憂鬱なるエバ
天才、というものは、時として厄介であると、私、ファシャール帝国皇后、エバ・サリフは思う。
確かに我が夫、エルファ・サリフは天才だ。ファシャール
平時の政治活動に、ほんのひとかけらでもいい、戦時中の才能が振り分けられたなら。言っても仕方のないことではあるが、実にくやしい。
「わが妻エバよ、お前がいるから帝国は安泰だ」
そう甘言を弄し私をたらし込んだ男は、政治を私に預けて遊びほうけている。これからの方針を決めなければならない大事な春の帝国会議に参加せず、「少し北方を見てくる」と言い残し、数人の配下のみを伴ってフラッと出て行った。そうかと思えば、帰ってくるなり「王国と講和しよう!」と言い出す始末だ。
いや、王国との講和自体はいい。正直なところ、帝国には王国と本格的に矛を交えるような余裕はない。今はまだいいとしても、数巡後には……。
そもそも、王国の資源略奪を目指して、戦争の準備を始めていたのは皇帝自身の強い意志があってこそだった。まったく、振り回されるこちらの身にもなって欲しい。
「陛下、王国へ使者を出す準備が整いました。こちらがヘルスタット王宛ての親書となります」
私が差し出した羊皮紙を広げ、目を通すエルファ。いつもなら、さっと署名を加えてそれで終わりだ。しかし、この時は違った。
「少し、書き足すぞ」
そう言って、エルファは文末に一文を書き加えた。
“講和のための交渉にあたっては、ニヴァナの民代表である調整官の参加を条件とする”
「なんですか? これは?」
「ふふふ。エバよ。これは王国の背後にいる、ニヴァナの連中を引きずり出すための策よ」
ニヴァナ――もうひとつの世界から来たという民。自らを“ニホンジン”と呼んでいるという。彼らは魔法が一切使えない代わりに、恐るべき技術力、工業力を持っているという。
「王国が行った
「私は、北方で遊んでいたわけではないぞ。奴らの村をじっくりと観察してきた。ほんの一晩ではあったがな、驚くべき能力を秘めていると感じた。一緒に連れて行った手練れの工作員たちが、なすすべもなく無力化されてしまったよ。しかも、その中の二人には、背中に何やら文様が刻み込まれていた。魔法回路ではないようだが、洗っても落ちなかった。慎重を期して、ふたりはアルヴェンに置いてきた」
「ニヴァナの民が侮れないことは、これまでにも分かっていることです。陛下……エルファ。本音を言いなさい」
しばし静寂な時が流れ。
「呼びつけた調整官は……女なのだ」
「それが、何か?」
女が権力を持つこともあるだろう。王国ではどうだか知らないが、
「うむ。その女調整官をな……第四夫人に迎えたいと思っている」
「なんですって!」
“色欲は、英雄の嗜み”という言葉があるが、巻き込まれる身にもなってほしい。
「側室を増やすと言われるか?! 妻が三人に妾五人、それでもまだ足りぬと?!」
ほかに身分を偽って、それだけの女を囲っているか分からない。将来に禍根を残すことになりかねないと、みなが諫めているのに、この人は知らぬ顔だ。まったくもって腹の立つ。
「あぁ。エバよ、
あぁ、この人はどうしようもない。政治のこと、王国との微妙なバランス、そんなことはどうでもいいのだ。そうでなければ、なぜこの時期に王国を飛び越え
□□□
これが、夫を誑かした女か。
私は、ニヴァナの女を目の前にして思う。漁を営む平民の中には、このように髪を短く切り揃える者もいるというが、一族を率いる者がこのような短い髪で許されるのか? 顔の造作は整ってはいると思うが、帝国、いやこの大陸では見かけない風貌で、のっぺりした印象を与えるし、肌の色も我らのように褐色で健康的な色ではなく、黄色がかった色をしている。胸もなく、腰回りも慎ましやかに過ぎる、まるで子供のような体型ではないか。エルファは、我が夫は、このような女を妻に迎えようというのか。いや、むしろこの女が子供のような身体を使って、エルファを籠絡したのか。二人の子をなしたことで体型が少し崩れたが、我はまだ十分女としての魅力を持ち続けているはずだ。なのに、この女に負けるというのかっ!
私が憎しみの視線を送っても、とぼける女の態度がさらに怒りを煽った。
「サクラ、お前、俺の第四夫人になれ! そうすりゃ、和平が実現するぞ!」
エルファの言葉に、異界の女はなぜか怒りだし、席を立ってテントから去って言った。
「サリフ殿、いくらなんでも今の言葉は失礼でしょう!」
ドーネリアス王子の言うことももっともだ。下位の家に生まれた女が高位の男に嫁ぐ場合でも、もっと手順を踏むものだ。我が夫が自信満々に「嫁にもらう」と言っていたので、相手との密約なり婚前の取り決めなりがされているものだと思っていたが、王国や
「ドーネリアス殿下、申し訳ありません。これは何かの行き違いで……」
私は必死にその場を取り繕った。当事者たる夫は、どこ吹く風で
□□□
次の日、再び交渉が始まる。
我が夫は、昨日の提案が受け容れられるものと思っているのか、朝から上機嫌だ。戦場であれば、敵の計略を素早く見抜き打ち破る男が、今のこの雰囲気を読み解くことができないとは。エルファは、大きな声で笑いながらテントへと入っていった。その時、
「あ、あの、何か?」
「昨日は、申し訳なかった。すでにお前たちが、その、密通しているのだと思い込んでいた。あれは、あのバカが先走ったのだとわかった。悪意を向けてしまい、本当に悪かった。許して欲しい」
私は地に片膝を突き、顔を伏せた。我々にとって最大限の謝意を表したのだ。
「ゆ、許します、許しますから立ってください」
「私の謝罪を受け容れてくれて、ありがとう。では」
あまりの恥ずかしさに、私は大急ぎでテントの中に逃げ込んだ。我が夫は、すでに着席し悠然と構えている……これからの交渉を考えると気が滅入る。しかし、私はこの国の皇后として、我が国が最大限の利益を得られるよう動かなければならない。たとえ、夫をないがしろにすることになっても。
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