番外編 天国のある場所 前編
モノレールは、ゴトリ、ゴトリと進む。
チサトは、ぼんやりと車窓を眺める。曇天の空の下、東京のビル群が流れていく。
「海辺の町に引っ越そう」父にそういわれたときはとても嬉しかった。家族みんなで引っ越すのではなく、チサト一人でいくのだと聞かされたときは、驚きや、さみしさ、不安も確かに感じたけれど、すぐに喜びに飲まれていった。
小学校に入る少し前、叔父が洋食店を開いた。そこは、海辺の町だった。叔父からの手紙に添えられていた写真を見た時から、チサトはいつかこんな場所で暮らしたいと思うようになっていた。
その願いを、父が叶えてくれた。叔父に頼み込んで、チサトが叔父の家で暮らす手はずを整えてくれた。
チサトは、学校では自分の体のことはあえて喋らないようにした。かわいそう、と思われるのはいやだったし、自分でもそう思いたくなかった。
でも、年に何度かは気分が悪くなり、同級生に保健室に連れていってもらうことがあったし、早退する日もあった。何度か救急車に乗った。だから、特に親しい何人かは薄々感付いていたと思う。
次に発作がおきれば、助からないかもしれない。担当医にはそういわれた。 自分の運命を呪ったりなんかしない。ずっと前から、長生きできないとは聞かされていた。いよいよ、その時が近付いてきた、というだけのことだ。
この引っ越しは、この世の思い出作りなのだ。
昨日、父も母も、そういったことを隠しておく人ではなかった。なにもかも、話してくれた。
そして、最期を憧れの地で迎えることを、提案した。
いざとなると、腰が引けるのがチサトの駄目なところで、今になって親元を離れるのが怖くなってきた。そっと、ポケットを探る。薄い長方形。スマートフォンだ。
母が持たせてくれた。ささいなことでもいいから連絡してこい、と。
幾人かの友達と、連絡先を交換した何人か。しかし、クラスメート全員はおろか、仲のよかった友人であっても、連絡先を聞けなかった人はいた。
今生の別れ、という言葉をこの時のチサトはまだ知らなかった。
車窓を見つめる。ビルが、流れていく。
都心の景色が、チサトにとっては故郷の景色なのだ。
「チサト、大丈夫か?」
隣の席に座っていた父が声をかけてきた。
「うん、大丈夫」
チサトは笑ってみせた。
そうだ。これから、憧れの地で暮らすのだ。楽しいことを考えよう。
いつも、笑顔でいたい。チサトはそう思っていた。元々は好きだった絵本の主人公の真似だ。でも、もう自分の物になっている、と思う。
「チサトは、飛行機はじめてだったか?」
父の問いに、チサトはうなずく。
「気分が悪くなったらすぐにいうんだぞ」
さらに父はそう続けた。
本当は陸路でチサトを送っていきたかったらしい。しかし、多忙を極める両親にそれは許されてはいなかった。
自らの胸に手を当てた。
トク、トク、トク。
規則正しく心臓が動く。
うん、大丈夫。チサトは自分にいった。
空港に到着すると「昼ごはんにしようか」と父はいった。
「もしも飛行機で酔って吐いてしまったら嫌なので、降りてからにしたい」とチサトはこたえた。父はすんなりとそれを聞き入れてくれた。
父に続いて手荷物検査を済ませ、出発ロビーで時間をつぶす。後にする、といったものの時間はお昼。空腹を覚えた。
だから、売店でお菓子を買ってつまむ。そうしているうちに、雨が降りはじめた。
「飛行機、飛ぶかな?」
チサトが尋ねると、父は笑った。
「この程度なら大丈夫だよ。それに松山は晴れてるって」
チサトは小さくうなずいた。
『松山』
チサトは少しであれば漢字が読める。搭乗口に表示されたその地の名に気分が高揚した。
以前読んだ本によると、天国とは雲の上にあるものらしい。
だったら、飛行機に乗ったら、天国が見られるのかな?
そんなことを考えているうちに、飛行機が到着した。間近で見るそれは、チサトの創造よりもずっと大きかった。
しかし、搭乗手続きを済ませて、機内に乗り込むとせまくて息苦しく感じた。
窓際の席に座り、シートベルトを締める。心臓がドキドキしていて、自然に体に力が入る。
やがて、ドアが閉まったというアナウンスの後、飛行機はゴロゴロと動きはじめる。
「さ、出発だよ」
父が小さな声でいった。
窓の外を見ていると、展望デッキに人が見えた。雨が降っているのに、確かにいた。
それは、クラスメートの女の子だった。
チサトは、決して目がいい方ではない。授業中は眼鏡をかけることもある。なのに、今ははっきりと、その姿をとらえた。
雨に濡れながら、女の子は必死に手を振っていた。
真面目で、物静かで、おとなしい子だった。
チサトと特別仲がよかったわけではない。用がないときは言葉を交わすこともない程度の仲だ。
なのに、授業を欠席して来てくれたのだ。
チサトは窓に顔を張り付けるように、必死に女の子の姿を追った。しかし、すぐに死角に入り、見えなくなった。
「どうしたんだい?」
父が尋ねた。
「ううん。なんでもない。なんでもいないんだよ」
チサトは、笑顔を浮かべていた。
そうだ。はじめてチサトが学校で倒れたとき、真っ先に気付いて先生を呼びに行ってくれたのはあの子だった。
飛行機は滑走路に入る。
エンジンの音が高鳴ると同時に、一気に加速し、飛び上がった。
驚くほど軽やかに、あっさりと、何百トンもの金属の塊は地を離れた。
飛行機はあっという間に高度を上げ、雲の中に入った。窓の外はまっ白で、なにも見えない。
「残念だね。まあ、そのうち晴れてくるとおもうから」
父がいった。
「ううん。きっとこれでいいの」
チサトは首を横に振った。
今、見なくても、すぐに雲の上にいくことになるのだから。
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