親切な宿屋

賢者テラ

短編

 それは昔、昔のこと。

 あるところに、一軒の小さな小さな宿屋がありました。

 そこのご主人は気前が良いことで、近所の人から好かれていました。

 ご主人の奥さんは、優しく気立てのよいことでやはり皆から好かれていました。

 だから、その宿屋はいつでも客で賑わっておりました。



 えっ、そんなに繁盛してるのならたいそう儲かるんだろうな、って?

 いえいえ。

 そこが、この宿屋の面白いところなんですよ。



 ある夜。

 旅の途中で、盗賊に襲われ身ぐるみをはがされた男がおりました。

 当時は治安も行き届かず、常にこういう危険はあったのです。

 ケガをさせられた上、所持金もまったくなくなってしまいました。

 痛くて、立ち上がることもできません。

 数人の人が、彼のそばを通り過ぎました。

 ある者は、男に気付かないふりをしてそそくさと歩き去ってしまいます。

 またある者は、広い道幅の一番端にわざわざ寄って、通り過ぎます。



 たまたまそこへ、あの宿屋がある町の女性が通りがかりました。

「まぁ、どうなさったのですか」

 女は男に駆け寄って、抱き起こしました。

「盗賊に襲われました。着物もお金も食料も、すべて失ってしまいました。私にはもう食事をするお金も、宿屋に泊まる金も、傷を手当する金もありません」

 女は持っていた手ぬぐいを水に浸し、とりあえず男の傷口をきれいにし、体の泥を取ってやりました。

 そして、男にこう教えました。

「ここから2マイルほど進んだところに、宿屋があります。そこのご主人と奥さんは、とても親切なことで有名な方です。きっと力になってくださいますよ——」



 ドアにかけてある小さな鐘が、カランコロンと鳴ります。

「やぁ、いらっしゃい」

 宿屋の主人は男に気付き、満面の笑みで歓迎します。

 主人が笑顔であればあるほど、男の心の中は気まずさでいっぱいになりました。

 なぜなら、男は払うべきお金がなかったからです。

「じ、実は……」

 そこへ奥さんもやってきて、主人と一緒に男の話に耳を傾けます。

「盗賊に襲われまして、もう私には今日明日食べるものもお金もなく、泊まるところもありません。先ほど親切なこの町の女性の方が、ここに来れば必ず力になってもらえます、と教えてくれたもので——」

 男は、自分が一文無しだと知れば、お客だと思ってしていたニコニコ顔が急に曇って不機嫌になることを恐れておりました。でも、それはいらぬ心配でした。

「おお。それはたいそうお困りでしょう。大変な目に遭われましたねぇ。心配はいりませんよ。お代は結構ですからここにお泊まりなさい」

 不機嫌どころか、主人の顔はいっそうにこやかになりました。

「さあさ、お部屋へ案内しますよ。もう少ししたらお夕食ですから、その頃また呼びにまいります。どうか、何も心配なさらないでゆっくりなさってください」

 奥さんも、いやな顔ひとつせず男を部屋へ案内します。



 万事がこの調子なので——

 宿屋はいつも人だらけでしたが、大して儲けにならないのでした。収入は少なかったですが、宿屋の主人と奥さんの生活は乏しくなることはありませんでした。

 宿屋は、いつも旅人の笑顔と笑い声で満ちていました。

 そして、困った時に親切にしてもらった客が、またお礼にといって宿屋を訪れることも多かったので、ここの人の出入りはひっきりなしでした。

 でも、宿屋の主人は建物を増築したり、大きく立派な宿にしようとはしません。

「今のままが、一番いいんじゃよ」

 それが、主人の口癖でした。



 月日は過ぎ、人は去り——。

 どれくらい時がたったでしょうか。

「ねぇあなた。楽しかったわねぇ」

 満ち足りた表情で、奥さんは宿屋の主人の肩に寄りかかりました。

「そうじゃな」

 ご主人も、奥さんの背中に優しく手を回します。

「ねぇ」

 何か名案を思いついたのか、奥さんの顔が輝きます。

「そうですよ。これからも宿屋を続ければいいんですよ!」

 まるで、何で今まで思いつかなかったのかしら、とでも言わんばかりです。

「なるほど。それはいい!」

 思わず、ご主人は手をポンと叩いて奥さんに賛成しました。

「この宿を必要としてくれる人がいる限り、宿屋を続けようじゃないか」



 一人の小さな女の子が、誰もいない暗い道をトボトボ歩いています。

 目に涙をいっぱい溜めて。

 見渡す限り、何もありません。

 荒涼とした不毛の大地が、地平線が見えるほどに広がっているばかりです。女の子はたったひとりで、まったくどうしていいのか分からずにフラフラと歩いています。

「……お母さん」

 いません。誰も返事をしません。

「……お父さん」

 いません。誰も返事をしません。



 誰もいないと思っていた闇の中から、誰か人の姿が浮かび上がってきました。

「まぁ、お嬢ちゃん。どうなさったのですか」

 一人の女が、この小さな女の子のそばに駆け寄ってきました。

 そして腰をかがめ、女の子と目線を合わせます。

「飛行機、落ちたの」

 あの恐怖を思い出したくもない、というような表情で女の子は答えます。

「気がついたら、私一人なの。お父さんもお母さんもどうなったか分からないの」

 不安で不安でしょうがないのでしょう。女の子はまた泣き出しました。

「お嬢ちゃん、お名前は?」

「……スージー」

 女は立ち上がって、スージーの手を引きます。

「ここから2マイルほど行ったところに、とても親切な宿屋さんがあるんですよ。きっと、そこならあなたを優しく迎えてくれますよ」



 ドアにかけてある小さな鐘が、カランコロンと鳴ります。

「やぁ、いらっしゃい」

 宿屋のご主人は、不安げに戸口に立つ女の子を招き入れます。

「まぁ、かわいらしいお嬢ちゃんがお客さんだわ。大歓迎よ」

 奥さんも、笑顔で駆け寄ってきます。

「……私ね、お父さんもお母さんともはぐれちゃったの。これからどうしていいか、分からないの」

 スージーは、そう言って顔を曇らせます。

「そうか。お前さんだけが、こっちの世界へ来てしまったんじゃな」

 宿屋のご主人は、何か知っていたのでしょうか。しきりにうなずいています。

 そして、親愛の情を込めた視線で、スージーを見つめました。

「これから、わしらと一緒にここで宿屋をしよう。今日からお前さんも、ここの従業員じゃ。楽しいぞう——」

 暖炉の暖かい火の光に照らされて、それまで曇っていたスージーの顔がパッと輝きました。

 まるで、ヒマワリが一瞬で咲いたみたいです。

「ホント? 私、ここの『じゅ~ぎょ~いん』になれるの? 何だか、オトナになったみたいでうれしいな!」

「さぁさ。これから一緒に夕食の支度をしよう。なぁに、料理もじき覚えるさ」

 すでにそこで働いていた男に手を引かれて、スージは仲良く台所に向かいました。

 その男は、かつて盗賊に襲われたところをこの宿屋で親切に迎えてもらった、あの男でした。



 それから、スージーは宿屋で楽しい日々を送りました。

 お父さんとお母さんはいませんが、親切な宿屋の主人と奥さんがいます。

 一緒に働く、気のいい男もいます。

 彼女を宿屋へ連れて来てくれた女も、時々訪ねてきてくれます。

 お客さんも、たくさん泊まっていました。

 ベッドを整えたり、男と一緒にスープを作ったり、お客さんに食事の給仕をして回ったりー。

 楽しく働いているうちに、お客さんとも仲良くなりました。

 スージーは、みんなからたいそう好かれました。

 スージーは、喜んで歌を歌います。



 お日様が昇れば

 私は小鳥さんと一緒に朝の歌を歌う

 そんなに急いで飛ばないの

 あなたのご飯はちゃんとある

 いつでもあなたは覚えられていて

 忘れられることがありません

 


 夕日が沈めば

 私はからすと一緒に夜の歌を歌う

 そんなに急いで食べないの

 あなたのご飯は誰もとらないから

 それよりねぇ

 ゆっくり楽しく、お話しましょ

 私とあなたの時間は、たっぷりとあるのだから



 一人の少女が、トボトボと歩いています。

 その皮膚には、血の気がありません。

 服に覆われていない部分は真っ青で、木の枝のような赤い血管が痛々しく浮かび上がっています。

「……死にたくなかったのに」

 少女の目は、真っ赤です。

 彼女の歩いたあとの地面の草は、影が触れた部分はみんな枯れてしまいます。

「何でよ」

 口を開くと、それはライオンの口かと思えるほど大きく見えます。

 グワッと開いた口には、肉を噛みちぎったばかりのような、血のしたたる牙が。

 そののどの奥はまるで底知れぬ深い穴のようで、中央には蛇のような舌がチロチロと動いておりました。



 そこへ、近付いてくる影があります。

「まぁ、一体どうなさったのですか」

 女が近付いて来て声をかけますが、恐ろしい形相の少女は獅子のように吼えたけって後に飛びのきます。

 その姿はまるで、敵を威嚇する蛇のようです。

「来るなあああああ」

 肩を上下させて、ゼイゼイと激しい息遣いをして女に言います。

「信じていたのに、信じていたのに——」

 目から、血の涙がドクドクあふれてきます。

 ダランと急に顎が下がったかと思うと、のどの奥から緑色をした吐瀉物がドボドボとあふれ出て地面に落ち、激しい酸の湯気を立てました。

 オオウウン、と激しく暗い空に向かってひと声高く吼えました。

 女は怖がりもせず、嫌がりもせず少女を抱きました。

「大変だったでしょう。お辛かったでしょう」

 いきなりそうされた少女は、予想外の出来事に戸惑っておりました。

 心なしか、悪魔のように鋭く吊りあがっていた少女の目尻が、ちょっと下がったように見えました。



 ドアにかけてある小さな鐘が、カランコロンと鳴ります。

「やぁ。いらっしゃい」

 宿屋のご主人と奥さんが、迎えに出ます。

 魔界の者のようななりをした少女を見ても、ご主人はまったく顔色を変えません。

 奥さんも、ニコニコ顔を崩しもせず、まったく動じる様子がありません。

「お前さん、名前は?」

 宿屋の中は、とても暖かい雰囲気に包まれています。

 優しいオレンジ色の照明。そして、スープの煮える美味しそうな匂い。

 自分が場違いに思えて気が引けたのか、一歩後ずさりしてうつむいた少女は、ポツリと一言答えました。

「成美。菊池、成美」

 ご主人は、目を細めました。

「何も言わんでいい。いろいろあったんじゃろうな——」

 成美は、その場にがっくりと膝をつきました。

「……殺されたの。私、信じていたのに。彼のこと、信じていたのにぃ!」

 また、忌まわしい記憶がぶり返したのでしょう。成美は無念の涙を流します。

「まだ高校生だったのに。やりたいこともいっぱいあったのにぃ。私、バカだったよう。愛って何か分かってもしやしないくせに、手を出した私にバチが当たったのかな。でも、もう遅いんだよね」



「ナルミお姉ちゃん。そんなことないよ」

 食事の用意を終えたスージーが、いつの間にかそばに来ておりました。

「私もね、パパとママと別れてこっちに来ちゃった時に、この宿屋さんで親切にしてもらったの。そいでね、今はここですっごく幸せなの。だからお姉ちゃんもここで私と一緒に暮らそ?」

 奥さんは、口に手を当てて笑います。

「まぁま、この子ったら! 私が言おうと思っていたことを先に言ってしまいましたよ。さすがはこの宿屋の従業員」

 ご主人も、アッハッハと高笑いをします。

「そうさね。スージーも今じゃわしよりも立派な宿屋の主人のようなもんだ。ナルミさんとやら、お前さんが望むなら、ここでわしらと宿屋の切り盛りを助けてくれると助かるんじゃが」

「そうとも。仲間が増えると私もうれしい」

 いつの間にか、盗賊に襲われた男もそばに来て言います。

 成美は、みるみる怨霊になる前のかわいらしい姿に戻ってゆきます。

 スージーは成美の足元に抱きついて、見上げてニッと笑いました。スージーの背丈は、まだ高校生の成美の腰の下ほどまでしかありませんでしたから。

 成美はかがんで、スージーをしっかりと抱きました。



「やぁ、めでたいな。宿屋はますます大繁盛じゃ」

「そうですわねぇ、あなた。やっぱり、続けてよかったですわね」

 親切がウリの宿屋のご主人と奥さんは、たいそう喜びました。

「ナルミ姉ちゃん、こっちこっち」

 スージは成美の手を引いて、グイグイ引っ張ります。

 成美は、思わずおっとっととよろけました。

 まぁ、この小さな体のどこにそんな力があるのかしらね!

 案内された部屋には、すでに宿のお客さんが集まっており——

 新しく従業員の一人に加わった成美のことを知って、拍手で迎えました。 



 今から、楽しい楽しい食事の時間なのです。

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