2-2 海部金属事業部長、謎の退任

「来たか……」


 入ってきた俺を見て、海部金属事業部長は苦笑いを浮かべた。ここは麻布狸穴あざぶまみあな。隠れ家蕎麦屋の奥に地下に通じる階段があり、個室がひとつだけある。ようやく繋がった電話で、海部にそこを指定されたのだ。


「思ったより早かったな、平くん。君は異世界事業に夢中だから、私のことなど後回しかと思っていたよ」

「いえ海部さん……」


 そこまでは口に出したが、なんと答えていいか忘れるほど、俺は気もそぞろだった。


 だってここ、蕎麦屋の個室じゃない。というか少なくとも、蕎麦を食わせる目的の部屋じゃない。だだっ広く、赤黒い壁紙。壁には拘束具が埋め込まれており、ひとつだけある棚には、鞭だとか、俺には使い方の想像もできない道具が並んでいる。海部が座っているのは赤いソファーで、小さなテーブルにはブランデーの瓶が立っている。でまあ……部屋の隅には大きなベッドまで設えてあった。


「なんすか、ここ」

「まあ座り給え」


 きょろきょろする俺に、向かいの席を示す。


「はあ……」

「ここの一族はね、狸穴が文字通り狸の巣穴てんこ盛りの貧しい草っ原だった頃からの大地主なんだ。土地が痩せていて蕎麦しか作れなかった。だから昔は蕎麦屋が正業だったんだが、今は不動産で食ってる。蕎麦屋は先祖に対する義理……というかリスペクトで営業しているだけだ」

「というかここ、SMホテルですよね。嬢とプレイする」

「ホテルじゃあない」


 薄い笑いを浮かべると、俺のグラスにブランデーを注いでくれた。


「宿泊業にすると色々許可も面倒だし、そもそも彼は金なんかもういらないんだ。ここは今の社長の私室だよ。見ての通りの趣味だ」


 SMグッズの棚に向かい、手を広げてみせた。


「はあ」

「私は昔から彼の知り合いでね」

「SM仲間っすか」

「いや私にその手の趣味はない。私は赤ちゃんプレイが好みでな」

「はあ……」


 冗談か本当かわからん。普通に真面目な表情で、グラスを口に運んでいるし。


「医者とか弁護士とか、重圧のかかる人はママプレイにハマるらしいっすね」


 聞きかじった、どうでもいい知識を、俺は披露した。俺も今度してもらおうかな。吉野さんの豊かな胸に吸い付いて、授乳プレイとか。「ダメでしょ、坊や。ママおっぱい下さいって、先に頼みなさい」とか、叱ってもらって。


「あー……」


 頭を振って、授乳妄想を吹き飛ばした。今はそれどころじゃない。


「そ、それより退任の話を聞かせて下さい、海部さん。俺と握ってたじゃないすか。社内陰謀を暴こうと。……なのに、なんで急に──」

「派閥をまとめるのには、別の場所を使った」


 俺の問いには答えず、続ける。


「ただ色々あって、信用できなくてな。誰がどこに隠しマイクを持ってるのかわからん。派閥の調整くらい、盗聴されても構わんが、平くん、君との会合にはどうしても漏れない場所が必要だ。だから……とっておきを使った」

「はあ……」


 怪しげなSM部屋とか、むしろ隠しカメラくらい仕掛けられてそうだけどな。でもそれくらい、どんな馬鹿でもすぐ考える。伏魔殿の金属商社で次期社長候補まで成り上がったんだ。海部は間抜けじゃない。ここが安全だと思える、なにか鉄板の理由があるんだろう。俺にはわからんが。


「私の退任を、誰から聞いた」

「誰って……誰からでもっすよ。次期社長候補筆頭が突然だ。大騒ぎなのはわかってるでしょ」

「……言わんのか」


 ふっと微笑んだ。


「まあいい」

「それよりなんすか。役員退任には取締役会承認が必要だ。いくら海部さん退任とはいえ、臨時取締役会を開くほどの案件じゃない。なら次の取締役会まではまだ留任されている。なのに金属事業部長室に影も形もないってのは、相当っすよ」

「まあ……そうなるよな」


 ゆっくり、味わうようにグラスを傾ける。


「うむ……うまい。いい具合に熟成されていて」

「で、退任の理由は。……なにか弱みを握られたんすか、反社長派に」

「君も、我が派閥の馬鹿どもと変わらんな」


 苦笑いだ。


「私はね、明鏡止水の心だよ。こうして……無我で酒を楽しめるとか、もう何十年ぶりだろうか」


 斜め上を見て、遠い目をした。いやそっちに例の拘束具があるから、なんかヘンな感じになってるけどな。


「俺は無頼だからどうでもいい。でも海部さん、あんたを神輿に担いでいた、社内政治しか取り柄のない馬鹿が一杯いたはず。連中の人生に悪いっしょ。馬鹿は馬鹿なりに、一所懸命派閥活動してたのに」

「君がそんな馬鹿を擁護するとはね」


 呆れたように見つめられた。


「君はドハズレだろ。そもそもサラリーマンの器に収まり切らない。我が社は鉱山利権を斬った張ったが祖業の商社だから、東証プライム企業にしては無頼の社風を持っている。そんな我が社ですら君は評価できなかった。無能だからじゃない。無能なら異世界事業でこれほどの結果は残せない。ただただ、君は型に嵌まらなかった。それだけだ」


 面白そうな表情だ。


「そんな君が、今更ヒラメのような木端社員をフォローするのか」

「それならそれでいいっすけど、退任理由を教えて下さい。俺だって社長に報告しないとならない、海部さんも知っての通り、俺はあのハゲに懐刀扱いされてるわけで」

「君は口が悪いな。仮にも君の後見人じゃないか」


 首を傾げるとしばらく、黙ったまま俺を見ていた。それから口を開く。


「門割制度」

「は?」

「門割制度は、明治時代になって廃止されたらしいな」

「なんすか、それ。もんわり? 聞いたことがない」

「私は日本の近代史が好きでね」

「はあ」


 いや知らんがな。どうでもいいわ、そんなん。


「箱館戦争のときの土方歳三とか面白いぞ。調べてみたまえ」

「は、はあ……」


 わけわからん。俺を煙に巻くとうまそうに、海部はグラスを口に運んだ。


「主人に言っておく、君はいつでもこの部屋を使えるように。私からの餞別だ。我が社の闇を暴く約束から、私ひとり抜ける償いだ」

「別に俺、サドとかじゃないんで」

「まあいいじゃないか。吉野くんと使い給え」


 俺の顔を見もせずに、つるっと言い放つ。


「なんすか、それ」

「……」


 どきっとしたが、とりあえずとぼけた。黙ったまま、海部は酒を飲んでいる。これ、俺の顔色を探るカマかけだろうか。それともなにか情報掴んでるのかな。


「……こんな部屋を使う相手は居ないっすよ。俺、SMでもないし」


 あれでも吉野さん、少しMっ気あるな。まさか海部の野郎、そこまで……。


「ああそうかね。ならばそのうち、私が贔屓にしているベイビープレイルームにご招待しよう」

「はあ、よろしくお願いします」


 嫌なところに踏み込まれたので、俺も追求の矛先が鈍った。ベイビープレイの真髄とかなんとか経由でどんどん無難な話題に流れていくのを、止めることはできなかった。ヘンに踏み込んで、吉野さん絡みの話で型にハメられたらまずいからな。


 結局その晩、それ以上の情報は無かった。雑談には応じてくれるが、肝心の退任理由とか圧力とかに関しては、話を逸らされるだけだった。

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