3-9 回転流木
「吉野さんっ」
「平……くん」
無我夢中で泳ぎ、なんとか追いついた。吉野さんとトリムは、抱き合うようにして浮かんでいる。
「私は大丈夫」
「あたしも」
顔こそ恐怖で青ざめているが、どうやら怪我はなさそうだ。溺れているわけでもない。
「安心しました」
「ご主人様、タマも来たよ」
今は俺の頭の上に浮かんでいるレナが指差した。レナは空を飛べるから、こういうときは便利だな。視野も広いし。
タマは犬かきというか猫かきで泳いできたが、やたらと速い。クロール全力水泳より速いから、なんかケットシーならではの泳法があるんだろう。
「ふみえボス」
「タマちゃん、私は平気」
「良かった」
タマが吉野さんをそっと後ろから抱いた。支えているのだろう。
「さて、どうするかだが……」
俺は考えた。幸い水温は高くて、湯冷めした風呂くらいある。だから短時間で凍えることはない。といってもこのままずっと流されてても意味はない。偶然どちらかの岸に流れ着けそうな位置じゃないから。
泳ぐしかないだろう。
対岸――つまり蛮族の地までの距離は、ざっと百メートルほど。泳げない距離ではない。岸辺は緩やかな起伏になっているから、上陸も難しくないはず。元いた岸、つまりヒューマン側は遠く、霞んでいて見えない。体力とリスクを考えるなら、蛮族側を目指すべきだ。
「吉野さん。泳げますかあそこまで」
対岸を示すと、吉野さんは頷いた。
「水泳は得意じゃないけど、ゆっくりの平泳ぎなら息継ぎはできる。なんとかなるんじゃないかな。……ただ服がまとわりついて動きにくいから、ちょっと不安。私が苦しくなったら、助けてね」
なんとか笑顔を作ってくれた。
「もちろんです」
タマとトリムが泳げることも確認した。
「よし。全員、近接したままで対岸に泳ごう。ゆっくりだ。トリムは特に吉野さんの近くにいてくれ。ふたりロープで結ばれてるから、脚に絡みでもしたら危険だからな」
「わかったよ平」
「平くん、私は大丈夫だから」
「俺とタマは状況が見えるよう、ふたりの少し後ろからついていく。吉野さんが苦しくなったら、まずトリム、お前が助けるんだ」
「平。任せて。あたし、里ではよく川の淵で泳いで魚獲ったりしてたし。手づかみで」
「なんだよ。トリムお前、ハイエルフじゃなくて河童じゃないのか」
「カッパーってなに、平」
「日本のモンスターだよ、トリム」
レナが解説を始めた。
「この世界にもいるって聞いたことあるけど、多分ずっと辺境じゃないかな。水棲モンスターはこの大陸にはほとんどいないって話だし」
「よし、じゃあ泳ぐぞ。いいか、ゆっくりだぞ、ゆっくり」
全員頷くと、泳ぎ始めた。レナは俺の頭上で、周囲を警戒している。俺は頭を上げ体を起こしたままの平泳ぎで、吉野さんに注意して。
苦手とか言ってた割に吉野さん、きれいに泳いでる。あれならそう疲労は溜まらないだろうから、百メートルはなんとかなりそう。てか頭上げたままだと、俺のが疲れて溺れそうだ。吉野さんの観察は、猫かきのタマに任せて大丈夫だろう。俺は普通の平泳ぎに泳法を切り替えた。
「ご主人様っ」
十メートルほどは泳いだろうか、レナが頓狂な声を上げた。
「流木が来る。でっかいの。ぶつかると危険だよ」
指差す上流を見ると、たしかに。駅のベンチなんかよりはるかに長い流木――それも枝葉を広げまくってる奴――が、ごろごろ回転しながら流されてくる。水面下の枝葉が水を受けるから、水車のように回ってるんだろう。
「避けよう。吉野さんとトリムはちょっと急いでくれ。俺とタマは逆に戻る。あれちょうど間に来そうだからな」
「わかった」
五メートルほど間隔を空け、間を通した。水中から回って出てきた枝の葉が、派手にしずくを散らしてぱらぱらと音を立てる。
なんとかやり過ごしたと思った瞬間、しずくの向こうに見えていた吉野さんとトリムの頭が水中に消えた。
「ご主人様、ふたりが!」
「ロープが引っかかったんだ、くそっ」
多分、枝の末端あたりに絡んだんだ。
タマはすぐに潜水した。俺は全力で泳いで吉野さんたちが居たあたりまで進む。大きく息を吸ってバスカヴィル家の魔剣を抜剣。柄を咥えると、頭から潜った。
澄んだ水で、すべてがよく見えた。やはり絡んでいる。しかも流木が回転するから、ウインチのようにロープが巻き取られていく。
回転に翻弄されるだけではなくどんどんロープが短くなるから、ふたりはもう水面に顔を出すのも難しそうだ。タマが張り付いてなんとか外そうとしているが、手こずっている。俺が魔剣で切るしかない。
だがふたりの体が高速で回転するから、うまくロープを掴めない。このままではふたりとも溺れてしまう。
焦ったそのとき、水中に凄い勢いで突っ込んできたレナが、俺の腕を取った。上を指差している。
取り急ぎ水面に浮上すると、レナが対岸を示した。
「ご主人様。人影が」
見ると、十人ほどが、こちらを指差してなにか叫んでいる。大丈夫かと言っているようだ。遠目だからよくわからんが、人型なのはたしかで、姿かたちはけっこうバラけている。どんな連中か不明だが、ヒューマン以外の種族が交じっているのは確かだろう。
「敵か、レナ」
くそっ! それどころじゃないってのに。あと三分でなんとかしないと、吉野さんもトリムも死んでしまう。
「ポップアップモンスターじゃないよご主人様。国境周辺の蛮族は友好的。山賊とかは別だけど、服とか見ると、多分ただの住人。助けを求めたほうがいい」
「もちろんだ」
たとえ山賊でも同じこと。とっ捕まろうがなんだろうが、今ここで空しく死ぬよりは全然マシだ。
手を振ると大声で、水中でふたり木に引っかかってると告げた。何人かが川に飛び込み、大きなストロークでぐんぐん進んでくる。誰かが呼んだのか、対岸にはどんどん人(?)が増えてきた。何人かでカヌーのような船を抱えてくる連中もいる。
「レナ。お前はここで連中に説明して指示しろ。頼んだぞ」
「うん。吉野さんとトリムを助けて、ご主人様」
切実な瞳だ。
「任せろ」
魔剣を咥え直すと、俺はまた潜った。とにかくロープをなんとかしないことには、埒が明かない。
水中では、タマがうまいことロープを枝から外しつつあった。ロープはどんどん捻じれていくが、ふたりの体が巻き取られることは、もうない。……ただ、水面に顔を出せるような長さまでは解放できていない。
ハイエルフは潜水が得意なのか、特に苦しがる様子もなく、トリムはタマの作業を手助けしている。
吉野さんは苦しそうだ。もがいている。口から少し泡が出た。もう息止めが限界に近いに違いない。吉野さんの口に、トリムが自分の唇を重ねた。
泡が大量に出ると、止まる。どうやら一度息を吐かせて、自分の肺から息を送り込んだようだ。吉野さんがトリムに頷いている。
これでしばらくは持ちそうだ。
俺は泳いだが、なかなか進めない。時間だけが無為に過ぎていく。
正直、焦った。いくらトリムに息を継いでもらったとはいえ、持ってあと一分かそこらだろう。
と、俺の姿を見て取ったのか、尻尾を器用に振りながら、タマがものすごい勢いで泳いできた。俺を丸抱えにすると、ふたりの側まで進んでいく。魚雷並の速度だ。
吉野さんの口から、泡が大量に放出された。頭をがくがく振って、苦しそうにもがいている。トリムは、吉野さんの体を抱き締めている。トリムの肺には、空気が残っていないということだ。もう一秒だって時間がない。
あっという間にふたりの脇に着いた俺は、魔剣の柄を強く握り締めた。ここで手が滑って落とすようなことがあれば、一巻の終わりだ。そのままの勢いで、吉野さんの脚に絡んだロープを切る。ぐったりした吉野さんを抱えると、タマが水面へと向かって突き進む。
続いて俺は、トリムのハーネスに取り付いた。
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