2-3 水中バンシースクリーム

 ――もう食われる。レナやエリーナごと――そう思った瞬間、俺に抱き着くエリーナの口が、大きく開いた。大量の泡が吐き出される。と――。


 俺達を包んだ蜘蛛の巣触手が、突然動きを止め、痙攣した。そのまま力が弱まり、腕が開くようにして、俺達を放り出す。


 エリーナ……。


 エリーナはまだ、口から泡を吐き続けている。おそらく、バンシースクリームだ。海中に引きずり込まれ、本体間近まで連れ込まれたからこそ、効果があったんだろう。


 俺はエリーナを抱き止めた。そのまま上に向かって泳ぎ始める。真っ暗な海中から、わずかに光が見えている上方に向かい。


 泳ぎながら見下ろすと、モンスターはぐったりしている。全ての触手はだらしなく周囲に垂れ、まるで干からびた花のようだ。


 もういい。口を塞いでやると、エリーナも意図を汲み取ったようだ。口からの泡の噴出が止んだ。


 ふたり手を繋いで、上に泳ぎ続けた。だが……。


 いや、無理だなこれ。海面はまだはるかに遠い。ここから泳いでも、数分はかかりそうだ。息が続くとは思えない。俺でも無理なのは見えている。まして、バンシースクリームで大量の呼気を失ったエリーナでは……。


 くそっ。みんなと離れてるから、キラリンの転送技もここまで届かない。今頃タマやケルクスは海に飛び込みこちらに向かっているはずだが、間に合うわけもない。


 これは……詰みか。


 自分でも意外なほど冷静になった。


 俺はここで死ぬ。手を繋いだエリーナ、そして胸に潜ったままのレナと共に。


 まあ仕方ないな。ごめん吉野さん、せっかく父親まで紹介してくれ、段階を踏んだのに。それにすまんトリム。お前を生き返らせる前に、俺がそっちに行くわ。まあ冥王ハーデスの世界で、俺達四人で一緒に働こうや。幸せな人生を送るに違いない吉野さんやタマ、それにみんなが合流してくるまで……。


 もう息が続かない。いつの間にかぐったりしたエリーナを抱いた俺の口からも、大量の泡が出てきた。


 ごめん……みんな……。


 諦念が俺を支配した瞬間、胸がいきなり熱くなった。輝いている。レナを収めた場所が。


 と、俺とエリーナの体は急に持ち上げられた。まるで滝から落ちたかのように、逆に海中を上ってゆく。水の抵抗で、目を開けていられない。


 意識が遠くなってきた。俺、もしかして冥界じゃなくて天界に送られるのか。天使亜人キングーの故郷に……。


         ●


「ボス、平ボスっ!」


 タマの声だ。遠くから聞こえる。唇が塞がれた。温かなものに。同時に、俺の魂は、どこか深淵から引き上げられた。意識が戻ってくる。


「タ……」


 唇が離れた。


「気がついたか、ボス」

「タマ……」


 目を開けた。空が見える。ぽっかりとパンのような形の雲が、のんびり漂って。波の音。心地よい潮風に、生臭いモンスターの臭いが混ざっている。ああ、ここは……。


「野郎はどうした」


 起き上がると、額を海水が流れ、目に入って痛かった。ここは船だ。戦闘中だったはずだが、今はもう敵がいない。触手の切れ端がいくつか転がっているだけだ。


「平くん、良かった……」


 吉野さんが抱き着いてきた。泣いている。


「平くんが死んだら、私……」

「死にやしませんよ、吉野さんやみんなを残して」

「愛してる……」

「俺もです」


 落ち着くまで、キスしてあげた。


「吉野さん、あのモンスターは」

「触手はみんな引っ込んだわ。平くんたちが海中に引き込まれて、しばらく経った頃」


 バンシースクリーム効果だな。


「エリーナは? それにレナ」

「大丈夫だよ、お兄ちゃん。安心して」


 キラリンに体を抱かれ、エリーナは身を起こしていた。エリーナの顔色は真っ青だが、気丈に俺に笑顔を作ってみせた。いや、エリーナが捨て身でバンシースクリームしてくれて助かった。あれ命懸けだろ。深い海の底で息を全部吐いたんだから。


「レナ……レナ……」

「ボクはここだよ、ご主人様」


 恥ずかしそうに、キングーの後ろから姿を現した。


「無事だったか……ってお前、なんで光ってるんだ」


 宙に浮かぶレナの体は、金色に輝いていた。まるで白熱電球のように。しかも背中にも、輝く円環を背負っている。


「なんだ、仏像かよ。てか亀の甲羅かよ」

「あ、あんまり見つめないで」


 腿に抱き着くようにして、またキングーの背中に隠れた。


「どういうことだ」


 完全に思い出した。俺とエリーナは海中深く引きずり込まれ、なんとか脱出したものの、溺れかかっていたはず。そのとき俺の胸が光り、急に体が持ち上げられた。すごい速度で。


「あれ、レナがやったのか」

「レナの姿を見たろ、平ボス」

「ああ」

「あれは妖精だ」

「ええ? レナはサキュバスだろ。種族としては」

「妖精の力ですよ、平さん」


 天使亜人キングーが、口を開いた。


「妖精は大地のマナを吸い上げ、とてつもないパワーを発揮する不思議な存在とされています。その姿は小さく、まるで子供のようで、山深い地の神聖な草木の露を受けて誕生すると言われていて。めったには見られない存在です」

「どういうことだ、レナ」

「その……ボク……」


 顔だけ、ぴょこっと出してきた。


「本当は妖精……。ピクシープリンセスなの」

「はあ? だってお前、サキュバスの力持ってるじゃないか。俺の夢に出てきてあれこれしたりとか……」

「それは……サキュバスだから。もうピクシープリンセスじゃない」

「よくわからんわ」

「それより平ボス」


 タマが俺を立ち上がらせてくれた。


「厳しい戦いだった。ボスとエリーナには、休憩が必要。それに全員、落ち着けていないし、今日はもう帰ろう」

「そう……だな」


 みんなの顔を、俺は見回した。たしかに、そうしたほうがよさそうだ。タマ、いつもながら冷静で助かる。


「よし、現実世界に戻る。午後半休ってことで、会社に届、出すわ。風呂入って飯にしよう。真っ昼間から酒でも飲みながらじっくり、レナに説明してもらおうじゃないか」

「いいわね。面倒だし、メインは出前でいいわよね。あと私がパスタ茹でるわ。トマトクリーム缶がたくさんあるから、バターと絡めて食べましょう」

「吉野さん、あたしも手伝うね」

「キラリンちゃん、お願い」

「ぼくもやります」

「あたしも手伝おう。新月の逢瀬に向け、婿殿を喜ばせるレシピをもっともっと覚えたいし」

「はいはい、みんな頼むわね」


 ようやくなごやかになったみんなを集めると、俺はキラリンに転送を頼んだ。


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