第十一話 いきたいと思う場所

 翌日は、朝から雨が降っていた。

 雨の匂い、アスファルトにできる小川、波が荒い海。

 ヒナミは雨ガッパを着て登校した。今日も、一番はやかった。

 昨日と同じように、職員室へいった。すると、昨日と同じように立花先生が教室の鍵を渡してくれた。

「ヒナミさん。」

 職員室を出ようとしたヒナミは、立花先生に呼び止められた。先生の顔が暗く見えるのは、前髪が長いからでも、うつむきがちだからでもない。暗い表情をしているからだ。

「ヒナミさん、朝の会でもお話するつもりなのですが――。」

 続く言葉は、間違いなくヒナミの耳に入った。だけど、頭には、届かなかった。信じられなかった。高いところから、ストンと落ちるような感覚があった。


 お坊さんがあげるお経の声は、雨音と混ざり合う。

 お通夜、そして、お葬式の会場は近くの公民館だった。

 ヒナミは、黒いワンピースを着て、参列していた。

 ミホと目が合った。ミホは、悲しそうな顔をしていた。

 まるで、映画か何かを見ているみたいだ。現実感という物がまるでない。本当に、夢とか、映画とかだったらよかったのに。そしたら、ギャグとして笑ってあげたのに。

 ヒナミは視線を動かす。チサトちゃんと目が合った。こんなときなのに、チサトちゃんは笑っていた。いい笑顔じゃないか。

 ああ、そうか。笑っているチサトちゃんは、遺影だった。


「そんな顔しないでください。ヒナミさんには笑顔が似合います。だから、いつも笑っていてください。ねっ。」


 チサトちゃんの声が、聞こえた気がした。

 ヒナミは口元をあげて、目尻を下げる。笑顔って、これでいいんだっけ。よくわからないな。


 出棺を見送ると、ミホはヒナミについて来るようにいった。

 連れられてきたのは、公民館の裏にある、人けのない駐車場だった。雨音に混ざって、激しい波の音も聞こえる。海の近くだから。

「傘、ささなくていいの? 風邪ひいちゃうよ。」

 ヒナミは雨に打たれながらいった。ミホは、雨に打たれている。

「いい。」

 ミホは、短く答え、ヒナミとむかい合うように立つ。

「ねえ、ヒナミ。」

 ミホはヒナミにつめ寄り、胸倉をつかんだ。突然のことだった。ヒナミの足は、地面をはなれる。

「ヒナミ、あんたチサトのこと嫌いだったの? あんなに仲よくしてたの、全部ウソだったの?」

 ミホは、低い声で尋ねる。ヒナミは暴れなかった。放してほしいともいわなかった。怖いとも、不快だとも感じなかった。

「そんなわけないでしょ。」

 ヒナミは淡々と、答えた。

「じゃあなんで、笑ってたのよ。見たよ。笑ってたの、見たよ。死んじゃったんだよ。チサト、死んじゃったんだよ! もう、学校に来ないんだよ! 一緒にお出かけできないんだよ! ヒナミは、悲しくないの。」

 ミホは、声を荒げた。

「前、ミホと出会う前、チサトちゃんにいわれた。笑っていてほしいって。私の笑顔が好きだって。だから、笑顔で見送ってあげなきゃ。」

 願いなら、叶えてあげなくちゃ。

 ヒナミはまっすぐに、ミホの目を見つめる。

 ヒナミの前髪を伝った雨粒は、鼻先に落ちる。

「なんで、なんでよっ!」

 ミホは、ヒナミを投げ飛ばした。ふわりとした浮遊感の後、砂利にこすられながら、少し滑った。

金属製の杖が地面に当たり、高い音が響く。

「うわー!」

 ミホは叫びながら、水たまりを跳ねながら、走っていった。

 肘が痛いな。目をやると、大きな擦り傷が出来ていて、血が出ていた。

 ふと、ヒナミは気配を感じた。

 地べたに寝そべったまま、顔を動かす。

ヒナミの横に、ウミがいた。長靴を履いて、黄色い雨ガッパを着て、カエルの模様の傘をさしている。

 ウミはしゃがむと、ヒナミに皮の紐を差し出した。紐の先には、赤い勾玉がぶら下がっている。

 ヒナミは、手を伸ばして勾玉を受け取る。

「チサトちゃんのところにいてくれたんだね。ありがと。」

 ウミは小さくうなずくと、ヒナミの顔に雨がかからないように、傘をかける。

「やめて、ウミ。」

 ヒナミは優しくいった。ウミは驚いたように、傘を持つ手を引いた。

「私ね、泣いてないんだよ。」

 泣いたら、チサトちゃんが悲しむ気がした。

 ヒナミの目元から、水滴が流れる。次から次へと流れる。

 ヒナミは泣いていなかった。

 泣いてなんか、いなかった。


 次の日、ヒナミは熱を出した。ヒナミがいないことに気付いた立花先生が見つけてくれるまで、ずっと雨に打たれていたから。

 三十七度ほどの微熱だけど、学校は休んだ。

「何か、欲しい物ある。」

 お母さんは尋ねる。

 ヒナミは、ベットにのそべったまま、首を横に振った。

 家の呼び鈴が鳴った。

「はいー。」

 お母さんは早足で玄関へむった。

 部屋を出て、廊下を進むとすぐに玄関だ。だから、声がよく聞こえるはずなのにお母さんの声しか聞こえない。

 まあ、お母さんが「お世話になってます」なんていっているから、立花先生だろう。

 しばらくすると、お母さんは戻って来た。

「ヒナミ、立花先生。どうする。会う。」

 ほら、やっぱり。

「うん。」

 ベットの上で上半身を起こす。ちょっとだけ、頭痛。

お母さんは、また部屋を出て、すぐに戻って来た。立花先生と一緒に。

「お邪魔します。あ、寝ていてください。」

 ベットから降りようとしたヒナミを、立花先生は抑えた。

「その辺、座っててください。」

 ヒナミはタオルケットの下から手を出して、椅子を指差す。勉強机とセットになっている椅子だ。

「はい、失礼いたします。」

 立花先生は椅子に座り、お母さんは「お茶を入れてきますね」といって出ていった。

「昨日は、ありがとうございました。」

 ヒナミは頭を下げた。

「構いませんが、どうしてあんなところで倒れていたんですか?」

「ごめんなさい。秘密にさせてください。」

 ヒナミが熱を出したのも、肘を擦りむいたのも、ミホのせいだ。でも、ミホを責める気なんて、さらさらない。

 立花先生は「そうですか」と短くいった。なんでかな、全部、見透かされてるような気もする。まあいっか。

「今、授業中じゃないんですか。」

 ヒナミは尋ねる。

「はい。そうですよ。でも、他の先生に代わっていただきました。」

「ごめんなさい。」

「ちょっと、お届け物があったんです。」

 立花先生は、ポケットからスマートフォンを取り出した。ミカンと犬が合わさったキャラクターのストラップが付いている。

「それ、チサトちゃんのですか。」

 ヒナミが尋ねる。

「はい。チサトさんのお母様からお預かりしました。ヒナミさんに、渡してほしいとのことです。」

 ヒナミはそっと、スマートフォンを受け取る。

「録音アプリが入っていたんです。それを、聞いてほしいとのことです。」

 ヒナミはゆっくりと、スマートフォンの手触りを確かめていた。どこかに、チサトちゃんの体温が残っていそうな、そんな気がした。


 立花先生が帰った後、ヒナミは机の引き出しからイヤホンを取り出し、スマートフォンにさした。

 録音アプリは、見るだけで操作方法の見当が付くものだった。よかった。ヒナミはあんまり機械に強くない。

 ベットに横になると、イヤホンを耳にさし、録音が一番新しいものを再生する。チサトちゃんが入院して、ヒナミとミホがお見舞いにいった、あの日の深夜に撮られたんだ。それすなわち、チサトちゃんが亡くなる直前だ。

 ヒナミは目を閉じた。


 ドアが、開く音。

「誰ですか?」

 チサトちゃんの声は、力がない。呼吸も、乱れ気味だ。あんまり、聞きたくない。

「どうしたの……病室、わからなくなっちゃったんですか?」

 チサトちゃんは、苦しそうに、でも、優しい声でいった。チサトちゃんの他に、病室に誰かいる。いや、今入ってきたんだ。チサトちゃん口調からして、たぶん小さい子供だと思う。

「へ、何……あなたの手、冷たいです。」

 布がこすれる音がする。チサトちゃん、体勢を変えたのかな。

「なんだろう。手を握ってもらったら、急に楽になった。あなたは……へっ、ヒナミさんに頼まれて……そっか。」

 ヒナミは目を閉じたまま、首から下げた勾玉を握った。音声は続く。

「そう……うん……。ヒナミさんのこと、守ってくれてたんですね。ありがとうございます。へ、違う。ただ寄り添っていただけ。ううん。でも、ありがとうです。」

 チサトちゃんは一度、深呼吸をした。

「そう、昔、ヒナミさんに助けてもらって……うん……うん。お爺さんも昔、優しい漁師さんに助けてもらって……うん、助けてくれた人間には、恩返しを……うん、竜宮城って本当にあるんですね。」

 チサトちゃんは「ふふっ」と笑う。

「私、その漁師さんも、あなたのお爺様も、知っている気がします。幼稚園のとき、絵本で読みました。」

 それから、チサトちゃんはまた笑った。笑って、笑いがおさまると、いった。

「私ね、ヒナミさんにウソをついてるんです。聞いてくれませんか。」

 しばらくの沈黙を挟み、チサトちゃんは話しはじめる。

「ヒナミさんに転校するっていいました。あれ、ウソなんです。」

 チサトちゃんはまた深呼吸をした。

「海岸でヒナミさんに転校の話をしたとき、本当は自分の体のことを話すつもりだったんです。長くは生きられないって。でも、いえませんでした。私を助けたことで、ヒナミさんが傷つくんじゃないかって思って。私の命より、自分の足を選ぶべきだったって、後悔させてしまうんじゃないかって。」

 チサトちゃんは短く息を吐く。

「ううん。違いますね。私が、ヒナミさんを傷付けたことで、傷つくのが怖かった。たったそれだけですね。」

 チサトちゃんの話は続く。

「あなたは、ウソは嫌いですか。悪いことだと思いますか? ええ……はい……そうですか。ヒナミさんはどう思うんでしょうか?」

 チサトちゃんが、自分が傷つかないようについたウソなら、喜んでだまされとくよ。ヒナミは心の中でいった。

「そもそも、この街に来たのだって、両親が悔いのない人生を送れるようにって、未練を残さずに死ねるようにってことでした。なのに、この街でヒナミさんに出会って、ミホに出会って……。」

 チサトちゃん、泣いてる。

「海、綺麗でした。またいきたいです。ヒナミさんやミホといきたいです。」

 チサトちゃんは鼻をすする。

「覚悟してたんですよ。ずっと、わかってたこどですから、知ってましたから、長生きできないって、中学に上るまでいきられないだろうって、お医者様もいってましたから。わかっていた、覚悟していたのに。でも……でも……。」

 チサトちゃんが、泣いている。

「死にたくない。死にたくないよ……怖いよ。」

 ヒナミは、胸の奥がグッと掴まれるような苦しさを感じた。

「私……いき……たい。」

 それからチサトちゃんは、その言葉を繰り返した。何度も何度も繰り返した。声は、だんだんと力をなくしていく。

 やがて、チサトちゃんの声は聞こえなくなり、風の音だけが聞こえるようになった。病室なのに、風が吹いている。

 そして。


「ギュゴオー。」


 録音は終わった。

 ヒナミはイヤホンを外した。


 夕方、ミホがやって来た。今日、授業で使ったプリントを届けてくれた。立花先生がそうしろといったらしい。やっぱり昨日のこと、立花先生は知っていたのかな。

 ミホはすぐに帰ろうとしたけど、ヒナミは強引に引き留めた。

 ヒナミにうながされて、ミホはベットの端に座る。

「本当に、風邪なの。」

 ミホはヒナミとは目を合わせないでいった。

「うん。ウソじゃない。ホントのホントにただの風邪だから、一日か二日で治るよ。」

 ヒナミはいった。

「昨日は、ごめん。」

 ミホはやっぱり目を合わせてくれない。

「いいよ。気にしてないから。」

 ヒナミは微笑んだ。ミホは、ゆっくりと顔をヒナミにむける。

「こんなの、はじめてだから、どうしていいかわからなくて。」

 ヒナミはベットから上半身を乗り出し、ミホの肩に手を回す。

「チサトね、夜中に発作が起きて、お医者さんも誰も、間に合わなかったんだって。気が付いたときには、もう死んでたんだって。」

 ミホの言葉に、ヒナミは答えない。

「泣いていいよ。」

 代わりに、そんなことをいって、一度うなずく。

 ミホはヒナミに抱きつく。コイツ、大柄だとは思ってたけど、重い。

 ミホは、ヒナミの胸に顔をうずめてワンワン泣いていた。

「チサト、苦しかったかな、怖かったかな。」

 ミホは、絞り出すようにいった。

「よしよし。」

 小さい子供をあやすように、ヒナミはミホの髪をなでる。

「ちっちゃいくせにおっきいんだから。」

 泣きながら、ミホはいった。

 ちっちゃいは余計だ。ヒナミはミホの頭を叩いた。叩いたつもりだったのに、軽く手を添えるような感じになってしまった。


 数日後。

 ヒナミは学校が終わると、家とは反対の方向へ進む。ゆくりと坂を上がり、洋食店に来た。チサトちゃんの家だった場所だ。

 今日も、店は閉まっていて『臨時休業』の札が出ている。

 ヒナミはドアにもたれかかり、体重をかけた。鍵はかかっていなかった。ドアが開き、店内に入る。

「今日は休業だよ。」

 髭の濃い店主――チサトちゃんのおじさんはヒナミの方を見ようともせずいった。

「これ、お返しに来ました。」

 ヒナミはカウンター席に座ると、カウンターの上にスマートフォンを置いた。おじさんは、やっとヒナミの方を見てくれた。

「それ、チサトのか。」

「はい。」

 おじさんはスマートフォンを掴むと、ポケットに入れた。

「ヒナミちゃん、だっけ。何か食べていくかい。」

「じゃあ、スクランブルエッグ。」

 おじさんは冷蔵庫から具材を取り出す。

「ある日ね、チサトは学校から帰ってくると、ずっと練習してたんだ。スクランブルエッグ。なんでも、調理実習で散々な結果だったとかで。」

「料理が下手なんですよ。調理実習でスクランブルエッグをつくったとき、本当は一人一個のはずの卵を五つ使って、卵そぼろモドキを作ってましたから。」

 叔父さんがフライパンに卵を落とす。ジュッと音がする。

「牛乳をたくさん入れるんだ。もっと少ない方がいいって、いったのに絶対に譲らなかった。そんなんでも、段々と、上手くなってね。」

 おじさんは、喋りながら手を動かす。無駄のない手順で、フライパンの中にはあれよあれよという間にスクランブルエッグが出来た。

 皿に盛りつけ、一緒にヒナミの前に置かれる。

 ヒナミは、スプーンを持って、一口食べる。牛乳入れすぎなんじゃないだろうか。


 家に帰ると、ヒナミは電話に直行した。

 調べなくても、番号は覚えている。

『はい、もしもし。』

 数回の呼び出し音の後、ヒナミのお目当ての人物の声が聞こえてきた。ユイだ。

「ヒナミだけど。」

『うん、どしたの?』

「最近、ちょっと痛くて。」

『そっか。無理してるでしょ。』

「頑張ってる。」

『今度、会おうよ。ヒナミちゃんの話、聞きたいな。』

 ヒナミは黙ってうなずいた。


 全国的に有名な温泉だから、もっと混んでいるものかと思っていた。でも、案外そうでもなかった。

 お湯で体があったまり、自然と力が抜ける。

 浴槽の中で泳ごうとするウミの頭を、ヒナミは手で押さえる。

「……ってことが、転校してからあって。」

 長い話を終えて、ヒナミはゆっくりと息を吐いた。

 ウミのことは、ユイには秘密にしておくつもりだった。なのに、気が付いたら全部喋っていた。

 ユイはウミをまじまじと見つめる。

「信じられないよね。ウミのこと。」

 ヒナミの言葉を、ユイは首を振って否定した。

「信じるよ。ヒナミちゃんのいうことだから。」

「ありがと。」

 お湯につかって長話していたもんだから、少しのぼせた。

「そろそろ上がらない?」

 ヒナミがいうと、ユイはうなずいた。

 ユイが先に立ち上がり、ユイに支えてもらいながら、ヒナミも立ち上がる。


 古風で、威厳がある建物を出ると、外はとても涼しく感じた。

「いいお湯だったね。」

 ユイがいった。

「うん。」

 ヒナミも小さくうなずく。

「これから、私の家でも来る? 私も、ヒナミちゃんに色々話したいことあるから。」

「うん。いろいろ、聞かせて。学校のみんな、元気にしてる?」

「うん。みんな元気だよ。」

 そっか。なら、よかった。元気なら、よかった。

 歩き出そうとしたとき、ふと看板が目に入った。そういえば、入るときは気にかけていなかったけど、何が書いてあるんだろう。


『昔、足を痛めた白鷺が岩から流れ出すお湯に足を漬けていました。毎日毎日飛んできては、痛めた足を湯に浸すのです。すると、そのうち白鷺の傷は癒え、どこかへ飛び去っていってしまいました。その様子を見ていた人たちは不思議に思い、同じように湯につかってみました。すると、疲労は回復し、病気は治りました。これが、道後温泉の由来といわれています。』


 看板を読み終えた途端、ヒナミは笑っていた。空を見上げながら、思いっきり口を開けて、笑っていた。

「ちょっと、ヒナミちゃん。どうしたの?」

 ユイが声をかけても、止まることはない。ヒナミは笑っていた。どこか壊れてしまったんじゃないかってくらい笑っていた。

 本当に、どっかおかしくなっちゃったんだろうな。こんなに笑っているのに、なんにもおかしくないんだもん。

 駄目だ、笑いすぎて、涙が出てきた。

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