第十四話 水晶のように 

神郷の〈漆黒〉と、赤毛の鬼人。


武人同士の対峙の中。



頭から墜落する綾人に気付いたのは、赤毛の鬼人の方が先だった。




「な」




それもそのはず、立ち位置からして、綾人が墜落したのは、玄葉の背後だ。

何を感じたか、玄葉は鬼人の相手よりも振り向くことを優先する。とたん。


蒼白になり、

「―――――御方!」

悲鳴のような声を上げ、綾人を追いかけるように、岩の上から跳躍。

まるで自殺行為。


(はあっ?!)


驚いたのは綾人の方だ。ここが毒沼と、言ったのは彼女だ。

なのに、綾人以外目に入った様子はなく、綾人を引き上げようとするように追いかけ、限界まで腕を伸ばす。


「だめだろっ!」

咄嗟に叫んだが、すぐ、綾人は思い違いを理解した。

玄葉は、なにも自ら死に飛び込んだわけではない。



感情に溺れるどころか、その表情は、ぎりぎりを選びながら―――――冷徹に計算を巡らせている。


そうだ、彼女は計算していた。



岩場の位置を。



綾人は重力に引かれて落ちる先を確認。


その近くに、一つの岩場。

距離はあるが、他にもいくつか。






どうすればいいものか。






綾人は真剣に悩んだ。


どうも、このままでは、綾人は玄葉に助けられてしまう。

もちろん、玄葉には一つの非もない。それどころか。



なんという格好よさ。

頼りがい。


真顔で思う。惚れそう。



しかし、それでは意味がないのだ。悪いが、

(騎士に助けられるお姫様になるつもりは、)



ない。



綾人は、延ばされた手を一瞥。あろうことか、すぐ、この手は確実に綾人に届いてしまう。…ならば!

綾人は玄葉に手を伸ばした。

ホッとした玄葉の顔に、罪悪感を覚えたのも束の間。


囁く。





「悪く思うなよ」





刹那。


綾人は掴もうとする玄葉の指をすり抜け、その手首を掴んだ。

玄葉がこぼれそうなほど大きく目を瞠る。



考える隙を彼女に与えてはいけない。思い切り引き寄せた。ぶつかる勢いで、玄葉が胸の内に飛び込んでくる。その時にはもう、水面は間近。なのに。



綾人の確信に、もう疑念はない。

やはり、コレは清水だ。


だが自身の身勝手に誰かを巻き込むことになるなら、万全を期す必要がある。



綾人は、慣れない力、―――――神力を操った。自身と玄葉の全身を、包み込む。繭のように。玄葉ごと包み込むのだ。失敗は許されない。極度の緊張に気が遠くなりながら、綾人は水面を睨みつける。



汚泥のにおいがいや増す中、それでも綾人の鼻先に、わずかに甘い清水の香りが掠めた。

この状況で、綾人はさらに確信。



「誰だ」



低く呟く。






「状況を歪めてるヤツは誰だ―――――正体見せやがれ!」






何かが現実を歪めている。



綾人の身体が水面に触れる、―――――寸前。









―――――リィン―――――ッ









玲瓏とした鈴の音に似た響きが、波紋が広がるように一帯に、涼風に似た爽やかさで広がった。


「なんだ…?」

赤毛の鬼人が、一瞬で不審と敵対心を根こそぎ溶かされたような無垢な表情で瞬きする。直後。



ドボン。



二人が落ちた周囲に上がった水しぶきは―――――透明感あふれる虹色。そこを、中心に。




ザア―――――ッ




黄金の光が、放射状に広がった。


汚泥を押しやるように。



もしくは、…浄化、するように。



まばゆさに、咄嗟に腕で、赤毛の鬼人は顔を庇った。

攻撃とは思わなかったが、何が起こるか予測もつかない。


それが風のように吹き抜けた、あとには。






「…なんと」


腕を下ろした鬼人は、呆然とした呟きを落とす。なにせ。






泥沼の間にあった狭いあぜ道から見下ろした、水面。


そこに、自身の顔が映っている。いや、顔、どころではない。





水晶のように透明に揺らぐ水面に、蒼天が映りこんでいた。





夢ですら見られないような、うつくしい光景だ。


青い色をしぶかせるように、水底に潜っていた子らが、次々と顔を出す。


これほど透き通っては、確かに、隠れることなど不可能だ。

とはいえ、それ以上に。


はじめて見る光景に、皆、言葉を失う。


「いったい、なにが」

呟いた赤毛の鬼人も含め、全員の顔にあるのは、―――――驚愕。

彼らの視線は、いっせいに、一か所へ集中。

そこでは。


「御方、ご無事でっ?」


凛とした真剣な横顔を見せる〈漆黒〉。


その細腕が引きあげているのは、…青年。いや、少年、だろうか。

力尽きたようにぐったりとした彼こそが、奇跡とも言える御業を行った張本人だ。


どれだけの力が使われたのか、顔色が青い。


と思いきや、

「…無事じゃない…あの高さから飛び込んで、頭から落ちたはずが腹に衝撃が…」


岩場の上に引きずり上げられた彼は、お腹を抱え、もぞもぞ丸くなる。

その姿と目の前で起こった奇跡がつながらず、鬼人たちはにわかに混乱した。


反応に困る。


「それよりごめん、引っ張り込んで。玄葉は無事?」

その様子に、困ったようなホッとしたような笑顔を浮かべ、〈漆黒〉。



「簡単に謝罪など為されませんよう。あなたが無事なら、それが私への褒美です」



「…〈漆黒〉」

何にしたところで、黙って見ているのは性に合わない、直情型が鬼人だ。

赤毛の鬼人が呼ぶ声に、不意に、玄葉は厳しい顔を向ける。


「その、方が…当代の?」


確かに、先ほどから、玄葉は彼をこう呼んでいた。御方、と。






だが、―――――そこにいる青年は、あまりにもつながらない。鬼人たちが知る、御方、という存在とは。






鬼人たちの視線があまりに不躾だったか、玄葉の唇から、ほとんど冷酷と言っていい声が飛んだ。



「頭を下げよ! 無礼者!!」



岩場の上、御方のそばに跪いた〈漆黒〉が傲然と声を張った。


足元の御方こそが一番に、びくりと肩を揺らしたのには、幸か不幸か、誰も気付かない。

玄葉の言葉は、それだけの衝撃を鬼人たちに与えた。


ばたばたとあぜ道に上がり、揃って平伏。

綾人には、心臓に悪い光景である。


静かになった彼らを見ないで済むよう、顔を覆って、綾人は言う。



「あのさ、とりあえず当面の問題は、この沼地…ああ、今は泉って言ったらいいのか…ここ、放っておいたらまた元に戻るぞ」



「と、仰いますとっ?」


赤毛の鬼人が額を地面につけたまま大声を上げるのに、さすがに顔を隠して言葉を放つのは失礼かと綾人は両手を顔から外した。

寝転がっているのも落ち着かず、痛む腹をさすりながら起き上がり、その場に正座。


介添えするように、玄葉が腕を伸ばしてくるのを制し、下げられた頭の群れを見下ろした綾人は、やりにくい気分で告げた。





「この状況、原因を作った奴がいる」









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10分間救世主 野中 @yorimitti

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