幕間 王国のさざなみ
ヴェンダ侯爵家は、遡れば歴代の王と縁故関係がある有力貴族のひとつだ。現在の王家とも関係が深い。故に、それなりの発言権と影響力を持っており、王家としてもないがしろにはできない。その地位と権力を象徴するかのようなヴェンダ侯爵の邸宅は、王都の東側、王宮からほど近い場所にあった。侯爵という地位に恥じない、広い敷地を贅沢に使って立てられた建物は、白を基調とした中に、金や銀の装飾をあしらった、けして華美ではないが威厳のある趣の大邸宅だ。王都に住まう多くの国民――貴族も含めて――が、羨望を込めて“白獅子館”と呼んでいる。
そうした目立つ建物であったため、冬にアズリン師が起こした事件――アズリンの乱、あるいは黒魔導事変と呼ばれる――の際に、暴徒によって屋敷の一部が破壊されてしまったが、今はもう元通りに修復されている。まだ、反乱の爪痕があちこちに残っている王都にあって、修復されたということ自体が、ヴェンダ侯爵家の財力と権力を周囲に知らしめるものであったといえよう。
王国側の異界調整官たるヴァレリーズ・オールトは、ヴェンダ侯爵邸の執務室にいた。日本の感覚で言えば三十畳ほどの執務室には、ヴェンダ侯爵が執務を行うための机のほかに、高級な応接セットも置かれていた。ヴァレリーズはその高級そうなソファーに座り、ゆっくりと茶を楽しんでいた。彼の正面には、ヴェンダ侯爵家の現当主、アルナス・ヴェンダが座っていた。双方とも、無表情だ。
「エイメリオは、息災か?」
沈黙を破ったのは、アルナスだった。
「おかげさまで。近々、学校へ通わせようと考えています」
「そうか、フィンツはどうしている? 領地を賜ったと聞いたが」
アルナスは、ヴァレリーズとフィンツの父、前オールト子爵と交流があった。侯爵と子爵、貴族としての格は違ったが、なぜか気が合い、家族ぐるみでのつき合いをしていた。当然、フィンツとヴァレリーズも、アルナス侯爵のことを子供の頃から知っていた。
「東の、小さな領地ではありますが、豊かな土地であると」
「王宮では、『オールトは女で持つ』と揶揄されておるようだが、な」
「そのような口さがない者の言葉など、道端に転がる小石ほどの価値もありませんよ」
「相変わらず、辛辣だな」
『オールト家が領地を得たのは、夫人の活躍によるものだ』――そうした噂をヴァレリーズも耳にしたことはあるが、まったく噴飯物の無責任な誹謗中傷だ。フィンツがエミリアを娶る前に、ちょっとした騒動があり、その際にフィンツよりもエミリアが目立ってしまったことが、こうした問題の根っこにある。元々、魔導士としての実力はフィンツよりもエミリアが上であり、かつ、美しいエミリアを妻にできたフィンツに対するやっかみ、嫉妬もあるのだろう。オールト家が、女性によってその地位を守っている、そんなイメージが王宮では定着してしまったのだ。それを否定しないフィンツにも、問題があるのだが。
アルナスとしては、そんなフィンツが不甲斐なくも見えた。彼もまた、王国の大多数と同じく、男尊女卑の思考に囚われていた。いや、この世界では、女は一歩下がって家の中を守るということが常識なのであり、男尊女卑という言葉すら存在しなかった。ヴァレリーズも、日本と接触しなければ、“女性の権利”などというものに意識を向けることはなかっただろう。しかし、王宮の内部でも、少しずつ変化は訪れていた。――いや、今日、
「お前も出世した、と聞いているぞ」
「サバス師の代理を、一時的に任されているだけですよ」
アズリンの乱で毒を飲まされたサバス師は、その後も体調を崩し魔導宮にあがることができないこともしばしばであった。そのため、サバス師はヴァレリーズを代理として任命していた。実のところ、サバス自身はヴァレリーズに任を譲るつもりであったが、ヴァレリーズが調整官としての仕事に固執したため、代理という扱いになっていた。
魔導宮のトップが、本来魔導士が行うべき魔法の研究や研鑽よりも
「カイン殿下に、ゾーマを付けたそうですね」
「あぁ。剣士として一流、体術にも優れておる。護衛としては、あれ以上の者はおるまい」
第二王子カインは、秋には
「ゾーマは、この屋敷の要でしょう? よろしかったのですか?」
「なに、構わんよ。わしのことより、王子に何かあっては一大事だからな」
確かにアルナスの言う通りであり、カインの身を案じるなら、実力者であるゾーマを付けることは間違っていない。だが、同時にゾーマはアルナスの文字通り懐刀であった。ゾーマが離れることは、侯爵家にとってデメリットでしかない。
「ご英断であると思います。王国のことを考えれば、これ以上ない人選でしょう」
「そう思ってくれるか? ふふ、王子にあらせられては、同様に思っていただけることを願うばかりだよ」
「サクラさん……
「……そうか」
そこで、アルナスはソファーに深く座り直し、ゆったりとした姿勢になった。しかし、その目は厳しい光をはらんでいた。
「そろそろ、本題に入らぬか? 旧交を温めに来ただけという訳でもあるまい?」
ヴァレリーズはカップを置き、身体をソファーの背に預けた。ヴァレリーズが今日ここに来たのは、アルナスと旧知の仲であったことが大きいが、魔導宮指導者のひとり(代理だが)として、他人には任せられない任務があるからだ。
「もう、察しは付いているのでしょう?」
「おおよそは、な。使者がお前だったことには驚いたが」
「志願したのですよ、貴方にはこれまでの恩もある。情もある」
「ずいぶんと上からものを言うようになったな。子供の頃はもっと可愛げがあったと思うが」
「上から、というつもりはないのですが、そう思われたのなら謝罪します。そもそも、私は子供の頃から、ひねていましたからね、こんな風に……まぁ、昔のことは置いておきましょう」
ヴァレリーズは身を起こし、顔をアルナスに近づけた。
「単刀直入に言います。計画を中止してください。皇太子暗殺計画を」
時間が止まったかのような、静寂が部屋を支配した。ヴァレリーズとアルナスは、ひたと視線を合わせたまま、身じろぎもしなかった。
「何の「何のことだ、などと誤魔化さないでいただきたい。すでに事態を把握しています」」
第二王子派の一部過激派が、帝国との講和会議に臨んでいる皇太子(第一王子)を亡き者にしようと企んでいることが発覚したのは、つい先日のことであった。王は、騎士団並びに魔導宮に対し、皇太子暗殺計画が内乱へと発展する前に、ことを収めることを命じたのだった。
アルナスは、ヴァレリーズの瞳を見つめ、親友の忘れ形見が自分と対等に渡り合えるほど成長したことに喜びを感じた。そして、ヴァレリーズはアルナスの地位を守るために来たのだと理解した。
「私が進めているわけではないし、いまさらどうにもならん」
「いえ、貴方なら――第二王子派の中でも力のある貴方であれば、今からでも止められるはずです」
皇太子暗殺については、同じ第二王子派の中でも意見が割れていた。第一王子が帝国との講和のために王都を離れる今を好機と捉える者もいれば、アズリンの乱によって疲弊した王国で、これ以上騒動を起こすべきではないとする者もいた。アルナスは穏健派であり、今は王国の立て直しと第二王子の安全を優先すべきと考えていた。だが、結局アルナスは、過激派の行動を抑えることができなかった。過激派とそれに追従する第二王子派の貴族が、暗殺部隊を送り出したことを知ったのは、ヴァレリーズが訪問する前日であった。
「無駄だよ、もう時間がない」
暗殺部隊は、すでに王国と帝国の国境近くまで移動しているはずだ。いまさら何をしても手遅れだ。
「そんなことはありません。以前であればそうだったでしょうが、今は
そういってヴァレリーズは、一枚の紙とペンをアルナスの前に差し出した。アルナスは、受け取ったペンをしげしげと眺めた。噂には聞いていたが、これが“ぼーるぺん”というものか。なんでも、インクを付けずに書き進めることができるという……。
「侯爵閣下。我々は、すでに過激派とおぼしき方々を取り押さえるべく兵を動かしております」
「そこまで掴んでいるか。だが、
「ご存じでしょうか?
ヴァレリーズの言葉は、やや大げさな表現ではあるが、間違ってはいない。実際には、日本の協力により、部隊はすでに先回りしていた。だが、日本についてあまり知識のないアルナスにとって、にわかには信じられない話だった。これまでにも
「では、閣下。閣下は『爆撃』という言葉をご存じでしょうか?」
「……いいや。火属性魔法にも、そのようなものはなかったと思うが」
「えぇ、そうです。
「なんと!」
ヴァレリーズが、このような場面で嘘偽りを口にする人間ではないことを、アルナスは知っていた。しかし、暗殺計画を止めることができるとは、到底思えなかった。
「……諫める文を書けば良いのだな?」
「お願いします」
アルナスは、真っ白な
□□□
ヴェンダ侯爵が
ハイブリッド装輪装甲車――ソニック君の威嚇射撃と貴族から文書によって、暗殺部隊は瓦解し、数人の怪我人は出たものの死者を出すことなく制圧された。こうして、暗殺計画は未然に防がれたのだった。
□□□
未然に防がれたとはいえ、王族に対し弓引く行為であったことは間違いなく。第二王子派の多くは処分された。ただし、秘密裏に。ヴェンダ侯爵を始めとする穏健派は、直接暗殺に関与しなかったことから、数年以内に子弟への爵位委譲を確約することとなった。過激派に名を連ねていた貴族は、不慮の事故あるいは突然の病によって急逝してしまった。
こうした一連の出来事は、公式の歴史書に記されることなく、時代の波にかき消えて行った。日本側でも、事情を知るものはほんの一握りであり、公式文書に残されることはなかった。
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