ハイファンタジーとローファンタジーという分類
"ローファンタジーとハイファンタジーの分かれ目はどこにあるのか"という質問をいただいたので、今回はそのことについて私の思うところを書かせていただきます。
根拠のある話ということはなく、完全な私的な意見である点に注意してください。
また、もしよろしければ読む前にWikiにある"ハイファンタジー"と"ローファンタジー"の記事を一読していただければと思います。同時にこの問題に関して"この二つのページに書かれたことのみをもとに考察を進める"という事を予めご承知ください。
そして"ハイファンタジーとローファンタジーはどちらが優れているか"という議論をしたいのではないという事もご理解ください。
・それぞれに属する作品
・現実度と幻想度、という考え方
・ファンタジーにおける史実と現実度
・個人の環境とファンタジー
・ファンタジーとSF
・まとめ
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・それぞれに属する作品
まずハイファンタジーとローファンタジーについてWikiで記事をみると、いくつかの例外があるものの、その物語におけるベースが"我々の現実の世界"かどうかがポイントになっているとあります。
異世界や架空の世界で物語が進行するならば"ハイファンタジー"、現実世界に魔法的な要素がやってきた、というのならば"ローファンタジー"という事のようです。
これをジブリの作品に当てはめてみるならば、「ナウシカ」や「ラピュタ」はハイファンタジーで、「魔女の宅急便」や「トトロ」などはローファンタジーということになります。
なるほど、なんとなく理解できます。
では魔法少女や超能力者が現代で活躍したり、現代人が異世界に行って知識チートするのはどうなのでしょうか。
例えば「ハリーポッター」の時代設定は現代ですがハイファンタジーに分類されますし、ローファンタジーの記事には「氷と炎の歌」という中世ヨーロッパを舞台にした作品が例に上がっています。
・現実度と幻想度という考え方
これは"その物語の現実度がどれくらいか"という問題に置き換えることができるのではないかと思います。
現実度幻想度とは私の適当な造語ではありますが、"物語に出てくる単語、要素、価値観などがどれだけ現実世界に存在している物なのか"、また"どれくらい現実世界の要素をもっているか"ということを考えていくものです。
例を出して考えてみたいと思います。
"異世界転生した主人公が神から特殊な力を与えられて悪の勢力をやっつける"という物語があったとします。
"転生"や"異世界"という要素は現実世界で起こり得る事柄ではなく、したがってこれらの要素が持つ幻想度は非常に高いものになります。
これはハイファンタジーで間違いがないでしょう。
しかし主人公の行動があまりにも現実世界に寄っていたらその限りではありません。
特殊能力として与えられたのが"無限に発砲できる突撃銃"となった場合はどうでしょう。
銃は現実世界で発展した経緯をもつ物品であり、銃が持つ現実度は非常に高いものになります。一方で、"無限に発射できる"というのは現実世界ではありえませんので、幻想度もそこそこ高くなるでしょう。
ただ平凡に進むとその物語の大筋は、"現実世界の兵器がファンタジー世界の住人に対してどの程度威力を発揮するか"となることでしょう。
銃自体が引き起こす現象、すなわち"弾を撃って敵を殺す"という行為自体は現実度の高いものです。さらに話の中ではサイレンサーだとかロングバレルだとか、そういった言葉が飛び交う流れになっていきます。
そうなってしまうと物語全体の現実度はどんどん上がり、それが幻想度の高い要素、例えば街並みの描写やモンスターの生態などを上回った時、その物語はローファンタジーになるのではないでしょうか。
しかし"銃"がただの攻撃手段という要素にとどまり、且つその世界の衆人の目にどう映るか、敵側が銃に対してどのような対策をとってくるかという、ファンタジー世界の住人の行動に重きが置かれるようになれば、総体的に現実度は下がりハイファンタジーになるかもしれません。
他にも異世界転移という題材であれば、"現実世界とファンタジー世界を行き来が自由にできる"という設定は、物語に現実世界に大きく関わる要素が増やし現実度を大きく上げる要因になりえますが、それが主人公の意思に関係なく行われるようであれば、幻想度が上がることでしょう。
戦争で魔法が使われてたとして、その利点欠点や運用方法がマスケット銃や土木作業等と全く同じものであれば、魔法が持つ幻想度は一気に下がることになるでしょう。
これは物品や事象だけでなく、登場人物の思想や行動にも関わってきます。ファンタジー世界生まれの人々が、現実世界の倫理観や価値観に従って行動すれば、それはローファンタジーになることでしょう。
このように出てきた単語や題材によって幻想度現実度が上下し、作品全体の雰囲気を決定づけるのではないでしょうか。
・ファンタジーにおける史実と現実度
さて私はこれまでのページで散々史実をもとに考察をしてきました。
"魔法が出てきてドラゴンが出てくるなら大体ファンタジー"だろうという乱暴な考えにより書いていたし、それが私のハイファンタジーのイメージでした。
しかしWikiには、"中世イギリスの薔薇戦争をモチーフにした架空戦記がローファンタジーになりうる"とあります。
どうやら史実に則するとローファンタジーになる可能性を秘めているようです。
その小説ついて言えば、ベースが"中世イギリス"とはっきりしており、世界そのものが現実度の高い舞台となったからだと考えられます。
ではそうすると本編で書いてきた"史実をもとにした考察"に従って構築された世界は、すべてローファンタジーとなるのかという問題が浮上します。
おそらくそれは違うといえるでしょう。
重厚な世界観や壮大な勢力の対立、というのがハイファンタジーの条件でもあるのです。ハイ・ロー関わらず、ファンタジー小説では不思議な世界が実際に目の前にあるかのように存在し、それを主人公が読者と共に・・・・・体験していかなければなりません。
"進化の収斂"という言葉がありますが、人間の技術の進化は大体同じ流れをたどるのではないかと予想されます。いくらハイファンタジーとはいえ、人々は農業を営み服を着て、欧州チックな建物に住んでいることでしょう。
これまでに度々書きましたが人が暮らしていてその上に王様がいるということは、それなりの社会的な発展の経緯があるのです。
こういったことをすべて無視して書いてしまえば、読者が一緒にその世界を体験していくという、もっとも大事な部分が崩れることになりかねません。
描写によって、ある程度読者の中で世界を構築してもらい共有しなければいけません。よって、我々が持つ共通知識に沿った世界観を構築する必要があるのです。
もしそれを避けるのなら、その小説はオリジナル用語が頻出する、読みにくくイメージしがたいものになっていくのです。
しかし一方で世界観を説明しだすと、現実世界の体制や事件をモデルとしてはっきりと登場させることになってしまうかもしれません。そうすると先ほどのばら戦争モチーフの小説のように現実度は跳ね上がります。
「確かに詳しく経緯を考察すればこういうことだが、作中ではその一端だけを見せる」というスタンスをどれくらい貫くかが、雰囲気を守っていく上でカギになってくるでしょう。
社会発展システムのモデルというのは、いわばソフトのプログラムのようなもので、内部処理は内部処理のままとどめておく方が幻想度があがる場合もあるでしょう。
以上を一言でまとめると、ハイファンタジーの条件は"底の見えない重厚な世界観がカギ"ということになります。どのくらい複雑なプログラミングがされているか、という点も幻想度を上げる要因といえるでしょう。
本小説の目的の一つはここにあるといえます。
これまでに出した物を例にあげますと、「"冒険者がキャラバンサライのような宿屋に泊まっていた"としたら、その背景には、"冒険者は都市に宿泊できない、庶民は農村社会を形成している、外来者に対して不信感がある、国が冒険者を認知して支援している、ギルドが大きな経済力を持っている、文化交流が為される、冒険者同士の交流がある"などの可能性が生まれ、そういった要素からさらに物語が生まれるのではないか、そしてそれは"中世ヨーロッパ"から逸脱した部分と寄り添った部分があって、辻褄があったファンタジー要素となり、世界観がより深くなるのではないか」という事になります。
とはいえここまで物語の中で描写されれば、一気に現実感が増してしまうでしょう。"キャラバンサライ"と直接言ってしまえば"舞台は中東区域かな"と読者は勝手に想像してしまいます。強烈な日差しやオアシスの風景を構築してしまうことになります。
そこである程度隠す必要性が出てきます。
例えば浅黒い肌を持つ山岳地帯にいる民族が、やたら高い戦闘技術を持っていたとします。
そこに「山岳地帯にて荘園が発達することがなく、傭兵稼業で生計を立てるしかなかった」と直接書いてしまうと知っている人などは、"あぁ、スイスがモデルなのかな"として現実度は上がります。
食料を輸入に頼ってる様子がちらりと書かれていたりするだけに保たれれば、幻想度が下がることはないのかもしれません。
つまりチラ見せがハイファンタジー、もろ見せはローファンタジーなのです。そしてこの一文が何を表しているのか、あえて書かないのがハイファンタジーなのです。そういうことなのです。
・個人の環境とファンタジー
第一部にて、一般的なファンタジー世界とは魔法とモンスターが存在する世界で、中世、こと1100年あたりから1200年あたりまで発展した世界であるとしています。
ネット小説を読み漁った時の全体的なイメージとしてはそうだと思いますが、しかしおとぎ話や童話のようなものもファンタジーであり、それが起こる世界もファンタジー世界です。
ありえないこと、起こりえないことをファンタジーというのです。
以前その結論に達した私は、高校以来の友人にこのことを話し、だからクリスマスを楽しむだとか、夏に海を満喫するだとか、恋愛たっぷりな青春、っていうのはファンタジーなんだよ!と、力説したのですがあっけなく敗北しました。
考えてみれば彼にとってはそういう日常を過ごしていた時期が確かにあり、逆に私のような思考回路がファンタジーだというのです。
私にとっては夏に海を満喫するというイベントは十分に幻想度が高い出来事なのですが、人によってはそうではないようです。
すこしふざけた話でしたが、環境によって事象に対する幻想度は違います。
よってファンタジー世界を上手く構築し、そこで起こる事件を体験することができれば、それは質の良いファンタジーとなることでしょう。
・ファンタジーとSF
"魔法"という存在は架空技術なのだから、サイエンスフィクションに分類されてもいいのではという考え方もできます。
十分に発達した科学技術は、という話もありますが、そうなるとこの二つの境目があいまいになってしまいます。
そこで現実度と幻想度という考え方を引っ張り出すのはどうでしょう。
作品の幻想度が高ければファンタジー、幻想度が限りなく低ければSFと。たとえばSF小説でもっともらしい理論を用いて架空技術を詳しく説明するのは、現実度を上げるための手段であると言えます。
次元が違う話になってしまいますがそういう考えもできます。
・まとめ
現実度が高ければローファンタジー、幻想度が高ければハイファンタジーといえます。
幻想度を上げたいのなら、
1、現実世界にない概念を登場させる
2、現実世界にない何らかの力を登場させる
3、1と2を使って現実では起こりえない現象を描く
4、これらを説明を詳しくしない
という手段が挙げられるでしょう。この逆のことを書けば書くほど、現実度が上がります。
そしてこれらがぼんやりと作品全体の雰囲気に影響し、これはハイファンタジーだ、ローファンタジーだ、と決定づけられるのです。
設定づくりの段階では、まだ作品の現実度の変動はないでしょう。いくらその世界の設計図をどちらかに偏らせたところで、それは作品全体の雰囲気には影響しないからです。
構想はともかく、設定という次元ではハイファンタジー、ローファンタジーのくくりはないだろうと思っています。
登場人物と読者が一緒に世界を体験するのであれば、魔法は納得できる方法で使用され、納得できる理由で進歩するべきではないでしょうか。幻想度が高かろうが低かろうが、物語の辻褄は"多くの場合"合ってなければならないのです。
それがファンタジーか否かという疑問は次元が違う話題です。
こういったことに無頓着に物語が進行していくと、意図せず現実度と幻想度が大きく変動してしまい、読者は無意識に混乱します。
もちろんそれを逆手にとって劇的な効果を狙った作品もあるでしょう。夢落ちなどは最たるものです。
ここまで考察してきた正直な感想ですが、今のファンタジーはこのように分類される限りではないと思います。非常に曖昧模糊としていて、その境界線はあやふやです。
というかここまで書いてきてなんですが、この分け方自体が、まだ物事に多様性が認められていない時期に作られた、ある意味旧時代的な概念ではないでしょうか。
そんな乱暴な分類方法をとる学問は今時ないでしょう。
不可思議な昆虫の名前が話題になることが度々ありますが、多様性を持ったものを分類し名付けようとした時にはそのような事が起こるのです。
自由に創作活動をして、それを自由に発表するという「ネット小説」において、このような分類を突き付けられることはナンセンスなのではないかという身もふたもない話になってしまったところで、この話を閉じたいと思います。
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