第5話 普通

「……え、お前、大丈夫なんか?」


俺の登校は、遅刻しない日でもチャイムギリギリだ。


35人で構成される教室が、ある一つの話題で持ちきりになっていた。


当たり前のように教室のドアをくぐった俺に、クラスメイトは困惑と心配の目を向けている。


結局、あの日以来、彼女に会いに行けないまま、月曜日がやって来てしまった。

たった3日前のことなのに、もう何年も経ったような気がしてしまう。

そのくらい、この3日間は長く感じた。


「いや、まぁ大丈夫じゃねーけど大丈夫」


俺は、その場を凌ごうと言葉を模索した。

結論として、矛盾のような返しができてしまったが、これはこれで間違ってはいないので特に言い換えることもしなかった。


「お、おお、そうか」


クラスメイトAはそれ以上は追及して来なかった。

納得したような言葉と苦笑いから、彼の気遣いを感じる。


俺の小さな頷きが合図となり、十秒ほどの沈黙から、また一気におしゃべりの花が咲いた。


が、俺が席に着くとほぼ同時にチャイムが鳴り、


「ショートホームルーム始めるぞー」


と、国語科の細マッチョな、四十代前半の担任が黒板側の扉から顔を出した。


「ええ、みんなも聞いてると思うが、金曜に二組の水無瀬が交通事故に遭った」


日頃から淡々としているが、今日は、いつにも増して穏やかで真剣な雰囲気が担任から漂っていた。


クラスメイト誰一人として身動きせず、全員が前を向いて耳を傾けている。


「……結論から言うと、まだ意識は戻らないそうだ。まあ、これもニュースで持ちきりになってるから知ってるだろ」


「……」


「で、すまないが、学校の外は今マスコミやら取材やらで人が溢れてる。来るとき見ただろうが、あいつらはこっちの気なんて考えずに──」


俺と担任の目が合う。


彼は目を開くことで少しの動揺を見せるも、すぐに話を再開した。


「──あれこれ聞いてくるだろうけど、これ以上は何も話さないでくれとの方針になったから、そこんとこよろしく頼む」


職員会議で決まったのだろうか。

俺は、いつも裏門から校内へ入るから、気がつかなかった。

窓越しに正門の方へ目を向けると、数名の教員と数十人の野次馬が溜まっていた。

交通事故でも、あの時みたいに集るのかと、心に僅かな憎悪が生まれた。


「またなんかあったらその都度俺から伝える。みんなはいつも通り一限の数学から授業を受けてくれ。んじゃ号令」


始まりはパスされた合図が委員長へと飛ばされる。


「起立──」


「あ、すまん忘れてた。今日欠席いるか?」


「いや、いないっす多分」


数人の男子が声を揃えて答える。


「わかった、じゃ委員長」


「礼」


ありがとうございました、という定型文が教室中に響き渡る。


チラホラと席を立つクラスメイトを肘を立てながら横目で見ていると、突如、視界の中央に壁が出現した。


「有賀屋、昼休み応接室これるか」


「あ、はい」


「わかった、じゃあ待ってるからよろしく頼む」


それだけ言い残すと、国語科教師は2年3組を後にした。


その日の授業は、全く耳に入ってこなかった。

日頃は真剣に聞いているかと聞かれたら、頷くことはできないが、それ以上に耳が授業を受け付けなかった。


一限 数学 窓と相対

二限 美術 窓と相対

三限 日本史 窓と相対

四限 物理基礎 窓と相対


お窓くんと親友レベルの付き合いをしているうちに、いつの間にか約束の時間がきてしまっていた。


朝は二つ返事で、はいと答えてしまったが、今になって気が引ける。


何を聞かれるかなんて、容易く予想できるし、何を言われるかも容易く予想できるのが、その理由の大半を占めていた。


俺はスローペースで2階職員室横の応接室へと足を進めた。



「……失礼します」


プラスチック製のドアを二度ノックし、ドアノブを捻る。


年季の入った、高級感の溢れるソファの上には、担任の姿が見えた。


机の上には、二つのコーヒーカップに紅茶のようなものが入っている。


「おう、すまんなせっかくの昼休みに」


「いや、全然大丈夫ですよ」


「そこ、座ってくれ」


顎で示された向かいのソファに、俺は少し頭を下げながら、ゆっくりと腰を下ろした。


「すまんが、一本いいか」


担任は、ポケットからワンコインの小さな箱を取り出すと、中に入った細長い白い棒を指に挟んだ。


「どうぞ」


教員が生徒の前でタバコなぞ、いかがなものかと心では口にしたが、実際に断れるものでもない。


担任はライターでタバコに火をつけると、一度大きく息を吸い、吐いた。

白い煙が、部屋を舞う。


「まあなんだ。こーゆーのは聞いていいのかわからんのだが、水無瀬の具合はどーだ」


担任は、少しの溜めもなく本題を切り出す。

指で顎を摩りながらも、目だけは俺をしっかりと捉えていて、視線がピクリともしない。


「俺も、あの日以来会いに行ってなくて、よくわからないっす」


正真正銘の真実を、黙々と口にする。


「あー、そーなのか。まあそーか」


担任は、自分で勝手に納得したようだった。


「で、有賀屋は負い目を感じてんのか?」


さっきの目と表向きは変わらないが、今度は少し笑っているような、試されているような視線を向けられる。


「いや、まあそりゃ感じますよ」


質問の回答をしていないのにもかかわらず、担任の頬が緩んだ。


「だよな、うん。じゃあお前にとって水無瀬はどんな存在なんだ?」


「幼馴染みで、理解者? です」


「……なるほどな。じゃあ──」


「先生、なんか試してます?」


先生が、片手で持ち上げているカップの中で、紅茶が少しの波を立てる。


「気づくのはええって〜」


笑みが溢れると、無意識のうちに生まれていた緊迫が、薄れていった。


「やめて下さいよ、そーゆーの」


捨て台詞のように吐いた言葉を、彼は静かに拾い上げる。


「……カウンセリングみたいなものだよ」


「……はぁ」


思惑と困惑の目を彼に向けると、息をするように、当たり前の事を口にした。


「普通はな、普通は、学校なんて来れないもんだよ、こんなすぐに」


半開きの窓から、書類の山がパラパラと音を立てる程度の風が吹き注いだ。


普通。

先生の言葉通りなら、俺は普通ではないことになる。

普通とはなんだろうか。

その言葉が、頭の中を駆け巡った。


「……すみません、それは、どういう……?」


俺は、気づいていないフリをするしかないのだ。


「そのままだよ、そのまま」


「は、はぁ……」


俺は、気づいていないフリを続けるしかないのだ。


「まあいい、大丈夫に越したことはないからな」


「えええ、それ気になるやつですよ」


俺は、気づいていないフリを貫くしかないのだ。


「有賀屋……、国語科教諭を舐めんなよ?」


「いや、そんな、舐めてないですよ」


馬鹿にするなという意味でも、もちろん物理的に舐めるなよ、という意味でもないだろう。

彼の言う、舐めんなは、多分、俺にしかわからない。


「はは、すまんな、いろいろ。昼休みももうそろそろ終わっちまうだろ、流石に昼飯抜きは午後がつれぇよな」


担任は、灰皿でタバコをすり潰すと、今までとは一転した口調で話し出す。


「つっても、弁当も何もないんすけどね」


そう言いながら席を立ち、ドア前に向かうと


「有賀屋」


と、後ろから声がし、振り向く。

その呼び掛けとほぼ同時に、日光に照らされて光る何かが担任の手から飛び出した。

慌てて右手でキャッチし、掌を開くと、そこには500と書かれた丸い硬貨が仰向けに置いてあった。


「帰りに購買でなんか買ってけ、情報料だ」


なんだそりゃ、と突っ込みたくなる気持ちを抑え、ありがたく頂戴することにする。


「特になんもお伝えできてないですけど、ありがたくいただきます」


「おう、また、もう少し大人の階段を登ったら話そうや」


「はは、はい」


俺は、そのままドアノブに手をかけ、横にスライドした。


これだから、優しい大人は嫌いじゃないけど、苦手だ。

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これだから◇◇ってさぁ、 のあのあ @nor0929

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