番外編 天国のある場所 後編

 空港からリムジンバスで街の中心地へ移動した。この近くの喫茶店で叔父さんと待ち合わせをしているらしい。路面電車

バスの中で、父はずっとなにかを考えているような、深刻な表情をしていた。

「ちょっと待ってて」

 バスを降りると、父は小走りで近くにあった土産物屋へ入っていった。

「なんだろう……」

 ほどなくして、出て来た父の手に握られていたもの。それは、ストラップだった。犬とミカンがまざったようなキャラクターのストラップだった。

「これ、持っておいてくれ」

 父は、戸惑うチサトに半ば強引に、ストラップ渡した。

「どうして……」

「もう、なにもあげられないもしれないから、誕生日も、クリスマスも、一緒にいられないかもしれないから……」

 ああ、そうか。チサトはもう、誕生日を祝ってもらえるかわからないんだ。クリスマスプレゼントを楽しみにベットに入ることもできないかもしれないのだ。

 いつ、死んでしまうかわからないから。

 父の泣きそうな顔。チサトははじめて見た。

「こんなのが、こんなのが、最後のプレゼントかもしれないなんて、ごめんな」

 チサトはゆっくりと首を横に振った。

「ううん。嬉しい。とっても嬉しいよ」

 チサトの目に、涙がたまってくる。

 父の気持ちが嬉しかった。そして、確実に近づいている別れの時、その淋しさを、恐怖を強く自覚した。

「ごめん。トイレいってくる」

 チサトは近くの公衆トイレに小走りでむかう。父には、笑顔を見せていたかった。今日はずっと笑顔を見せていたかった。

 その手には、しっかりとストラップが握られていた。


 トイレで一通り泣いたあと、涙の痕を水で流した。

 ストラップをスマートフォンにつけてみる。なんだかより一層愛着がわいた。

「うん。私、大丈夫」

 元の場所に戻ってくると、そこに父の姿はなかった。

「お父さん? どこ?」

 チサトは注意を見渡した。

 行きかう人たちの中、遠くに父のような男性の背中が見えた。細い路地に入っていくところだった。

「お父さん」

 チサトはその背中を追う。

「お父さん」

 人ごみをかき分け、チサトは走る。医師からは激しい運動は控えるようにといわれている。だけど、今のチサトの頭からその言葉は消え去っていた。

「お父……さん……」

 息をきらせながら、男性に追いついた。

「へ? どうしたの?」

 その男性は、父ではなかった。後姿が似ているだけの、別人だった。

「ごめんなさい……人違いです」

 チサトがいうと、男性は歩いていった。

「戻らなきゃ」

 チサトが元来た道を惹き返そうとしたときだ。


 ニャー


 声がした。

 足下を見ると、一匹のネコがいた。頭のてっぺんから尻尾の先まで黒い猫だった。

「野良ネコさん?」

 そういってから、ネコの首に巻かれた赤い首輪が目に入った。白い布が縫い付けてあって、そこにマジックペンのようなものでこう書かれていた。


『松山市道後姫塚×番×号』


 チサトにも、それが住所だということはわかったけれど、読み方がわからないし、もちろん、この住所が指す場所も見当がつかない。

「もしかして、あなたも迷子なの?」

 チサトの言葉に返事をするように、ネコは『ニャー』とないた。

「じゃあ、一緒にいこっか」

 抱き上げると、ネコは驚くほど素直に、一切抵抗することなく腕の中に納まった。

 チサトは、元来た道を歩きはじめる。


 とりあえず、路面電車が走っている大きな道まで戻ってくることは

できた。

「うん。大丈夫。大丈夫」

 父には何度も電話をかけた。でも、応答がない。

 チサトは、ネコを抱いたまま道を歩いていく。

 また、父に会えるだろうか。

 もしも、このまま会えなかったら。

 もしも、この見知らぬ土地で一人ぼっちになってしまったら。

 不安ばかりがつもっていく。

 海辺の街で暮らしたいなんて、いうんじゃなかった。

 住み慣れた、東京に居続けたらよかった。

 お父さんと、お母さんと、いっしょに居続けたらよかった。

 そう思った次の瞬間、声が聞こえた。

「ちょっと待って!」

 チサトは、足を止めて振り返った。


 夢を見ていた。

 ここは病室で、目の前にはベット。そこに横たわるヒナミさん。

 チサトは、丸椅子に座ったまま、眠っていた。

 もう、あの日から二年がたつ。

 偶然出会った少女、高浜ヒナミさん。

 地元の人。

 気さくに話しかけてくれた人。

 二つ年上の人。

 とっても、心強かった。

 笑いかけてくれたあの笑顔で、救われた気になれた。

 ヒナミさん……。

 その少女は、チサトを庇い、車に跳ねられた。

 その光景は、今でも鮮明に浮かんでくる。

 あの交差点へは、今もいくことができずにいる。

 そしてヒナミさんは、今も眠ったままだ。

 この二年間、チサトはほとんど毎日、お見舞いにやってきている。

 ヒナミさんのお母さんは、そんなチサトを優しく迎えてくれた。非難されてもおかしくないはずなのに、そんなことは一切なかった。

 チサトは時間の許す限り、ヒナミさんに話しかけた。東京にいたときにあったこと、松山に引っ越してからの出来事……。

 しかし、何らかの反応が返ってくることは一度としてなかった。

 ヒナミさんの髪や爪は伸びる。ヒナミさんのお母さんが定期的に手入れしている。それが、唯一のヒナミさんの命の証拠だった。

 引っ越してきた海辺の街は、チサトが憧れた風景そのものだった。転校先の学校では友達もできた。先生も優しく接してくれた。


 ヒナミさんをこんな状態にして、いつ死んでも不思議でない自分が幸せを感じようとしている。


 そのことに気付いた途端、目元に涙が滲んでくる。

 命に優劣があるなら、生きるべきはチサトではなくヒナミさんだったはずだ。なのに、今、自分が生きていることを嬉しく思ってしまっている。

 引っ越してからも、自分の診察の為に通院している。

「予想よりも状態がよくなっている」

 お医者様にはそういわれた。

 どうして、生きてしまったのだろう。

 涙が、頬を伝う。

 そのとき、微かにヒナミさんのまぶたが動いた。

 見間違いかと思った。

 だけど、そうじゃなかった。

 ヒナミはゆっくり目を開いた。

 しかし、虚ろな目で天井を見つめたあと、再びまぶたは閉じていく。

「ヒナミさん! 駄目です! 寝ないで!」

 チサトは咄嗟にヒナミの両肩を掴むと、体を激しく揺らした。

「ヒナミさん、寝ちゃだめです! 起きてください!」

 再び、ヒナミさんのまぶたが開く。その目には、チサトがうつっていた。

「おきてくれたんですね。ヒナミさん」

 ゆっくりとヒナミさんの唇が動く。

「ごめんね。怪我、しなかった?」

 一瞬、なんの話かわからなかった。

 だけど、すぐに気がついた。

 二年前の交差点の続き。チサトがヒナミさんに突き飛ばされたときのことだと。

「なんで、なんで私の心配をしてくれるんですか」

 どうせ、長生きできないのに。

「だって、怪我したら嫌でしょ?」

 また、目元から涙があふれてくる。

「お医者様呼んできます」

 そういって、チサトは病室を飛び出した。


 神様。どうか、少しだけ、ヒナミさんと過ごせる時間を下さい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

青い瞳のウミ 千曲 春生 @chikuma_haruo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ