中世の黄金郷 マリ帝国について


 イタリア戦争が巻き起こる前、イタリアの対東方交易を強力に支えたのが金属資源としての"金"であり、その入手元はアフリカでした。


 大体1200年頃にマリ帝国という巨大な国がアフリカに誕生しました。1300年頃には当時イタリア商人の間では黄金郷と噂され、またイスラム系学問の中心地として国際的に有名になります。大航海時代が始まると衰退滅亡しますが、それでも中世という時代の中では世界的にみても偉大な帝国の一つでした。


 住みにくそうなイメージがあるアフリカですが、いったいどのようにしてマリ帝国は繁栄したのでしょうか。その成り立ちは非常に面白く、詳しく見ていくと俗にいう"中世ヨーロッパ"とは一味違った世界を味わうことができます。



・大まかな地理

・塩の問題

・サハラ交易

・マリ帝国の繁栄

・王の聖地巡礼とその後

・帝国の衰退

・マリの文化

・歩兵の武装

・歴史上の国と物語


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・大まかな地理


 さて、マリと聞いて正確な位置を思い浮かべることができる人は少ないことと思われますので、まずは地理を確認しなければなりません。


 特にこの文明については欧州に見られない特殊な条件がいくつか備わっていますので、それを確認することは有用です。



 現代のマリ共和国はアフリカにありますが、中世のアフリカ帝国との位置は大きくずれています。アフリカは大戦時に帝国主義国家が激戦を繰り広げた舞台ですので、歴史上の領土と現在の国境線が合わないことは珍しくありません。


 立地、民族、歴史的な性質上、中世に存在したマリ帝国と現代のマリ共和国では、首都はおろか主要都市もがらりと変わっています。



 さて、マリ帝国の大体の位置はどこかと一言で表すのであれば、西アフリカ内陸ニジェール川沿いとするのがいいでしょう。


 北に向かって地中海沿岸にでるには世界最大の面積を誇るサハラ砂漠を越えなくてはなりません。北アフリカと呼ばれるその土地は、ベルベル人が支配しています。


 また、南は後に奴隷海岸と呼ばれる海岸があります。もちろん奴隷海岸と呼ばれるようになるのはもう少し後の話ですが、これで大体の位置はお分かりいただけたと思います。


 アフリカ大陸の西に出っ張った部分の真ん中あたり、と考えれば大体あっています。



 砂漠のイメージが強いアフリカですが、西アフリカ内陸にはニジェール川という大きな河川が大きく湾曲した形で流れており、巨大な三角州を形成しています。ニジェール内陸デルタと呼ばれるその土地は氾濫原であり、例にもれず肥沃な土地となっています。


 水の供給源であり、重要な農耕地でもありました。衛星写真をみると、砂漠と緑地の境界線がはっきりとできているのがわかります。この水源を中心として数多くの部族が点在してきました。


 人々はここで農耕と牧畜を行っていました。アフリカは十分に定住できる地域なのです。



・塩の問題


 豊かなニジェール川流域ですが、致命的な欠点が一つあります。塩の産出地がないのです。

 人間が定住を行う際の重要なポイントして、農耕ができる土地であるというのは想像に難くありませんが、重要な条件の一つとして塩がなければなりません。動物にとってミネラルは必須の栄養素ですが、特に塩は重要です。

 今まであまり触れてきませんでしたが、塩がどのように供給されるかということは国をデザインする上では非常に重要です。


 人が塩をとる場合、産出地点は大きく分けて2つあります。海と山です。

 塩の名を冠した道や都市は世界中のあらゆる国家で見ることができます。塩の生産を塩田に頼る日本でも、海岸から内陸に向かって伸びる"塩の道"というのがあります。

 

 残念なことにニジェール川周辺には塩がとれる場所はありません。マリ帝国は内陸ですので、当然岩塩に頼らなければならないわけですが、その岩塩がとれる場所はマリ帝国の首都だったニアニから、北北西に約1500キロにあるタガザ塩鉱という場所でした。

 タガザ塩鉱と首都ニアニを結ぶ道はニジェール川流域に住む人々にとってライフラインだったのです。



 マリ帝国の前にニジェール川を支配したのはガーナ王国という国だったのですが、なんとそのタガザ塩鉱が開かれるずっと前に建国されています。口伝による伝承のみで、まだ歴史家の間でも結論は出ていないようなのですが、もっとも古くて350年頃からと言われています。


 しかし、このタガザ塩鉱が開かれたのは大体1000年頃であるとされています。

 ガーナ王国はどうやって塩を確保したのでしょうか。


 答えは交易です。西アフリカは金山が非常に多く、豊富な金を採掘して輸出することで塩を手に入れました。

 取引相手は地中海沿岸諸国です。地中海沿岸の国家は金が足りず、逆に塩は有り余っていました。


 ニジェール川流域と地中海の交易は紀元前から行われてきたと言われています。ガーナ王国はこの交易を独占することによって周りの部族を束ね、栄えたのです。



 現在ではタガザ塩鉱は枯渇していますが、代わりにタガザから南に160キロの地点にタウデニ塩鉱が1500年頃に開かれました。

 今でもそこからラクダの隊商が750キロも離れたニジェール川周辺に向かって岩塩の板を運んでいるようです。



・サハラ交易


 サハラ交易、またはサハラ縦断交易と呼ばれるこの交易は、地中海に金を供給し、ニジェール川周辺に塩を供給しました。イタリアはこのようにして金を手に入れ、東方との貿易に利用したのです。


 サハラ交易の始まりは紀元前とされます。砂漠を進む北周りと砂漠を避ける東回りがあったようですが、東回りの交易路の安全が確保できなくなると北回りに一本化されます。


 西暦1000年頃になってタガザ塩鉱が開発されてからも、その重要性は失われることなくむしろ増します。

 タガザ塩鉱を中継地点とし、サハラ交易は栄えました。

 ニジェール川周辺諸族にとって、塩をはじめとした北方からの資源や技術を入手できるこの交易路を抑えることは、すなわち一帯の支配権を握ることだったのです。


 サハラ交易は技術や資源だけではなく、イスラム教の流入を後押ししました。北回りの交易路が伸びる先、地中海南の土地を支配していたのはイスラム教徒であり、改宗が取引条件になったこともありました。



 サハラ砂漠を縦断するという、過酷で危険なこの交易は莫大な投資が必要です。現地案内人やオアシスへの先触れなどがなければならないからです。

 しかし地中海諸国の商人にとって儲けが大きいこの交易は、度々行われました。なんといっても塩と金が同等の値段で取引されるのです。それは西アフリカ沿岸の航路が開かれるまで続きました。



・マリ帝国の繁栄


 北アフリカを支配していたベルベル人の王朝、ムラービト朝によってガーナ王国は滅亡しましたが、強力な指導者だったユースフが死亡すると再びニジェール川諸族の支配権争いが始まります。

 もともと小さな部族の連合国家なので、基本的には一時的に指導者がいなくなったとしても、民族そのものが滅亡することはありません。



 サハラ交易はガーナ王国が滅び、ムラービト朝がいなくなった後も継続して行われ、西アフリカと地中海に富をもたらしました。


 中でも強力だったのはソソ族(スースー族)だったのですが、それをマンディンカ族が滅ぼし、マリ帝国を建国します。

 ガーナ王国の領土をほぼ引き継ぐ形で、1200年ごろに誕生したマリ帝国ですが、中でも有名なのはマンサ・ムーサでしょう。



 豊富な金山、交易路、肥沃な大地をもとに、マンサ・ムーサ率いるマリ帝国は力を蓄えました。

 このころの交易品はといいますと、マリ帝国から金、奴隷、奴隷戦士、象牙を輸出し、地中海から塩(タガザ塩鉱)、陶器、ガラス、そして先進的な武具を輸入しました。


 先進的な武具というのは、アイアンヘルム、チェーンメイル、ランス、サーベル、ロングソード、アラブ馬といった、欧州諸国の騎馬部隊と同じものです。

 マンサ・ムーサは豊富な金を使ってこれらを大量に輸入し、遂には一万もの重騎兵部隊を編成することに成功します。


 "ニジェール川周辺諸族連合国家"であるマリ帝国に与さない敵対部族はいくつかありましたが、マリ帝国はこの強力な騎兵部隊によって領地や交易路を守ることに成功しました。


 また官僚制のような仕組みも取り入れており、マリ帝国はいくつもの部族を上手く統率しました。部族ごとに戦士団が結成され、それをマリ帝国の武官が率いるという形で、歩兵部隊を編成したのです。



・王の聖地巡礼とその後


 交易が活発に行われる以前はニジェール川流域にイスラム教はなく、精霊信仰がありました。仮面をつけることで動物の霊を下ろし、祖先と交信するといったものです。イスラム教が伝播したあとも精霊信仰は根強く人々の価値観に影響を与え続け、現在でも文化として残っています。


 とはいえ指導者はイスラム教信者であり、マンサ・ムーサも熱心な信仰者です。



 マンサ・ムーサは中世を代表する偉人ですが、その理由の一つが大規模な聖地巡礼にあります。王族に課せられたイスラム教的な習慣ですが、これはマリ帝国の版図拡大を推し進める大きな要因でした。


 王自らが聖地エルサレムに赴くのですから、安全は確保されてなければならなかったのです。

 強力な軍隊と莫大な財源をもとに、マンサ・ムーサは聖地巡礼を成功させます。



 マンサ・ムーサは聖地巡礼から帰国すると、モスク(教会)やマドラサ(高等学問所)といったイスラム教施設を沢山建造しました。

 中でも有名なのがサンコーレ大学であり、なんと2万5千もの学生があつまりました。北アフリカや中東といった、先進的イスラム教国から、占星術や天文学、法学の学者を招聘し、マリ帝国は国際的なイスラム諸学の中心地となったのです。



・帝国の衰退


 イベリア半島の情勢が落ち着き、ポルトガルが大規模な航海を行うようになると、砂漠を縦断する交易路は欧州商人にとってうま味が少なくなりました。

 交易路独占によって軍事力を支えていたマリ帝国はすぐに力を失うことになります。


 1600年代、中世有数の帝国であったマリ帝国はあっけなく滅亡します。



・マリの文化


 実はニジェール流域の民族についてはあやふやなことが多く、いくつもの重要な事柄に確かな裏付けがあるわけではありません。


 イスラム教の技術や歴史家がくるまで歴史を記すという事をしなかった、もしくはできなかったのです。ニジェール川周辺の国のがどのようにして後世に伝わっているのかというと、地中海沿岸諸国から来たムスリム歴史家の記録と、詩人による口承が頼りになります。


 グリオとよばれる宮廷詩人は有名で、多くの歴史はそこから推察されているようです。

 瓢箪をつけた木琴のようなバラフォンという楽器が有名のようですが、その歴史や成り立ちの関係上、人々の娯楽や生活がどのようなものだったのか、ということは性格に知ることはできません。



・歩兵の武装


 マリの騎兵は欧州やアラブの高度な装備を揃えたものでしたが、マリの戦士の特徴は盾であったといいます。

 歩兵も弓兵も騎兵も、皆、顎から膝までを覆う巨大な盾を持っていました。


 ちょっとイメージすると重くて動けなさそうですが、マリの盾は木材、動物の皮、竹のような葦といった比較的軽い素材でできていたので、突撃もできたといいます。


 過酷な環境にあるこの地域では重たい鎧は発達せず、よってクロスボウが必要になることはありませんでした。盾によって飛来する矢や投擲槍を防いでいたのです。


 その盾に対抗するためには矢の殺傷能力を上げなければならないのですが、それは毒を塗ることで達成したようです。



・歴史上の国と物語


 冒険者は環境に適応するために様々な工夫が必要だと書いてきましたが、このように気候が違えばやはり装備も大きく変わるようです。


 砂漠にある国家といえば連想されるのはウマイヤ朝、もしくはアッバース朝ですが、サハラ砂漠以南にも巨大な帝国があったのです。



 恒例のファンタジー転用の話ですが、奴隷戦士が題材として面白そうです。

 高度な戦闘訓練を受けたアフリカの奴隷戦士は地中海諸国への重要な交易品でした。


 幼い頃に戦闘訓練をさせられた精霊信仰を持つ主人公が、欧州系の社会で生きていく物語などは、よくある設定ではありますが、人物に厚みを持たせることができます。

 ありがちかもしれませんが、戦場で経験を積み、欧州系の王宮や商人ギルドと関係を持ち、その団体が行う大規模な交易事業によって故郷に帰還、欧州系団体のバックアップを得ながら祖国を支配する敵対勢力を滅亡させるといった筋になるでしょう。


 奴隷にしなくても、戦士、商人、学者などどの位置をとっても、経済状況が欧州とはかけ離れているために、少し毛色の違う物語になりそうです。



 今の環境に適応できず現代では国力が弱いという国も、国が出来上がった以上、ある一定の期間においては最強を誇っていたのです。そしてその国は、最強を形作ったその土地特有の文化や兵器を有していました。


 まだまだこの界隈にあまり知られていないような国は沢山あるはずで、それらに出会うことができれば、設定の土台としてこれほど心強いものはないでしょう。

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