ラブコメの当事者(前編)
普通の女子高生・大橋杏子にとって、恋愛は他人事だった。
自分に一切降りかからない現実にがっかりしたり、さみしく思ったり、充実した周りの人間と接することで心の中に嫉妬心が芽生えたり。
……しかし、第三者のラブコメを目撃し、巻き込まれ、振り回されていくうちに、自分自身へのチャンスを見失っていたのかもしれない。
今の杏子がそんなことを考えられるようになったのは、つい最近のこと。
ほんの些細なきっかけで、目撃者だった杏子は……当事者になってしまったのだ。
あれほど他人の恋愛に振り回されていたはずなのに、自分のことで精一杯となり、いつしか誰かの恋に気をとられなくなった。
それは杏子にとって、『目撃者になりたくない』という願いが叶ったということで、喜ばしいことのはず。そんな杏子を救った救世主がいるのだが、その人物は、杏子に新たな悩みを持ちかけた張本人でもあった。
救世主の名は、優一。
そしてこれは――正真正銘、杏子が主人公の物語である。
***
「オレさ、杏子のこと好きなんだけど。付き合ってくれない?」
とある土曜日の、とある駅前で十三時に優一と待ち合わせをしていた杏子は、出会って二言、三言目に発した彼のセリフに開いた口が塞がらなかった。
初めて出会った日と同じように、物静かな様子で、情熱という単語とは無縁な雰囲気。まるでちょっとした挨拶のようなノリで、にわか信じられなかった。
「えっと……」
「オレさ、杏子のこと好きなんだけど。付き合ってくれない?」
「なんで二回言ったの?」
「大事なことだから」
聞き間違いかも知れないともう一度言ってもらおうと口を開いた瞬間、心の中を読まれたように、優一がもう一度愛の言葉を口にした。出会ってまだ五分くらいの出来事である。
「ちょ……ちょ、ちょっと待って。頭の中整理するから」
杏子は混乱の中、暴走列車のようにとんでもない言動で惑わす優一を制した。
「普通さ、こういうのって別れ際とかに言わない?」
少女漫画のお約束展開に巻き込まれ続けていた杏子は、『この世は少女漫画でできているに違いない……』と頭を抱えていたものだ。
そのため、数多の少女漫画を読みあさり、対策を練りながら十数年の人生を生きてきた。
だが……目の前の男ときたら、そのお約束を早速破ってきたのだ。杏子が困惑するのも当然の流れである。
「いや、今日の終わりまで告白の緊張を味わいたくないし」
「わたしはどんな気持ちでいれば……」
「嫌いなら帰ってもいいよ。まあ、その前にここに来ないだろうけど」
困った展開が繰り広げられ、杏子は動揺を隠しきれない。
「た……確かに……嫌いじゃないから、今日ここに来たんだけどさ……」
気まずくて見ることができなかった優一の顔をちらりと見ると、ばっちりと目が合う。先ほどまで動揺しており気づかなかったが、ようやく自身がドキドキしていることに気づき、顔が熱くなっていく。
「じゃあ、オレのことどう思ってる?」
一歩前に踏み出し、優一は慌てて目をそらした杏子の顔をのぞき込んで尋ねる。ぎょっとした杏子が後退りをするも、その僅かにできた距離はあっという間に優一によって詰められた。最終的に壁にぶつかって、逃げ場を失う。
少女漫画のセオリーからはずれた行動ばかりと思っていたが、今だけは王道に戻っており、流行りの壁ドンをされてしまった。漫画で見るのと体験するのとでは全く違う。驚くほど距離が近かった。
ここまで、出会ってまだ十分も経っていないくらいの出来事である。
「い……今、返事しないと……ダメ?」
絞り出した声で、杏子は優一に尋ねる。
何故このような、物語の中盤に繰り広げられるような状況が降りかかっているのか。杏子自身が一番理解できていない。
最後の手段と覚悟を決め、精一杯のお願いのまなざしを向けると、微動だにしなかった優一の表情が歪む。そしてすぐ、壁ドンから解放された。
「……まあ、オレが勝手に杏子を好きだって思ってるだけだから。杏子に強要するつもりはないよ。うん」
思っていたよりもあっさりと引き下がった優一にホッとしつつも、胸の高鳴りは抑えきれない。
「とりあえず、移動するか」
落ち着く暇も与えられず、あまりにも自然な流れで優一は杏子の手を掴む。さすがに指を絡め合うような恋人つなぎではなかったが、それでも手をつないでいることに変わりはなかった。
(え、えええ!? 優一くん、がっつきすぎでは!?)
出会ってからの告白、壁ドン、手つなぎ。
ただ会って遊ぶだけ……そう考えていた杏子にとっては驚きの連続で、現実に追いつくにはまだ少し時間も余裕も足りないでいた。
+++
手をつながれたまま訪れた場所は、ショッピングモールに併設された映画館。休日という理由だけでなく、映画館が定めた割引日ということもあり、館内は賑わいを見せていた。
「わぁ……すごい人」
思わず呟きながら、きょろきょろと辺りを見渡す。
「はい、チケット。先に買ってあるから」
すると、優一がポケットからチケットを取り出し、杏子に手渡した。これから買うものだと思ってばかりいたおかげで、ホッと安心からのため息が漏れる。
「ありがとう」
「いいって、これくらい。オレ、トイレ行って飲み物買ってくから。席で落ち合おう」
「あ、うん」
それだけを言うと、優一はあっさりと手を離して人混みに消えていく。あまりの手際の良さに感心するのもつかの間、この人混みではトイレも混雑することだろうと察し、急いで女子トイレの列へと並んだ。映画館の前にお手洗いへ一度行っておかないと落ち着かない杏子にとって、どう切り出すか悩んでいたところだったが、優一から切り出してもらえたことは救いだった。
(妙に気が利くんだよね。他のことはおかまいなしだけど)
告白のことを思い出して、照れながらも苦笑する。
並んでいる間に映画のチケットを確認すると、CMでよく見かける杏子の好きな少女漫画の実写版だった。
(へぇ……意外。優一くんもこういうの好きなのかな)
杏子自身、周りのラブコメに巻き込まれてしまう点から対策用として少女漫画を嗜んでいたが、いつの間にか作品として楽しんでいることもあり、実写化された作品を映画館で観ることも時々あった。今回の作品はまだ観たことがなく、ある意味ちょうどよかったのかも知れない。
なお、今回このことは優一も知らないはずだ。おそらく偶然か、優一自身が少女漫画を好んでいるかのどちらかになるが、何故か心が躍っているようで落ち着かない。
(偶然だし……わたしのためとか、絶対ないはずだから。落ち着かないと……)
何度も心で言い聞かせているうちに順番が回ってくる。
早く済ませて、優一と合流しなければ。
浮かれた心を一旦横に置いておいて、杏子は一つの使命に集中することにした。
映画館の待合所に戻ってきたところで、優一からのメッセージを受信する。
『今売店に並んでる。ついでに買うけどなんか飲む?』
「なんてできた人なんだ……まったく……」
思わず声に出てしまうくらい、タイミングのよすぎる内容だった。
『ありがとう! じゃあ、オレンジジュースのSサイズを……』
『了解』
『入場まだみたいだから、売店のそばのベンチで待ってるね』
『わかった』
別の作品の入場は始まっているが、杏子たちが観る作品の入場はまだ開始されていなかった。上映十分前から入場開始のため、先ほどメッセージを送ったとおりにベンチへ腰掛ける。その間に、チケット代とジュース代を財布から取り出した。
優一はそれから五分ほど後にやってきて、ちょうどいいタイミングで入場も開始となる。
「悪いな、時間かかって」
謝ってくる優一だったが、杏子はむしろ感心していた。優一に心をかき乱されていた前科はあるにしても、チケットの手配だって楽ではないだろうし、ここに訪れてからの優一は気が利いていてありがたかった。
「ううん。むしろありがとう」
ジュースを受け取り、杏子はお金を渡そうと差し出す。だが、ここで優一の顔が歪んだ。
「え? いいよ、お金なんて」
「いらないわけにはいかないでしょ? もう」
なんとなく予想できた展開に、思わず小さくため息をつくと空いた手を掴んでお金を握らせた。
「そういうの、金銭的に独立してる人がすることでしょ? 優一くんの生活費は自分で賄ってるの?」
「……発言が高校生じゃない件」
「おばさんって言いたいの!?」
「大人びてるって言いたいの」
ムキになった杏子は半ば説教気味のセリフを吐いたが、優一は怒られているにも関わらずくくっと堪え切れていない笑いをこぼし、今日一番の笑顔を見せていた。表情の起伏が大人しめな優一の明るい表情を見ていると、心がどんどん穏やかになっていく。
口喧嘩は学校で何度かすることもあるが、こういう穏やかな掛け合いは楽しくて、杏子の心も弾む。
(優一くんとのこういうやりとり、好きだなぁ)
心の中でぽつりと呟く。
しかし、呟いてすぐに我に返った杏子は、小さく首を振った。
(わたし単純すぎ! 絶対最初の告白に踊らされてるよ……もう)
しっかりしなきゃと思いつつ、杏子の心はすっかり落ち着きを失っている。
元々、少なからず優一へ好意があってここに来た。前回、ゲームセンターで遊んだ時に話を聞いてくれた……あの時からそういう感情が芽生えている可能性があって、もしかしたら……という可能性の正体を確かめるために会いに来たのだ。
優一の気持ちではなくて、自身の気持ちを確かめるために。それなのに……先に優一の気持ちを知ってしまい、自分の気持ちが迷子になってしまっている。
「ほら、行こう」
笑いが収まった優一が、チケットを見せながら歩き始める。杏子は慌てて後を追いながら、複雑な心境にため息をついた。
……果たして、今日中に答えは見つかるのだろうか。
少なくとも今の杏子は、優一の気持ちに引っ張られて、そのまま身を任せたくなるような自暴自棄になりそうな予感があったが……なんとか堪えた。
指定された席へ座ると同時に照明が落ち、スクリーンには新作の予告映像が流れ始めた。話し声が聞こえていた空間も辺りが暗くなると一気に静まり、ここでようやく杏子も安堵する。ひとまず、映画の上映が終わるまではゆっくりできるはずだ。隣に座る優一はのほほんとポップコーンを食べており、話しかけることはなかった。無言で『食べる?』と差し出されはしたが、やりとりはそれくらいである。
なお、場内はほとんど人がいない状態。杏子と優一、あと数組のカップルやお一人様がちらほらいるくらいで、席の二割ほどが埋まっている程度。ということもあり、傍に座っている者はいなかった。
などと考えている間に、本編の上映が始まった。この作品をざっくりと説明すると、友達同士の集まりで偶然出会った男女が、恋に落ちるという話である。
(あれ……これ、シチュエーションがわたしたちと被る……?)
原作となる漫画自体は元々読んでいた杏子だったが、随分前に読んでいたため話の展開がすっかり抜け落ちていた。だが、違うのはまだ杏子が完全に恋に落ちていないことだけ。今日、優一と一緒に観ているのは偶然だと思い込ませ、映画に集中することにした。
最初はコミカルに楽しい雰囲気で話が進んでいき、中盤辺りから恋愛要素が濃くなっていく。少女漫画でよく見かける『胸キュン』シーンが連続して流れ……主人公が好意を持っている男に壁ドンされるシーンが流れたところで、杏子は告白された時のことを思い出して顔が熱くなった。自然とスクリーンに映る男が優一と重なる。
そしてついに、男が主人公に告白。主人公も素直に受け入れ、両想いとなり……あまりにも自然に瞼を閉じた二人は口づけを交わしていた。
(ちょっと待って! 気まずい!)
別に杏子はキスまでしたわけではないが、何故かそわそわしてしまう。落ち着かない気持ちで、スクリーンから思いっきり目をそらす。だが、そらした方向を誤ってしまった。
「……!!」
隣に座る優一と目が合い、さらに気まずさが増す。しかも絡まった視線はほどかれることはなく、暫し見つめ合ったままの状態が続いた。
内心動揺していると、優一がゆっくりと顔を近づけてくる。それはまさしく、先ほどスクリーンで観たキスシーンと似ているような気がして……。
はっと我に返り、なんとか視線を元に戻すことに成功した。
隣に座る優一も大人しく引き下がったのか、これ以上杏子に何かする気配もない。だが、映画の内容がこれ以上頭に入ってくることはなく、気が付くとエンドロールが流れ始めていた。
+++
「残念だったな」
映画館を出たところで、優一が悔しそうにそう言った。
確かに、映画を最後までじっくり楽しむ余裕がなかったことは残念だったと思う。しかし、優一としてはそんなことどうでもいいのだろう。悔しそうに見えて、どこか楽しそうにも見える優一を見ていると、『何が残念だったの?』と尋ねる気が薄れてしまう。
「映画で目が合ったときの杏子、可愛かったのにな」
「……からかわないでよ」
「あ。思い出して照れてる? 顔赤い」
どこかテンションの高い優一は、映画の内容になど触れることもなく、ただただ杏子のことをからかっているようだった。最初に告白されたことを思うと、『好きな子をついいじめたくなる』という少女漫画の男キャラを思い出す。不快に思うほどの内容ではないとは思っていても、優一のペースにまんまとはまっている杏子はどこか悔しい想いをしていた。
まだ自身の気持ちの答えをはっきりと見つけられていない杏子にとって、一人すっきりしている優一の生き生きとした様子にほんの少し苛立っていた。
(人の気も知らないで……)
「あの時、オレが何しようとしたと思った?」
「知らない」
その気持ちが『つい』表に出てしまったことに、杏子は気付かなかった。
「正解は、」
「言わなくていいって!」
あの時のことを思い出して照れている自分と、はっきりしない自分にもやもやして苛立っている自分が戦った結果……苛立ちが勝利してしまった。慣れない展開が続いてしまい、キャパシティを超えたことも原因の一つかもしれない。
先ほどまでからかっていた優一も空気を読んで黙り込み、気まずい雰囲気が漂う。
「……なんか今日の優一くん、変」
「変って……まだ会って二回目だぞ?」
「でも、その……積極的、すぎるというか……」
墓穴を掘るような、微妙な会話が繰り返される。話しているうちに『こんなはずでは』という気持ちがぐるぐると杏子の脳内で渦巻き始めた。
ただ、楽しく遊べたらよかった。自分の中にある気持ちの正体に気付くキッカケを手に入れて、あわよくば答えを見つけて……そんな期待だって、どこかにあったはずだった。
優一と会って映画が終わるまでの約三時間。優一は以前会った時よりも積極的で、翻弄されっぱなしだった。普段ラブコメを傍観する側だった杏子が、まさか当事者になるなんて想像もしておらず、戸惑っていたのは確かで。
だから、すっかり余裕を失っていたし、話さなくてもいいような本音を口にしてしまった。言い訳じみたことを考えているが、言い訳以外の何者でないことを杏子自身が一番痛感している。
「オレとしては、いつも通りというか……好きな子にはこうなんだけどな」
黙り込んでいた杏子に、優一は少し寂しそうに話す。好きな子、と言われるといちいちドキッとしてしまうが、今は何も言わずに優一の言葉に耳を傾ける。
「オレと杏子はさ……学校も違うし、なかなか会えないし……それに共学なんだろ? 誰かのものになる前に……振り向いてもらったと思って……杏子にまた会えて、浮かれてたってのもあるし」
ぽつりぽつりと独り言のように呟く優一に、抱かなくてもいい罪悪感が生まれていく。先ほどまでの楽しそうな声色との落差が大きいからかもしれない。
「でも、オレだけが楽しんでたよな……悪い。全然杏子の気持ちとか考えてやれてなかった」
そして最後に、深々と頭を下げる。その姿に杏子は胸を痛めた。そんなことをしてほしかったはずではなかった。どこで狂ってしまったのだろう。こんな寂しい展開を望んでいたはずではなかった。
優一に翻弄されて苛立っていた自分もいたが、優一から紡がれる言葉の端々に浮かれる自分がいたことも事実だ。
(ああ……もうぐちゃぐちゃだ。一緒にいたいのに……一人で考えたい気もする……)
きっと、答えを明確に見つけた後に優一に会ったなら、こんなことにはなっていなかった。
告白されて、告白を受けて、恋人同士になって、楽しく遊んで。
だけど残念ながら、今の杏子にはっきりとした答えはない。何度でも言うが、まだ見つかっていない。
「……悪い。今日は解散しよう」
すると、苦い表情を浮かべた優一が、絞り出すような声でそう言った。
「えっ」
さすがの杏子も、驚いて言葉を失う。
「いや、自分の行動を思い出してドン引きというか……ほんとに悪い。また連絡する」
「えっ!? ちょ、ちょっと!」
再度深々と頭を下げた優一は、逃げるように走り出した。
一人取り残され、追いかけるにも足が動かない杏子は、ただただ立ち尽くすことしかできなかった。
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