夢見が悪い

藤沙 裕

メシア



 ──パンッ!


 鳴り響く轟音は、不自然なようで、それでいて、確かに鼓膜を揺らした。間近で放たれたその振動に、私を含めた全員が目を丸くして、互いを見つめ合う。そして六つの瞳は、ついにその正体を突き止めた。


 この中で一番小柄な彼女の手に、漆黒の金属が握られている。当の本人は細かく震えながらその塊を床へと下ろした。金属独特の音がする。


 冷たいコンクリートの床に座っていた私と、彼女の視線がかち合った。その間にくたりと脱力して横たわっているのは、隣のクラスの女の子。左のこめかみより少し上のあたり、さらさらとしたショートカットの隙間からは、赤黒い血の流れが見えた。


「……打ったの?」


 状況だけを見れば、それはもう明らかだった。意外にも震えなかったこの声で、わざわざ言葉にして問う必要はない。けれど、言葉にするより他に、何もできなかった。


 ここに拳銃があることさえ、私たちは忘れかけていた。小学生の課題のように課せられたそれを、何とかなかったことにできないかと、そう穏便に終わらせようとしていたから。一度はそれで納得したくせに、まだその手段はここにあったのだ。


 私たちの視線は、その裏切り者へと向いていた。


「だって」


 彼女が息を詰める。貴女の気持ちも分かるよ、けれど、けれど──‬

 かたかたと震える彼女の瞳はずっと見開かれているが、それでも涙を流さなかった。かくいう私も、泣けはしない。


 殺風景な部屋に集められた私たちを監視するかのように、先生はいまだその戸口に立っている。黒板もない部屋には何故か、彼の立っているところに教卓が置かれており、彼女が打たれたその瞬間も、先生はそこで資料を見ているだけだった。

 先生はきっと、知らないふりを突き通す。おそらく、この後誰かに報告でもするのだろう。ちらと一瞬間こちらを伺って、また手元の資料に目線を戻していった。自分には関係ない、まるで、そう言われているみたいだった。


「う、ん……」


 痛みに喘ぐ彼女が声を漏らした。先生と私たちの間に離れて立ったクラスメイトの男の子二人は、身動きひとつしないで黙りのまま。少し前まで活発に話し合いに参加していたことが嘘のようだ。


 なんて残酷なんだろう。今ここで、一人の命が失われようとしている──けれどそれは、私ではないんだ。


 安堵の溜息を噛み殺しながら、ぐったりとした彼女に近付き、ゆっくりと抱き起こした。まだ暖かい、震える瞼が開いたり閉じたりしている。彼女が助からないことなんて、ここにいる全員が分かっている。こんな至近距離で打ったのだ、彼女に当たらなければ、それはきっと──


「……あた、し」


 掠れきった声が、色が失われ始めた唇から紡がれる。私よりも背の高い彼女が、なんだか幼い子どものように思えた。


「パパ、と、ママに……たくさん、叩かれ、て……」


 彼女のか弱い声は、コンクリートの質素な部屋によく響く。この部屋の誰もが彼女の声に耳を傾けていて、けれども返事をする者は誰もいない。

 あぁ、あの噂は本当だったんだな。返事はしないけれど、きっとみんな、同じことを思っているに違いない。違うクラスの私の耳にも、その話は届いていた程だ。


「たくさ、ん……怪我をし、て……」


 彼女のショートカットの黒髪を耳にかけてやり、その表情を見た。痛みに眉根を寄せている。私にできることなど、本当は何もない。

 それはもう、この世界で生きていればいる程に、明確になるばかりだ。


「誰も、助けて……くれなかっ、た」


 へらり、と彼女は笑うようにして口角を上げた。本当に彼女は、笑っているのだろうか。それとも、苦しいのだろうか。苦しかったのだろうか。


「……その辺にしておいてね」


 彼女より少し低い音が空気を揺らす。その声の方を見やれば、先生は資料を手元にまとめて部屋を出て行こうとしていた。


「余計なことは言わないで」


 先生がついに出て行った戸口を見つめながら、ぐるぐると胸の中が混ざっていく。先生もただの大人だった。先生は味方じゃなかった。信じてたのに。

 信じた私が馬鹿だったんだ。先生に掛け合えばいいなんて、都合が良すぎて笑ってしまう。人はそんなに優しくはない、そんなこと、分かっていたはずだ。だから、この胸の苦しさはきっと、私が先生を信じてしまったという、罪の証。


 後ろですすり泣く声が聞こえ始めた。その犯人は嗚咽を漏らしながら、手の甲で涙を拭う。誰も、言葉で宥めようとも、その背をさすってやろうともしない。当然だ。


「……パパも、ママ、も……大嫌い、で、大好き、だった」


 途切れ途切れになりながら、それでも腕の中の彼女は、微笑とともに言葉を紡ぎ出す。吐露される真実だろうものに、私たちは何も言えない。何もできない。世界の理というのは、たった一人の命だけでは変えられないのだ。


 私たちは共犯者だ。それでいて、救世主だ。

 私たちは犯罪者だ。それでいて、ただの学生だ。


 予鈴が校舎に響き渡る。ひとつの間違いも、一秒のずれもなく、いつもどおりのチャイムの音。

 授業には出なければならない。男の子二人は、この部屋を出て行こうと目線で会話をし始め、ついには「俺は移動教室だよ」と言葉でやりとりを始めた。

 私はいまだに、脱力しきった彼女を腕の中から離せないでいる。


「ごめん。私の勉強道具、持って行ってもらえるかな」


 同じクラスで授業を受けている方の彼にそう頼み、部屋を出て行く二人を目だけで見送った。すすり泣く声は、聞こえ続けている。


 貴女はえらいよ。気を病む必要はない。貴女がやらなければ、誰かがやっていただけの話でしょう。死ぬのは貴女だったかもしれないし、私だったかもしれない。助かって良かったね。男の子たちも先生も、誰も貴女を責めないよ。それに、彼女だって。

 ひとつの命と引き換えに、私たちは生きていく。いや、きっと、これから先、何百、何千という命を賭しても。それが、生き残ってしまった私たちの、罪代だから。

 ついに動かなくなった彼女を、冷たいコンクリートの床に横たえた。彼女にはもう、この冷たさも、硬さも分からない。それでいいと思った。


「……授業、行かなきゃ」


 ひとりごとを装い、泣き続ける彼女に言葉をやって立ち上がる。彼女だって分かっているはずだ。それに彼女は、周りが思うよりもずっと強いのだ。

 何も特別なことはない。これは、日常のワンシーン。


 あの子は、やっと救われたんだ。




──終

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夢見が悪い 藤沙 裕 @fu_jisa

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