2 社内の影

2-1 金属事業部長、動く

 寝過ごした。


 経営企画室。自分の個室にこそこそ潜り込むと、俺はほっと息を吐いた。


 目立たないようにここまで来た。もう遅刻をごまかす必要はない。


「ふわーあ……」


 寝不足だ。大あくびをひとつすると、小型冷蔵庫から茶のペットボトルを出した。この冷蔵庫は、シニアフェローになり個室を与えられたとき唯一、わがままを言って入れてもらったものだ。断られたら自腹で入れるつもりだったから、ラッキーだわ。


「茶がうめー……」


 デスクにどっかり陣取り、窓を眺める。経営企画室は経営中枢。自社ビルでも高層階にあるから、見えるのは隣のビルだけだ。それでも季節によって、全面ガラス窓に映る風景は違う。今は街路樹の緑が反射している。そんな光景を眺めるのが、俺は好きだった。


「やっと来たか……」


 扉を開けて、室長が入ってきた。


「おはようございます」

「なに呑気なこと言ってるんだ、平くん。重役出勤か」


 あらバレてた。


 俺は役員じゃない。だから九時五時という社員の勤務形態に縛られてはいる。とはいえ俺はシニアフェロー。スペシャリストコースの頂点で、マネジメントコースで言うなら事業部長と同等の職階だ。だから多少の融通はいつも利かせてもらっている。だからまあいいだろ。


 それに室長、別に怒った顔じゃない。いつもの無感情クールイケメンフェイス。ただちょっと、イラつきが瞳に浮かんでいる程度だ。


「つい寝過ごして」


 とりあえず適当な嘘でごまかしておく。これも人間関係をうまくこなす潤滑油だ。


「今月の業務報告を、深夜までまとめてました」


 まあ実際は、深夜まで吉野さんやタマゴ亭さんといちゃついてたわけだが。


「平くん、やっと来た」


 吉野さんも顔を出した。


 俺達の同居……どころか仲自体、会社には秘密だ。並んで出勤するわけにはいかない。ぐっすり眠っている俺を置いて、吉野さんは先に出社していた。まあ、よくあることだ。でもなんだろ、吉野さんの顔は暗い。


「なんすか、ふたり揃って」

「なんすか……とか落ち着いてる場合じゃない」


 室長に睨まれた。


「金属事業部長が退任した。突然」

「金属事業部長……って、社長レースの本命じゃないすか」


 それに俺とも握っている。社内陰謀を暴き出す件で。


 海部金属事業部長の顔を、俺は思い浮かべた。そういや、ここのところ異世界案件で忙しくて、海部との接触が途切れていた。その間になにかあったのだろう。


「突然の退任はあり得ないっしょ。金属事業はウチのメイン事業っしょ。そんなことしたら、社内が大混乱だ。退任するにしても、後任選びで自派閥の調整してから社内に根回し、その後任を押し上げるよう裏で政治的に握ってから発表するはず」

「だから大騒ぎになってるんじゃないか」

「そりゃそうっすね」

「なにとぼけてるんだ」

「平くん、彼とは面識あるでしょ。なにか聞いてないの」

「ええ吉野さん。海部とは最近会ってないんで、なんとも……」

「海部さんだろ、平くん。事業部長を呼び捨てにするとか、さすがはドハズレ枠だな」

「それより室長こそ、なにか聞いてないんすか」

「今朝、突然だったからな。昨日まで、なんの噂も無かった」

「はあ、面白いっすねー」


 ようやく、俺の頭が回り始めた。


「事業部長だから執行役員だ。辞めるたって、取締役会の承認がいるはず。すぐには退任なんてできないっすよね。それこそ後任人事とかもあるし」

「ともかく、今日は出社してない。海部さんの派閥はみんなだ。おそらく……どこかで会合を持っているのだろう」

「これは……社内の政治的バランスが乱れますね、当分」

「私のところにも社長から連絡があったわよ、平くん。調べてほしいって」

「メンドいなあ……」


 思わず、本音が漏れた。


「自分でやればいいのに。ハゲとはいえ、ワンマン社長じゃん」

「今のは聞かなかったことにしよう」


 室長は苦笑いしている。


「ともかく平くんと吉野くんは、しばらく異世界に行かなくてもいい。経営企画室のルーティンワークからも外す」

「動けってことすね」

「そうは言ってない」


 とか口にしたものの、室長は頷いている。事は次期社長を巡る、社内政治案件。下手に命令を下すと、自分にも火の粉がかかるからな。


 その点、俺は誰もが認めるドハズレ。変な動き方をしても「平ならしゃあない」になる。最悪、首になるだけ。室長にしても社長にしても、社内の自分の立場に俺はなんの興味もないのは知っている。なんならいつ辞めてもいいと思っていることも。だから動かすなら俺だ。


「わかりました。海部に接触します。今頃、あの派閥は怒号飛び交う地獄の会合真っ最中でしょ。面白いから今、電話しますわ。俺からの電話なら、海部もすぐ出ると思うんで」

「茶化しちゃダメよ、平くん」


 吉野さんは心配顔だ。


「大丈夫っす。海部もハゲ社長と同じ。俺、別に怖くないし」

「海部さん、だろ」


 呆れたように呟くと、室長は眼鏡を直した。


「それに社長の身体的特徴をあげつらうのは止めたまえ。その……」

「ハゲっすね」


 とうとう、室長は噴き出した。




●公開遅れてすみません

人生綱渡り中ですwww

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