死は平等だ。神が与えた平等なことなのかもしれない。


 23歳の大企業の御曹司がなぜ俺なんかと入れ替わりたいと思ったのかようやくわかった。命は金では買えないのだ。だから、金持ちならばお金をかけて治療費に充てることができても、難病の病気の完治や健康を買うことはできないのだ。だから、入れ替わるのならば健康だけがとりえの若い人間ならば誰でもよかったのだ。


 俺は、恵まれた境遇ではなかったが、健康だけはとりえだった。何故死神は俺に声をかけたのだろうか? 人生なんて投げ出したいという気持ちを見破ったのだろうか? 俺は絶頂からどん底へ突き落された。そして、1度しか会っていない死神との連絡手段をあれこれ探したのだが、彼女との方法が見つからなかった。



 諦めかけていたその時――死神が突然目の前に現れた。俺は元の体に戻してほしいと懇願した。しかし、死神は美しくも厳しい表情で断りを入れてきた。


「契約なので、それはできません」

 と言って、一通の手紙を渡してきた。その手紙は依頼主からとのことだ。


 丁寧な文字で言葉が綴られていた。とても繊細な美しい文字で心のこもった手紙だった。俺は、ゆっくり手紙に目を通す。


「私は死が怖かった。誰でもいいから死を変わってほしかった。お金で命や健康は買うことはできないけれど、お金で恐怖から逃れることができた。君のおかげだ、ありがとう。君には感謝しているよ」


 手紙にはそう書いてあった。俺は、依頼主から中身を変わったことを感謝されたのか。もしかしたら長い人生の中で初めて人から感謝された瞬間だったようにも感じた。人のために何かしたことは、最初で最後になるのかもしれない。


 死神は何やら紙を見ながら字を読み上げる。


「報告です。依頼主はたくさん自分のお金を実家から持って行ったので、今後生活に困ることはありません。あなたの母親は、高級な老人ホームに入っています。依頼主は本来仕事ができる人なので、現在はあなたが嫌がっていた仕事を楽しく行っています。業務成績もよく、まわりから慕われているようです。仕事を辞めても困らないくらい自分の通帳からお金を持って行ったそうです。しかし、仕事が面白く、続けたいと思っているそうです。あなたには豊かな生活と相続権を渡したということで、全財産を渡したと認識しています。死にそうな人と健康だけど死にたい人をマッチングさせる仕事が死神の新しい仕事の形なのです。死神も働き方を改革しているのです」


 美しい死神はそう言うと、俺の前からすっと消えた。

 依頼主はきっと世渡り上手で、仕事もできる人間で判断力にたけているのだと思う。だから、俺の勤務していた小さな会社でも大きな業績を残すことができるのだろうし、長生きする選択肢も上手に見つけたのだろう。本当のことを隠して、青い芝生だけを見せて契約させたのだから、きっと営業上手なのだろう。俺は、大企業を背負うような能力や器は持ち合わせていないから、長生きしても会社が倒産したかもしれないし、別な誰かに経営を代わってもらうことになっていたかもしれない。


 そして、俺は死という大きな恐怖を抱えながら病魔と闘うことを避けることはできなくなっていた。もう、死神は現れないだろうし、元に戻ることはできない。見た目が違うので、今の姿のまま会いに行っても、実の母親も息子だとは思わないだろう。それに、失った健康の代償は大きすぎるものだった。本当は健康だったにもかかわらず、もう元の健康な生活に戻ることはできなかった。


 そして、その後、御曹司である俺の通帳から全額の預金がなくなったと多額の行方不明のお金について、両親からとがめられ、俺と両親との関係は悪化した。俺が何かに使い込んだと思ったらしい。俺は通帳のお金を1円も使っていないのに――。


 たしかに長生きをしていれば両親の財産はもらえたのだろうけれど、長生きできる見込みはなかった。難病で生存者がゼロの病気なのだから。


 ――結局、大金持ちになった俺は、孤独な最期を迎えることとなった。代償は大きかったが、後悔先にたたずだろう。自業自得とはこのことを言うのかもしれない。でも、盛大な葬式をしてもらい、知らない親戚、知らない友人や知らない社員に見送られた俺はもしかしたら以前よりは幸せだったのかもしれない。幸せなんて基準はないし、幸せだと感じた人の勝ちなのだから。もし、長生きしたとしても友達も同僚も家族もいなければ金もない。そんな俺は盛大な葬式で送られることもなかったのだ。


 しかし、死亡したのは俺ではない御曹司。俺はどこかで生きている。中身は別人の誰かが俺の体にいる。きっと、このまま魂も消えるのだろう。俺は、そっと目を閉じた。きっと天国も地獄もないと思う。今から無になるのだ。そういえば、三途の川なんてなかったし、死ぬ直前に誰かが迎えに来るということもなかったな。


――俺は死んでいないのか? 生きているのか?


 ♢♢♢


 どれくらい眠っていたのだろう? 俺は生きているようだ。正直自分自身を疑った。まさか、夢だったという話じゃないよな? 自分の顔をつねってみると、痛い。髪の毛を引っ張ってみると、痛い。俺、生きている? まさかの天国か? 


 周囲を見渡すと、ここは俺の元々住んでいた家、古い借家だった。鏡で自分を確認する。やっぱり見た目は冴えない以前の俺だった。ということは元に戻った? 机の上を見る。すると、俺の名前の真新しい通帳が置いてあった。こんな通帳は初めて見る。手紙が置いてあった。


「死ぬ瞬間を変わってくれてありがとう。怖がりの私は死ぬ瞬間がとても怖かった。闘病もとても怖かった。死ぬという事実が変わらないとしても死ぬ瞬間だけでも死神にお金を払って、変わってくれる人を探したんだ。最後に元に戻ることはあえて秘密にしていたよ。君が変わってくれてよかった。本当にありがとう。君は病気を経験して一度死んでいる。だから、どんな困難でも生きていけると思うよ。君は二回も死を経験する勇敢な男となるだろう。この通帳のお金は使ってほしい。感謝の気持ちだよ。苦痛や恐怖はお金には代えられない。3億以上の仕事をしてもらったと思っている。通帳にとりあえず3億円入れておいたよ。どうせ私は死ぬのだから、このお金は君に使ってほしい。入れ替わりのバイトだとおもってほしい。僕の代わりに苦痛と恐怖と死を変わってくれたこと、本当に感謝します。あなたの母親は高級老人ホームに入っています。住所はこちらです」


 あぁ、俺は3億円のバイトをしたのか、誰もいない部屋で俺は静かに通帳を見つめていた。そして、俺はこの先どうやって生きていくのか、はじめて前向きに考えることができるようになったのだった。













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大金持ちと人生入れ替わりませんか? 響ぴあの @hibikipiano

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