宿屋の不思議

 多くのファンタジー小説で、町に着いた冒険者が一番初めに気にすることといえば何でしょうか。

 そう、宿探しです。


 冒険物にほぼ必ず出てくる施設が宿屋でしょう。

 現代でも旅行中や出張中の人達は住むべき家を持たないので、宿泊施設を利用しなければ一夜を越すことができません。


 しかし、このような考察を書いていると、宿屋について疑問を抱くことがあります。宿屋という職業形態はどう発展し、史実中世やファンタジー世界ではどうなのかということです。


・ゲームの中の宿屋

・官僚と宿

・旅と宿と身分証明

・交易と宿



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・ゲームの中の宿屋


 たとえば某国民的RPGでは、宿屋は各都市、町、村に存在して、24時間年中営業しています。これは非常に不思議な施設です。


 宿屋は都市から都市へと移動する人のための施設ですが、あの都市間の移動の際に何回もモンスターに遭遇する世界において、都市間の移動という行為は一般的でしょうか。


 しかも魔王が襲撃してきて人々が恐慌状態にあるとなれば、治安も景気も最悪になるでしょう。

 そんな中で旅ができる人、言い換えれば主人公一行程度の武力をもった人が主な客層、という商売はどうも考えづらいのです。


 もちろんRPGのゲームシステムの一つなのだからそこに違和感を覚えたことはありませんし、つっこむ必要もありません。

 ひょっとしたら、国と提携して勇者一行に一定の料金で宿を提供しているただの民家かも知れません。そう設定してあるけど描写は省かれていると想像しても良いのです。

 特に一人一泊1オーラムなあのRPGの宿屋は確実に国家機関の援助が入っているでしょう。


 しかし中世ヨーロッパという世界において、"宿"という事業がどうやら起こりそうもない、という事はこれまでの部分を読んでいただければお分かりいただけると思います。 

 事実、宿泊施設についてしばらくネットで検索を掛けてみましたが、知っている以上のことはでてきません。


 ファンタジー世界で宿が発展する理由をいくつか考えてみましょう。



・官僚と宿


 日本には宿場町が発展した歴史がありますので、日本の宿泊サービスの技術レベルは相当に高いものがあります。

 その宿場町はもとはといえば、中国の官僚制の発達とともに出来上がった連絡網に由来します。


 しかし中世ヨーロッパにおいて、官僚制は出来上がっていません(イギリスにはその走りのようなものがありました)。官僚制が採用されるのは近世になってからです。


 もし官僚制が導入されていたら、冒険者は国によってそこに泊まることが許されていたかもしれませんが、似たような存在である徴税人や巡回騎士の宿泊施設が、民間に解放される絵は想像しがたいものがあります。



・旅と宿と身分証明


 官僚の為ではなく純粋に旅人のためだったらどうでしょうか。

 今まで書いてきたように、中世の特徴である封建制は農地に人を縛り付ける社会体制です。人的に流動性のない制度は閉鎖的な社会を作り出します。


 それは"外の人間に対して厳しい"という価値観を生み出します。

 ぽっとやってきた人間に対して信頼を置けないでしょうし、もちろん盗賊の存在もありますので、警戒心は一層強かったでしょう。


 訪問者は常に外敵であるという疑いが強くかけられるわけです。

 経済活動という概念がなければ村で生産した大切な食糧をよそ者にやる、というのも抵抗心があったことでしょう。



 加えて、市壁の内側に住むには領主に忠誠心がなければならなかったと以前書きました。

 ギルド証みたいなもので、もしかしたら入国許可は得られるかもしれませんが、信用を得るには封建制は不自由すぎます。


 現代ですら、外国人がホテルや旅館に泊まる際には、ホテル受付でパスポートのコピーを取られるのです。

 ただ、その身分証明書というのを我々は皆持っています。IDカードともいうやつです。


 このIDはアイデンティフィケーションの略であり、同じ語源にアイデンティティという言葉があります。

 つまりそれで何が言いたいかというと、個人の証明を行うには、個人が個人と認められる必要性があるのではないか、ということです。

 農奴だなんだ、と言っている状態では無理な話でしょう。


 因みにホテルが登場するのは植民地支配がはじまって、支配者が植民地に作ってからのようです。欧州で商人や貴族が外に船を派遣し始めるのが近世、庶民が旅をし始めるのも近代あたりからです。



 このように、中世の人々にとって旅行をするという感覚は無く、したがって旅行者に向けられた宿泊施設は考えにくくなります。


 とはいっても、中世になるころにはキリスト教徒の巡礼や石工職人が仕事を求めて遍歴していたようですから、それらの人々が宿泊する場所はなければなりません。聖地を目指す巡礼が流行ったのも西暦1000年程度からの話です。


 しかし両者ともに所属団体がしっかりしています。石工ギルドは宿泊施設をもっていたでしょうし、修道院を見学すれば、巡礼者用の部屋があるのを見ることができます。


 そう考えてみると、ファンタジー世界での宿屋の経営は冒険者ギルドがやっているか、同じ商工ギルドの傘下にあるとするのがいいのかもしれません。



・交易と宿


 中世ヨーロッパにはメインイベント、十字軍遠征によって外の人間が沢山入ってきたという経緯があります。


 外の商人や、外の学者がたくさん入ってくることで、流動性のない社会は崩れていきます。封建制によって起こった十字軍は、封建制を終わらせる要因となってしまったのです。


 人材の流動性という面であれば、宿泊業が発展するほどファンタジー世界では冒険者の活動が活発なので、封建制度は早くに終わるのかもしれません。


 このファンタジーの宿泊施設とはどのようなものだったのでしょうか。どうにかファンタジー世界の宿に匹敵するような、都合の良い宿が史実中世に見つけられないでしょうか。



 中世の旅人である貿易を行う商人達の代表的な宿としては、キャラバンサライという施設があります。

 このキャラバンサライという建物は隊商の為の宿です。


 少し欧州からはずれてしまいますが、国家による交易ルート整備の際、地中海沿岸や内陸の交易路に沿って、多く建てられました。やはり1100年前後の話です。


 そのキャラバンサライという建物には宿泊施設はもちろん、浴室に礼拝堂、炊事場などの生活空間に加え、厩舎に倉庫、さらには取引所が備えられています。そこには管理人や荷運びをする人、警備をする人が常駐していたようでした。


 商人達はこのキャラバンサライを拠点に、周辺の村や遊牧民の集落を回ったようです。この交易路を利用した交易はヨーロッパで大航海時代が始まるよりずいぶん先に、莫大な富を生み出しています。


 国が宿泊施設に力をいれるのですから、交易こそが主要産業だった部分もあるでしょう。


 キャラバンサライは隊商宿、と訳されていますが、このサライというのは、ペルシア語で館、宮殿、オアシス、故郷、という意味があるようです。


 果たしてキャラバンサライのサライと、ペルシア語でのサライが100パーセントイコールであるのかはわかりませんが、隊商を組む彼らにとってこのような宿があったら故郷のように感じることでしょう。


 キャラバンサライは文化交流の地であり、隊商に便乗する学者や僧侶によって、様々な知識や情報の交換が行われていました。

 猛烈に暑いアラビアにあって涼しい風が流れる吹き抜けの廊下で、太陽の殺人的な日光をさけながら庭中央にある池を眺めながら、人々は遠くの学問を教え合い、交流をしたのかもしれません。



 同じように各地を飛び回る冒険者たちも同じような宿屋に泊まるのではないでしょうか。もしかしたら、それは前のページに書いたモンスターに対しての要塞のような機能を持っているかもしれません。


 モンスターの素材の取引所に加えて店も礼拝堂もあってと、まさに小さな都市が一つの建物に形成されるのではないでしょうか。まさに、メダルをアイテムと交換してくれる某王様がいるお城のような感じかも知れません。


 冒険者たちはそこを拠点として、近隣の都市や街、村の依頼をこなしに向かうのです。そこではキャラバンサライで行われたように文化や戦術、物資、情報などのやり取りが始まります。

 このような施設が冒険者たちの心のふるさととなり帰属意識を高めることになるのは想像に難くありません。領主の領地を守っているわけではなく、故郷であるこの宿を守るのです。

 冒険者ギルドが力を持てば、遠くない将来、国家レベルまで権力を握ることでしょう。



 実際の中世とは価値観が違う人々が暮らすファンタジー世界です。したがって冒険者が安易に町の中に入ってしまうのもいいでしょう。

 ただ市壁に入れない冒険者が、このキャラバンサライのような施設に集まる、というのも夢があっていいと思います。


 もしそうではなく、勇者のように旅をしなければならないのならば、村長や修道院の協力を取り付けておいて、先に安全確実に宿を予約しておかなければ、大変な目にあうことでしょう。


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