ラブコメの当事者(後編)

 デートと告白という、杏子にとって非現実的なようで現実で巻き起こったあの日から数日が経過した。優一からは謝罪の連絡があったが、それ以外のやりとりは特になかった。

 あの日の出来事と、自身が未だにはっきりとした結論を出せていないことにもやもやが止まらず、上の空が続く。

 おそらく周囲で様々なラブコメが繰り広げられているはずなのだが、それらに気付くことさえもない。


「おい! 大橋! どうなってんだ!」

 ……このように、わざわざからまれることがなければ、の話だが。


 廊下に配置されているロッカーから教科書を取りに来た杏子の元に、親友の幼なじみである戸成健太が怒鳴り込んできた。

 簡単に説明すると、健太は幼なじみの神園美咲に片思いをしており、既に数回フラれているが、未だに諦めきれずに杏子へ協力を求めている状況だ。一途な彼の愛は褒め称えてもよいかもしれないが、あまりにも傲慢な態度が玉に瑕……いや、致命傷になっている。そのため、顔はいいのに性格が原因で成就しない恋を続けている哀れな男である。容赦ない言い方なのは、傲慢な態度に翻弄されてきた杏子の憎しみがにじみ出た結果である。

「ああ、戸成か。何?」

 杏子は力なく尋ねると、既にご立腹の健太はものすごい剣幕でまくし立てた。

「何? じゃねーよ! 最近の美咲はどーなってんだよ! あぁ? 例の転校生と仲良すぎじゃね!?」

「そういう運命だったんだよ。おつかれ」

「おつかれじゃねーよ! なんとかしろ!」

「えぇ……こないだ美咲に怒られたんでしょ? わたしに迷惑かけるなって。忘れたの? 鳥頭なの? あ、鳥に失礼か」

「今はそんなことどーでもいいんだよ!」

「いや、わたしだって戸成のことどうでもいいんだけど」

「あぁ?」

 一人で熱くなっている健太と、淡々と返事をする杏子の温度差は計り知れない。

 廊下を通り過ぎる生徒たちが好奇の視線を送るが、誰一人として関わろうとする者はいない。戸成健太という男は、関わると面倒になると校内で有名なのだった。

(ほんとこいつ、飽きないな……何年このやりとりしてるんだろ)

 心の中でぽつりと呟き、大袈裟にため息をついた。確かに呆れているのだが、それでも根拠のない自信で杏子を頼る健太の神経に尊敬の念さえも抱く。

「ていうかさ……あんた、自分が自分がって言うけどさ、わたしのこともちょっとは考えてよね。わたしだって自分のことで精一杯なんだから」

 気も遣わずに言いたいことをズバズバ言えるのは、自己中で言葉遣いの悪いこの男のおかげかもしれない。

 杏子は心の片隅でぼんやりと考えながら、健太にぼやいた。目当ての教科書を引っ張り出し、静かにロッカーの扉を閉じる。

 だが、杏子はちょっとした違和感を覚えた。杏子が健太に直接ぼやくことは何度もあるが、いつもならすぐに言い返され、口喧嘩に発展しているはずだった。

 なのに今の健太は、驚くほど大人しい。先ほどの怒りがピタッと止み、驚いた様子でぱちくりと瞬きを繰り返していた。

「え? 何? お前って好きなヤツとかいるの?」

「え?」

 物珍しそうな目で見つめる健太に、杏子は戸惑う。一方的な健太の八つ当たりは数え切れないほど受け止めてきたが、このような展開は初めてだったのだ。戸惑う杏子のことなど知る由もなく、健太は爽やか(に見える)笑顔を浮かべて言葉を続ける。

「んだよ。大橋から一切そんな気配を感じなかったから、気を遣ってお前のことは聞かないようにしてたのによー」

「え、ちょっと待って。なんでそんな流れになってんの?」

「自分のことで精一杯って言ったろ? つまり……そういうことだろ? 誰だよ?」

「大橋さん、それ本当かい?」

 すると、健太とは別の声が割り込んでくる。

 慌てて後ろを振り返ると、そこには先月転校してきた睦月春秋の姿を捉えた。短髪の黒髪に整った容姿。かけている眼鏡をくいっとあげ、真面目そうな表情を浮かべている。

「む、睦月くん!? いつの間に……」

「んだよ転校生!」

 なお、春秋も美咲に気があり、健太とは先日正式にライバル関係を結んでいるため、どこか健太が一方的に噛みついているような状況である。警戒心丸出しで叫ぶ健太だったが、春秋は気にもとめずに話を続けた。

「戸成にからまれている大橋さんをどのタイミングで助けようか悩んでいたら、急展開が訪れてな。話は聞かせてもらったよ」

 真面目な顔をして、ただの野次馬だった。

「おお、そうなんだよ! あの大橋がなぁ……お前も協力しろ!」

「君にそう言われずとも協力はするさ。恩人だしな」

 そして、頼みもしないことを気前よく引き受けていた。

 先ほどライバル関係だと紹介したばかりだったはずが、あっさりと協力関係を結んでいる。

「え、ちょっと! 何言って」

 いい加減に止めに入らねばと口を開いた瞬間、タイミング悪く次の授業が始まるチャイムが鳴り響いた。

「よし! 昼休みに中庭集合な! 美咲も呼んで作戦会議だ!」

「えぇ……」

「わかった! 後で詳しい話を聞かせてもらうよ、大橋さん!」

「なんでぇ……」

 有無を言わさぬ流れに逆らうこともできず、杏子はまた別の意味で頭を抱える羽目になった。



***



「というわけで、面白そうだから大橋の協力をするぞ!」

「健ちゃんは帰った方がいいと思う」

 と、幼なじみの美咲が。

「戸成の無神経さで無茶苦茶になる可能性があるな」

 と、転校生の春秋が。

「初対面で申し訳ないけど、真剣に悩んでる人を面白がるのはどうかと」

 と、杏子のクラスメートでいろいろあり最近仲良くなった坂上愛菜が。

「人の心配する前に自分の心配すれば?」

 そして、杏子自身も健太へ辛らつな言葉をぶつけていた。

 冷たい視線が杏子だけならダメージもなかったのかもしれないが、今回は四人分……しかもそのうち一人は恋する相手となれば、健太が受けるダメージも計り知れないようで。

「おい! さすがに傷つくぞ! 場を和ませるジョークだろ!」

 と、少し震える声で健太が叫んだ。第一声から無神経さ丸出しのセリフが飛び出してしまったのだから、ある意味自業自得ではある。


 中庭に集まった五人は、美咲が持参したレジャーシートに丸くなって座り、各自で用意した昼食を広げていた。ちょうど天気もよく、気候も過ごしやすい。爽やかな風が杏子たちを包み込むようで、今日は外で食べるにはちょうどいい環境だった。

 今回は杏子の話を聞き、協力しようという体で言い出しっぺの健太と春秋、親友の美咲と友人の愛菜が集まった。この四人は偶然にも杏子に何かしら恩返しをしたいという気持ちがあるらしく、快く集まってくれたらしい。

 杏子はそう聞かされているが、正直なところ戸惑っていた。あの自己中で傲慢な健太が主導であることに我が人生ベスト三に入るほどの驚きを感じている……だけど、それだけではない。わざわざ杏子のために集まったところにも驚いていた。戸惑っているのは、慣れないことの連続というのが大きいが……。

「健ちゃんのことは放っておいて、杏子の話を聞きましょ」

 健太の幼なじみである美咲は、健太に対して残酷な態度を取りつつ、にっこりと笑顔を浮かべながら話を進める。

「黙秘権を……行使したいのですが……」

「ん?」

 恐る恐る尋ねたが、美咲の笑顔に黙殺された。

「大好きな親友が困っているのに、今更話も聞かずにただきゃっきゃとお昼を食べるわけにはいかないでしょ?」

「神園さん……意外と強引なんだね……」

「そうかな? でも愛菜ちゃんもそうだよね?」

「まあそうだけどね」

 既に楽しそうな女子二人に、どこか居心地が悪そうな男子二人。追い詰められた一名。

 だけど、行き詰まっていることは事実で、八方塞がりな状態に変わりはない。

 ここはひとつ、ラブコメのプロフェッショナルな人たちにアドバイスをもらうのも悪くはないのかも知れない。

「……じゃあ、少しだけ」

 杏子は覚悟を決め、先日のデートの話をざっくりと打ち明けた。



+++



「で? 何に悩んでんだ?」

 何故か一番ノリノリの健太が、遠慮することもなく尋ねた。

 ここでも先ほどのように、健太へ全員からの辛辣なツッコミが入る……かと思いきや、全員黙り込んでいる。

「えっと……」

 気まずいと感じた杏子は、何か言わないと、という気持ちで口を開く。

 しかし続く言葉が思いつかず、すぐ沈黙に加わった。

「杏子は、優一くんのことどう思ってるの?」

 気まずい空気に負けず、次に親友の美咲が尋ねる。実を言うと、そこが杏子の中でもやもやしている部分だった。今でも、答えが見え隠れしている。

「……わかんない」

 だから素直にそう答えた。もしここで即答できるなら、今こうして相談することはありえなかっただろう。

「まあ、そうだよね! わかってたらとっくに付き合ってるだろうしっ」

 杏子の心の中で思っていたことを、愛菜が改めて口にした。

 そう。この部分がしっくりくるなら、杏子はどこまでも進めそうな気がしたのだ。

「じゃあ……大橋さんは、その優一という男にされたことについてはどう思っているんだい?」

 だが、その中で春秋がどこか建設的な問いをぶつけてきた。はっと息をのんだ杏子は、全員の視線を浴びながら考え込む。

「そんなこと考える余裕なんてなかったよ……驚いたし、初めてのことが多くて……」

 人に壁ドンをされたことも、異性と手をつなぐことも初めてだった。嫌ではなかったはずだが、驚きや戸惑いがあったのは事実で。でもそれが嫌悪感と直結するとは言い難い。


「よし。じゃあ俺が壁ドンしてやるよ。比較してみると見えてくるものもあるだろうしな!」

 そこで突然、ノリノリな健太が両手を大きく開いた。にこやかな表情と対照に、杏子の表情は歪んでいく。

「やだ」

「は?」

「戸成には並々ならぬ恨みと憎しみと怨念を抱いているから無理。ごめん」

「大橋!!」

 健太にしてはナイスアイディアであることに変わりはないのだが、相手が悪かった。明確に嫌っている相手とわかっているからこそ、杏子は早いうちに却下したのだ。実際にやられた時には、もしかしたら手をあげているかもしれない。

「じゃあ転校生! お前やれ!」

 しかし諦めない健太は、次の矛先を春秋に向ける。

「えっ!?」

 だが、そこで真っ先に反応したのは美咲だった。その反応に一同が驚いたが、一番驚いているのは美咲本人である。無意識だったのかも知れない。

「美咲?」

 不思議に思いながら杏子が尋ねると、顔を赤くした美咲は気まずそうに下を向く。

「な……何でもない! 続けて?」

 あからさまに様子がおかしかったが、それは後で確認しようと心に決め、杏子は春秋に視線を移す。その表情は困惑の色に染まっていた。

「ていうか、意外と距離近いんだよ? 睦月くんがかわいそうだからやめよ」

「はあ? ノリ悪いなぁ」

 反感を買うのは自分だけでいい。

 杏子はそう割り切り、春秋の答えを待たずにそう言った。

 健太は不満げな様子だったが、すべてを察した愛菜は杏子に微笑みかける。

「まあまあ。戸成くんは杏子ちゃんを思っていろいろ意見出してくれてるけど、それが杏子ちゃんには合わなかった。そういうことだよね?」

 ここでも傲慢な態度を責められるかと思いきや、初めて愛菜が健太を思いやった。それに一番驚いているのは健太で、少し照れくさそうに明後日の方向を向いている。

「ま……まあな。大橋には世話になってるし、うだうだ悩まれると相談しづらいしな」

「初めて戸成がデレた」

「私も健ちゃんのデレたとこ久しぶりに見た」

「うっさいぞ大橋!」

「美咲は無視なの!?」

 だんだん元の道から離れていく会話だったが、杏子自身はすっかり楽しんでいた。

 嫌いと言いながらも、これくらいの会話なら健太とのやりとりも苦ではないし、健太を嫌っている割には美咲も楽しそうだ。春秋も美咲とご飯を食べるのが幸せそうだし、春秋に片思いをしていた愛菜も今では別の人と付き合っているせいで普通に楽しそうだし。

 何だか偶然作り上げられたこの状況だったが、このまま結論が出なくてもいいように思えてくる。記憶をどれだけ掘り起こしても、大嫌いだった健太とこれほどに楽しい会話をしたことがなかった。しかも、杏子を少しでも案じているとは思いもしなかったのだ。

 それだけでも大収穫だと、杏子は思う。

「まあ、僕からすれば、大橋さんの望むとおりに動いていいと思うぞ。相手が好意を持っているならきっと大丈夫だ」

 いきなり話を戻した春秋が会話に割って入ると、統括するような意見を述べた。そして、一同はこくりと頷く。

「杏子ちゃんの気持ちは杏子ちゃんのもので、きっと私たちが『やめた方がいいよ』って言っても、割り切れないことってあると思うんだ。だから素直になっていいと思う」

 優しく語りかける愛菜に、杏子の表情も穏やかになる。

 結局、辿り着く場所はそこで。

 恋する者はみな、自身の気持ちを受け入れながら行動しているのだろう。

 春秋に片思いをして驚異のダイエットに成功した愛菜、幼なじみに何度フラれても諦めずに想い続けている健太なんかは特にそうで。そんな熱い想いを美咲が断っているのもまた、自分の気持ちに正直になった結果で。ここまで表面上派手に動いていなくても、ひっそりゆっくり愛を育んでいる春秋のような者もいる。


「そうだね。うん……そうかも」


 杏子はどこか悟ったような返事をした。

 何故、杏子はためらってしまったのか。あの日、走り去る優一を引き留められなかったのか。

 今の杏子には、少しだけわかるような気がする。

 これまで見ているだけの第三者だった杏子。人の恋愛をうらやんだり、妬んだり、様々な感情を抱くだけで、何もしなかった杏子。

 そしていざ自身に降りかかり、当事者になってみると、怖くて動けなくなって、どうしていいのかわからなくなって、フリーズしてしまった。


 ただひとつ言えるのは、杏子がこれっぽっちも優一を嫌っていないこと。むしろ、その逆と言ってもいいかもしれない。それくらいの想いが、確実に杏子の心に宿っていた。

 そう、未知の世界に……新しい関係へと変わっていくことが怖かっただけだ。

「ありがと、みんな。……特に、戸成。ありがとね」

 今日一番の笑顔を浮かべた杏子を、一同はあたたかく受け止める。

 もう迷いはない。

 踏み出すことは緊張するけれど、きっとなんとかなる。

 杏子はそう信じていた。



***



 また後ろ向きになる前に、杏子は相談したその日に優一へ連絡を取っていた。

『今度、また会いませんか? 二人で』

 ただそれだけのメッセージを送るのに三十分もかかったが、おそらく杏子から連絡しない限り会うことはできないだろうと察し、一生懸命……だけどシンプルな言葉をぶつける。

「……もうちょっと、挨拶的な言葉入れればよかった? いきなりすぎたか……あーもう!」

 送ってから数分後、杏子には後悔が押し寄せていた。

 誰に聞かせるわけでもない独り言をぶつぶつと呟き、時折叫んだりもする。

 その度にため息をつき、布団の上をゴロゴロと転がっていた。

 すると、何かを着信したのか、スマホが震える。

 がばっと飛び起きた杏子は、慌てて中身を確認し……また布団の上で悶え転げる。


『いつにする?』


 いつだったか、似たようなやりとりを交わしたことを思い出す。

 当時は立場が逆で、自然とあの日のことが脳内で蘇っていた。あの時は確か、自身を『ヒロイン』と呼び始めていたように思う。ずっと当事者になれず、見ているだけの杏子が、ようやく視線の先で繰り広げられる光景と同じ立場になれると浮かれていた。

 一線を越えるための第一歩を踏み出すだけ。

 向こう側から手を差し伸べてくる優一の手を掴むだけ……そう思っていた。


『明日の放課後……優一くんに会いに行くよ』

 再び優一と会ったとき、告白されて頭が真っ白になって、杏子は何もできなかった。

 だけど今度は……今度こそ、きっと伝えられる予感がしている。

『初めて会った場所で会おう』

 急な話のため断られてしまいそうだったが、決意が揺らぐ前に会って話をしたかった。自分の気持ちを伝えたかった。

『わかった。また明日な』

 優一からはそれだけ返ってくる。

 ひとまず断られなかったことにホッとすると、杏子は『ありがとう』と返信をして枕に顔を埋めた。

「……絶対、明日は言う」



***



 翌日、放課後まで緊張に支配された杏子は、ぐったりとした状態で電車に乗っていた。

 なんと話を切り出すか迷いに迷ったが、既に言うことだけは決まっている。

 あっという間に目的の駅に到着し、電車を降りたところで優一から到着のメッセージを受信した。一気に心拍数は上昇していき、不安が杏子を襲う。新たな世界へ踏み出す一歩に怯えそうになる。

「……しっかりしなきゃ。言うんだから」

 何度か深呼吸を繰り返し、頭を振って前をしっかりと見据え、歩き出した。



 杏子がホームから改札口へ向かうと、改札を出た先に立っていた優一が杏子に手を振っていた。その振り方は控えめだったが、どこか愛らしく見えて杏子は一瞬気が緩む。だがそれも一瞬のことで、思わず立ち止まってしまった杏子は手を振り返す余裕もなく、優一を見つめることしかできなくなった。

 ……改札を出てしまえば、確実に何かが変わってしまう。向こう側へ行ってしまえば、杏子は別の向こう側にも行ってしまう。

 視線の先で、優一が不思議そうな表情を浮かべた。立ちすくむ杏子の足は一歩も動く気配がない。

(早く行かなきゃ……普通に周りの迷惑だし。でも……)

 心の中では何度もそう呟くが、身体は言うことを聞いてくれなかった。


「杏子!」


 すると、改札の向こう側から優一が大きな声で叫んだ。

 周りが杏子たちに対して『なんだ?』と言いたげな視線を向けており、それがぐさぐさと突き刺さる。

(ああ……今わたし、前に煙たがってたカップルみたいなことしてる。あんなに迷惑がってたのに……自分に少女漫画みたいなこと、できないって思ってたのに……)

 こわばっていた杏子の表情は緩んでいき、これまでのことを思い出しながら笑っていた。

 心が緊張から少しずつ解放されていくのを感じていると、いつしか足は自然と動き出す。


 このまま進んでしまえば、もう元には戻れない。

 だけどこの先に、楽しい世界が待っている。楽しいだけじゃないのかもしれないけど、今、杏子が生きている世界にない何かがあると確信していた。



 ゆっくりと歩き出し、ICカードをかざして改札をくぐり抜ける。

「優一くん!」

 それから、待ち構えていた優一の両手を掴み……またためらうその前に、想いを打ち明けた。どうなってもかまわない。不思議とそう思えるような心境である。

「わたし、優一くんの言うとおりになったよ。他の人たちが気にならなくなった。ほんとに……優一くんしか気にならなくなった!」

 その言葉はまとまりのないものの塊だったが、下手に取り繕っていない素直な言葉だった。

 優一は驚きのあまり口を半開きにしたまま固まっている。それでも杏子は止めなかった。

「わたし、こないだの……デート、びっくりしたけど嫌じゃなかったよ! 逆に解散が早まったのが……残念だったし」

「マジか」

「そう、マジなの」

 ここで一度黙り込み、杏子は一度深呼吸をする。すると、一気に心臓の音が加速しているような感覚に襲われた。

(ああ……あの時、優一くんもこんな感じだったのかな)

 いきなり告白してきた彼を思い出し、ようやくその立場を理解する。

 この緊張を乗り越え、自分に伝えてくれた気持ちを思いだした。あの日、うまく受け止め切れなかったはずの想い。


「わたし、優一くんのこと好きみたい。付き合ってほしい」


 その返事を、やっと伝えることができた。

 たくさんの人が溢れる駅のはずが、何故か今は人の気配を感じない。感じる余裕がない。

 ああ、だから、この世の中のいろいろな場所で、ラブコメが繰り広げられていたのだ。

 本人たちにしかわからない世界、あふれかえる想い。


 しかし、自分のことでいっぱいいっぱいで、伝えられたことにホッとしたのもつかの間、すぐに返事が気になって不安に浸食されていく。

 目の前の優一は驚いたまま固まっていた……と思いきや、突然その場にしゃがみ込んだ。

「えっ、優一くん?」

 つられて杏子もしゃがみ込み、顔をのぞき込む。

 口元に手をやった優一の表情は驚きで満ちているが、顔色は赤い。杏子とは目も合わせず、動揺しているように見えた。

「マジでマジでマジでマジで」

 壊れたおもちゃのように同じ言葉しか言わなくなり、杏子はぎょっとする。どんな反応をしていいのかもわからない。

 しかもようやく杏子は我に返ったのか、周囲を気にする余裕ができたおかげで、痛々しく刺さる視線に気がついた。

 男女の高校生が、雑踏の真ん中で様子がおかしいやりとりをしている。それは一目瞭然で、好奇の目を向けるのも当然だった。

(もう! さっきもそれ自覚してたのに! めちゃくちゃ恥ずかしくなってきた! 死にたい!)

 冷静になると、一気に羞恥の感情一色となる。一刻も早く、この場を立ち去らなければ。

 杏子は恐る恐る声をかける。

「ゆ……優一、くん?」

 そろそろ移動した方がいい……せめて、隅っこにでも。

 続けてそう言おうとしたが、彼の予測もつかない行動に阻まれてしまった。


「マジかー!」


 油断していたということもあったが、優一が突然抱きしめてきたことを予測することもできず、杏子はされるがままとなる。頭の中は白く塗りつぶされ、なんと声をかけようとしたのかさえ思い出せない。

 ただ、彼のぬくもりが流れ込んできて、二人分の重なる心臓の音が妙に心地よくて。親友に抱きしめられるのとは違う、力強い感覚に安心感を覚えていた。

「絶対だな! 撤回は許さねーから!」

 顔は見えなくなってしまったが、今までに聞いたことのないような弾む声色に、杏子は思わず微笑む。

「こんな大事なことで嘘ついたりしないよ」

「ほんとに?」

「ほんと」

 ここでようやく解放され、二人はゆっくりと立ち上がった。目が合うと、自然と笑みがこぼれる。

 なんと言葉にするのがいいのかと悩むところだが、誰かと両想いになるという喜びは、これまでに感じたことのないような幸福感をもたらした。



「き・み・た・ち」

 刹那、突然背後から声をかけられた。優一でも杏子でもない、別の知らない声。

「え?」

 何も考えずに声の主へと視線を移すと、そこには若い駅員男性が立っていた。

「いや~見てたよ! おめでとう! 青春だね! いいねいいね!」

 異様なテンションで話しかけてくる駅員に、二人は驚きながらもこくりと頷く。

「ど……どうも」

 優一がなんとか声を絞り出すが、謎の展開に思考が追いつかない。

「でもね。せめて、道の脇の方でやろうか? な?」

 駅員が優一の肩をぽんっと軽くたたく。優一と杏子は、そこでようやく現実を見ることが出来た。

 いや、実際は途中途中で気付いていたはずだったのだが、いつの間にか雰囲気に飲まれて見失っていた。

「じゃ、そういうことで。末永くお幸せに~」

 言いたいことを言った駅員は、満足したのかそのまま去って行き、二人は黙って隅の方へと移動する。


「……恥ずか死にたい」

「死ぬな。オレたちの人生は今始まったんだぜ?」

「少女漫画みたいなことしちゃった……」

「よかったな。うらやましかったんだろ?」

「そういうんじゃないの!」

「そうか?」

「そうなの!」

 何故か小声で話す二人は、先ほどよりも軽快なリズムで会話のキャッチボールを繰り返す。杏子は恥ずかしさのあまり若干涙目になっていたが、対照的に優一は落ち着いた様子で話している。

「あーもう……この駅しばらく来ない」

 大きなため息がこぼれ、ほんの少しの後悔が過ぎる。だが、それが通り過ぎていくと、もうひとつの現実を意識し始めた。

 それは夢じゃない。ちゃんとした、現実。


「……で、わたしたち……恋人同士ってことでいいんだよね……?」


 ちらりと優一を見る。

 先ほどの喜びようや彼の告白を思い出すとそうなるが、実感があまり湧かずに尋ねてしまった。

 この先はもう、未知の世界。二人で作っていく未来が待っている。

 それを全部わかってか、優一はにこりと笑いかけ、こう言った。



「ああ、これからよろしく。オレの彼女さん」

「うん。よろしく、わたしの彼氏さん」



 そして二人は手をつなぎ、新しい世界の第一歩を踏み出したのだった。



~HAPPY END~

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ラブコメの目撃者 葉月あやね @tsukuneumai

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