第十三話 毒沼






「なんだ、あれ?」

次第にはっきり見えてきた地上に、綾人は首を傾げた。


同じく地上を見下ろした玄葉が、纏う空気を切れるほど鋭くさせ、厳しい表情になる。



「どうやら、随分と流されたようです」



冷静に、一言。

物言いからして、彼女には今いる場所が把握できたようだ。

見えてきたのは、確かに、特徴的な地形だ。

隕石が落ちたようなクレーターがいくつもできたような湿地帯周囲を、守るように鬱蒼とした森が周囲を囲っている。


ただ不思議と、湿地帯には草一本生えていない。大きな岩が所在投げに突き立っている。肥沃な土壌というわけではないようだ。




一見、湿地帯だが、受けた印象は荒野か砂漠に近い。




玄葉が言葉を続ける。

「あれは、沼地ですね。この高さだと数か所に水たまりがあるようにしか見えませんが」


水たまり、どころか、泥土にしか見えない。殺風景な光景だ。


「ここに降りることはお勧めしません」

そう言われても、にわかにこの力の操作は難しい。言い訳めいた気分で呟く。


「汚れるくらいなら、俺は構わないけど」

玄葉は首を横に振った。



「あれは、毒沼です」


毒沼。



見れば確かに、…少なくとも清潔ではない環境だということは分かる。

そう、視覚では、…その通り。それなのに。






―――――なぜだろう、妙な違和感があった。


ここに湧くのは清水だ。

そんな、何の根拠もないのに、胸の中心に、ふっと確信が宿って、混乱する。






首を傾げないでいるのが精いっぱいだ。

上の空で綾人は呟く。

「じゃ、…避けた方が」




見た情報・聞いた情報と、この確信。あまりの落差に、綾人は軽く混乱した。


ほら、水の甘いにおいがするだろう、とその確信が囁いてくる。

だが、近づいてくる地上からは、汚泥の匂いしかしない。




(どういうことだ?)




「ええ、賢明です。この毒に慣れている近くの郷の鬼人ならともかく、他は骨まで溶け…」

怖いことを平然と言いさした玄葉の目が、不意に据わった。



一見、厳格な、それでいて繊細で華やかな顔立ちに、怒りとも取れる表情が浮かんでいる。



不穏だ。

なんとなく綾人は小さくなった。え、俺、なにかしたっけ。



自分に対して腹を立てていると思った綾人は反射で猛烈な勢いで、記憶を遡った。


したと言えばしたが、そう、今も姫抱っこなど…、しかしそれは、先ほどまで受け入れてくれていたはず。



真剣に考えこみかけた綾人の前で、玄葉は低く呟いた。

「…知らぬとはいえ、何という無礼。子供の遊びと言っても、許されるものではない」


玄葉の漆黒の目は、じっと沼地を見下ろしている。

綾人には見えない何かが、その目に映っているのだろうか?

「御方」


怜悧な表情で綾人を見上げ、玄葉は軽く綾人の胸を押しやった。




「―――――掃討して参ります。御方は、沼地の外れまで避難を」




思わず姿勢を正しそうになるほど厳格な声で言うなり。

玄葉は軽やかに、綾人の腕から飛び降りた。


掃討って何を。と聞く間もなく―――――、



「あっぶな…っ!」



何がどうなったか。




岩に舞い降りようとする玄葉に向かって。沼の八方からはじき出された、野球ボールくらいの大きさの泥玉が一斉に迫った。




玄葉はと言えば―――――焦るどころか、目もくれない。

冷徹な表情もそのままに、抜刀。


彼女の周囲で、なにか、水みたいな光が反射した、と見えた時には。


抜身を片手に、玄葉は岩の上に着地していた。その周囲で。

冗談みたいに、正確に両断されたすべての泥玉が、勢いも失って、泥沼に落ちていく。



何が起こったのか、綾人程度では分からなかったが、自分には逆立ちしたってできない、すごいことが起きたのは分かる。



「さて」


隙を作って誘う態で、刃をさげた玄葉は、不敵に沼地を見下ろした。






「出てこないなら、沼ごと叩っ斬ってやろう」






彼女が呟いた一瞬は、言葉を直接向けられたわけでもない綾人すら、なんだか寒気を覚える。

だが、玄葉がそのように言った、ということは、つまり。



この泥沼の中に、誰かが潜んでいる、ということ。…骨まで解ける毒沼と言っていなかっただろうか?

ああ、いや。


近くに住む鬼人は別、とも、言っていた。








「―――――お待ちを!」







返った沈黙に、玄葉が動こうとした刹那。


大気を、大きな声が撃ち抜いた。

キィン、と綾人の鼓膜が痛む。耳を押さえた。


ほとんど咆哮の大きさのソレが聴こえるなり、森らしき、木々が生い茂った方向から、イノシシの勢いで駆けてくる何か―――――いや、誰かが映った。青年だ。一瞬、松明でも掲げているのかと思うほど、焔かと見紛うような赤毛の逆立つ髪をしている。



「なにゆえ神郷の〈漆黒〉がこの地に降臨なさったか、まずは理由をお尋ねしたい! 御方のご意向か。ならば、〈漆黒〉が来た理由は、蹂躙であるか!」



地面を割り砕く勢いで一目散に駆けてくる青年の額に、一本角。髪は炎のような赤。

だが、待ってほしい。

玄葉がやってきたから、目的が蹂躙、とは。


(…どうしてそんな物騒な? ? )


「会話の前に攻撃を仕掛けたのは、そちらが先だ」

対する玄葉は、けんもほろろ。

一定の距離を置き、警戒するように立ち止まった青年は、呻いた。




「毒沼でも、我らにとっては、唯一の水源。他にはない。破壊されては困る。村が滅ぶ。それに、今、〈漆黒〉へ向けられたのは、単に子供の悪戯。…お許しあれ」




綾人は、ぱちり、瞬き。

水源。…他には、ない? つまり、何か。





この泥土が飲料水であり、服や食器を洗い、また、身を清めるために使われるというのか。もちろん、そのまま使用されるわけではないだろうが…。





高度を落としながら、改めて、綾人は沼を見遣った。

間違いなく、毒に汚染されている。



なのに、―――――やはり、ここに湧いているのは清水という確信は強まるばかりだ。汚泥の匂いで息苦しくなる中、綾人は真剣な顔になる。



なんだかんだ、今まで綾人は勘に従って行動してきた。

それは、自身の望みに沿っていたし、意外と正しい結果につながっていた。


もし、今回も。

自分の中の声に、耳を、傾ければ。


「…」


考え込む間にも、玄葉は厳しさを崩さない。むしろ、厳しさは増していた。




「当代の御方のおかげで、お前たちの肉体は健康に戻ったはず。というのに、その恩恵を授かった肉体を毒に浸し、また崩し去ろうとする性根が気に食わない」




状況の詳細まで理解できたわけではない。ない、が。


この状況、放置は最悪の事態につながる気がする。



なんというか、本来の原因と関係のないところでいさかいが起こり、ずるずると血の溝を作っていくような、予感が。



それを避けるためにはどうすればいいか?

綾人が決めるのは、一瞬だった。






神力の放出のイメージを切る。刹那、身体が重力に捕まった。あっという間に、落下。






そう、最悪の事態を避けたければ―――――今この場で、確かめればいい。

綾人の勘が正しいか、否か。


何も、この世界でとびきり無力だろう綾人が身体を張る必要などないのではないか、と言われそうだが。




誰かに命じるなど、普通の庶民の綾人には想像もつかないし、自分の考えを遂行するのに、使うとすれば自分自身しかいないのは自明の理。









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