4-14 天使の遺した涙

「戻すだけなら、わたくしがお手伝いします。……我が子キングーの側でいいですね」


 どこからともなく、天使イシスの声が響いた。


「はい。お願いします」


 空を見上げて大声で言った途端、俺達は、キングーの小屋の脇に立っていた。転送されたんだろう。キラリンの能力で行ったときと異なり、頭がくらっともしなかったな。


「みなさん……」


 気配を感じたのか、小屋からキングーが出てきた。


「僕にはわかります。天に上って、戻ってきたのですね」

「ああそうだ」

「なら、母に会えましたでしょうか」

「まあね」

「で、では、母はなんと言っていましたか」


 瞳を輝かせ、身を乗り出してきた。淡々としたキングーが感情をあらわにしている。まあ当然だが。


「長い話になる。水をもらえるだろうか」


 とりあえずキングーを落ち着かせないとな。ややこしい話だし。


「これは失礼しました。今すぐ。……こちらにお座りください」


 先日の屋外席に陣取り、水を飲んでキングーが興奮から醒めたのを確認すると、俺は話し始めた。


「そもそも、あんたの母親、天使イシスが地上に下りてきたのには、理由があったんだ。……知らないだろ」

「母が居なくなったとき、僕はまだ子供でしたし。父も話してはくれませんでした。ただ、恨むな、とだけ……」

「発端は、サタンの軍勢が、俺達の世界からバスカヴィルという男を召喚したことだ」


 俺は説明を始めた。


 サタンにどう使われたのかは不明だが、とにかくバスカヴィルは異世界との通路を開いた。おそらくは元の世界に戻るため。ところが異世界通路は予定と全く違う世界に通じてしまい、そこから混沌神と呼ばれる謎の存在が現れた。天使イシスは、調査のため神により地上に派遣された。そして――。


「……では、僕の母親は、神の帰還命令に反してでも、僕や父と地上に留まるつもりだったのですね」


 長く続いた俺の話が終わると、キングーは溜息を漏らした。


「そうさ」

「でも復活するに違いない混沌神から僕を守るため、やむなく天に消えたと」

「ああ。けっして望んで戻ったわけではない。……きっと、辛い決断だったに違いない。わかるだろ」

「……」


 キングーは瞳を閉じた。そのままじっとしている。長い間。どこからともなく鳥の声がかすかに聞こえてきた。冷たい山の風は、とげとげして険しい。天空の細い雲だけが、ゆっくりと動いていた。


「事情は……わかりました」


 だいぶ経ってから、キングーは目を開けた。


「母の気持ちも」

「ねえキングーさん」


 吉野さんは、もう黙っているのはたまらないといった口調だ。


「お母さんの辛さ、わかってあげてほしいの。女なら誰だって、自分の子供がいちばん大事に決まってる。ましてあなたはまだ物心がついたかどうか。いちばんかわいい盛りだったじゃない。それを置いて戻るなんて、身を切るより辛いに決まっているもの」

「そうですね」


 キングーは、水をひとくち含んだ。


「あなた方には、お礼のしようもありません」

「よかった」


 吉野さんの瞳が和らいだ。


「でも僕は、これからどう生きればいいでしょうか。僕の生きる意味――、それは結局わからないままです。なぜなら僕は、この地上にたった独り捨て置かれた天使の亜人なのですから」

「それは……」


 吉野さんが絶句した。たしかにその通りだしな。


「なあキングー」

「なんでしょうか、平さん」

「生きる意味なんてのはな、自分で見つけるんだ」

「自分で……」

「ああそうさ」


 言葉は勝手に俺の口を衝いて出てきた。


「あんたが天使の亜人だからじゃない。みんな同じさ。俺だってそう。生きる意味なんて、わかりゃしない。……ただな、毎日泥のようにもがいているうちに、ぼんやり見えてくることがある。……それが生きる意味ってもんじゃないのか」

「そうでしょうか」

「そうさ。たとえば俺は二十五年、適当に生きてきたよ。生きる意味なんか考えもせずにな。……でも今は違う。俺はこの異世界なら輝けるんだ。あっちの狭っ苦しくて息苦しい、足の引っ張り合いみたいな世界じゃなくてな。おまけに――」


 俺は、吉野さんの手を取った。


「こうも思うんだ。この人を守って幸せにすること。それも俺の生きる意味だとな」

「平くん……」


 嬉しいのか悲しいのかわからない複雑な表情を、吉野さんが浮かべた。


「私なんかでいいの……」

「いいんです。てか、テキトーで投げやりな俺には、もったいないくらいです」

「そんなことない。平くんは立派な人で、私の大事なご主人様」


 俺の手を、ぎゅっと握り返してきた。


「吉野さん……」

「平くん……」

「ねえご主人様」


 レナが口を挟んできた。


「盛り上がってるとこ悪いけどさ、話がずれてるよ」

「そ、そうか」


 見回すと、タマ、レナ、トリムと、吉野さん以外の全員が、ほぼ同意見のようだ。てか呆れたような顔してるしw


 悪かったな。つい盛り上がっちゃってさ。


「と、とにかくだなー。キングーお前も、ここで世捨て人のように引き篭もってるんじゃなくて、里に下りてなにか始めてみてはどうかってことさ。なんでもいいんだ。目についた仕事でも、人助けでも。……それでこそ、生きる意味も見つかるだろうし」

「僕が里へ……ですか」

「ああ、あんたの力を求める人も多いだろう。それでも生きるのが辛くなったら――」


 キングーを立たせると、イシスの白真珠しろしんじゅ――例の白銀の珠――を、俺は手渡した。


「こいつに祈るんだ。これはな、珠なんかじゃない。母親が、子供のために遺した涙の粒だよ。心残りの、天使の涙さ。あの詩にその気持が溢れてるだろ。暗唱してるんだからキングー、あんたにもわかるはずだ。……でも、今は違う。別離に泣く悲しみの涙じゃなくて、再会の、喜びの涙さ」

「どういう意味でしょうか」


 戸惑っている。


「これに祈れば、天使イシスが空蝉うつせみの姿を現し、お前と対面してくれるってよ」

「は、母が現れるのですか」


 手のひらに乗せた珠を、キングーは凝視した。


「ああ、さっき話したように、サタンの代替わり案件で、イシスは天を離れられない。でも愛しい息子と話せれば、イシスの心も救われるってもんさ」

「ああ……ありがとうございます」


 いきなり抱き着いてきた。


「平さん。あなたは僕の救世主です。なんと……なんとお礼を言っていいやら」

「わ、わかったから少し離れてくれ」


 キングーの体、感触だけだとマジ女じゃん。柔らかいし、服を通して胸も感じる。なんか知らんが、俺を興奮させるような、甘い香りまでする。このままじゃあ自動的に反応してしまうーっ。


「こ、これは失礼しました」


 我に返ったのか、はっと体を離した。


「す、すみません」


 うつむくと、みるみる赤くなってきた。


 本当にアンドロギュノスなのか、こいつ。最初に会ったときは線の細い美少年と見えたが、今は普通に美少女にしか思えない。そのときどきでどっちの性が強いか変わるとか……。まさかな。こんなんマリリン博士に話したら、またぞろ精子と卵子を取ってこいって言われっちまうわ。


「まあともかく、俺達がいなくなったら、さっそく試してみるんだな」

「ありがとうございます。絶対そうします」

「さて、じゃあ教えてもらえないかな」

「なにをですか」


 けろっとしている。




 ズコーッ。




 頭の中で謎擬音が鳴り響いたw


「なにって決まってるだろ。延寿えんじゅの秘法か、失われた三支族の隠れ村。それにわかるなら、シタルダ王国との境に生じた謎の結界封印のことだよ」

「そうでしたね。約束でした」


 キングーは微笑んだ。


「母の話に気を取られ、すっかり忘れていました」

「忘れられちゃあ困るんだっての」

「その件ですが、実は……」


 キングーの話は、長く続いた。



●次話から新章、新展開です!

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