募る想いと夏の足跡
さいか
短編
西日が差し込む教室の中、シャーペンを紙の上に走らせる音が響いている。
ひとつはあたしの机から。
もうひとつは彼の机から。
会話はない。
そもそも話をする間柄でもない。
あたしたちは、平行な二本の直線みたいに、交わらず近づかず、ただ、互いに真っ直ぐ競い合うように伸びていく。
そういう関係だろうし、それがいい。
そんな益体もないことを頭の片隅に浮かべつつ、昼食も取らずに夏休みの宿題を終わらせていく。
そんな1学期最後の日の夕方。
ーー◆ーー
夏休み明け。
進学校と評されるこの高校で、入学当初から2年の1学期末まで連続トップを維持している男。
万年2位のあたしにとって、まさに目の上のたんこぶ、鼻の先のいぼいぼだった彼が。
神ノ木壮一郎が、何だかとってもチャラくなっていたのだ。
まず、眼鏡がなくなっている。
コンタクトにでもしたんだろうか。
違和感がすごい。
次。筋肉がついて、日焼けしてる。
白かったもやしボディが見る影もない。
ぼさぼさだった髪の毛だって、きれいに整えられてるし。
さらに。教室に入るときに「おはよーっす」などと挨拶をしたのだ。
なんだそれ。
夏休み前は、あたしと同じように黙って席に着いてたのに。
それに極めつけは。
女子と連れだってクラスに入ってきたことだ。
もちろん偶然出会ってー、などという雰囲気ではない。
近いのだ。距離が、物理的に。
だって。手、繋いでたし。
そんなこんなで、神ノ木壮一郎は夏にきっと恋をして。
今までとは決定的に何か変わってしまったのだった。
ー◆ー
始業式とホームルームが終わって、帰宅して。
何日か経って休み明けの試験が始まっても、彼の変化が頭に染み付いていた。
あたしはふわふわとした気分のまま問題を解いて。
解いて。
解いて。
何の感慨もなく、試験は終わってしまった。
「ねーどこいくー」「今回ムズすぎ」「タピオカってなに」「カラオケに行くひとー」
頭の悪そうな会話の横をすり抜けて。
教室のドアをくぐる際に、ちらっとだけ。
前から2番目、左から3つ目の席を見たけど。
視線がセーラー服の後ろ姿で遮られて。
踵を返した。
ー◆ー
「はー、つまんない」
セーラー服のままベッドに飛び込んだ。
帰る途中、何故だか走りだして汗をかいたから、シワになるかもしれない。
けど、いいや。
あたしの服なんて誰も気にしないし。
ごろごろ。がさがさ。ごろごろ。がさがさ。
いっそ思いっきり服のシワを増やしてやろうと、右に左に大回転して。
本棚と段ボール箱の山が視界に入った。
本棚は夏休みに使い潰したノートと過去問に占領されていて、段ボール箱には夏休み前まで本棚の住人だった漫画が詰め込んである。
……漫画、もう開けようかな。
夏休みも試験も終わったんだし。
「あーあ。
つまんないな……」
せっかく頑張ったのに。
勝つためにすっごく頑張ったのに。
先生に頼み込んで入手した過去問だって、プリントが擦り切れるくらい繰り返し解いたのに。
あんなに簡単だったんじゃ、彼も満点くらい余裕でとれちゃうだろう。
ということは、優秀者一覧は今まで通りなわけで。
あたしの苗字が
それはもちろん、同点トップなら一番上云々は表記上の問題だけなんだけど。
やっぱり一番上に名前を並べるというのは特別なんだと、あたしは思う。
「あーあ」
あたしがもし、彼と同じ苗字なら。
ー◆ー
そして試験の日から1週間後。
いつも通り、渡り廊下に優秀者一覧が張り出された。
蒸し暑さを未だに感じさせる雨のせいか、訪れている人はまばらだ。見知った顔は一人もいない。
あたしは自分の名前を上から探して。
二年五組
二年六組 西島涼介 五六七点
二年三組 鈴原健太 五五四点
二年五組
二年五組
……
あたしの名前の隣に、彼の名前はなかった。
ー◆ー
優秀者一覧が張り出されて数日。
周りの反応も含めて、さまざまな変化が起きた。
まず、知らない人に挨拶されるようになって。
さらには、授業や宿題で難しいところがあると休憩時間に質問されるようになった。
他人と話すことは限りなく苦痛だったけれど、頼みを断ることはそれ以上に面倒で。
板書用ノートに追記した内容を説明する程度にはこなしていた。
その影響もあって、近頃の勉強時間は授業時間を含めても夏休みの間より減ってしまっている。
ううん。
勉強時間については違う、か。
夏休みやそれ以前より勉強が楽しくなくなったから、時間を割けなくなった。
ー◆ー
自習室での勉強を終えて、廊下を歩く。
最近はずっとやる気が出なくて、久しぶりに居残って勉強した今日もダラダラとした時間を過ごしてしまった。
「高校物理における電気の問題はキルヒホッフの法則で大体何とかなる」と先生は強弁してたけれど、概ねそれは正しいんだろう。
とりあえず時間をかけたぶん、今日やった範囲の問題集は全て終わらせることができた。
夏はもう過去になりつつあって、日が落ちるのはどんどんと早くなってきている。
まだ六時過ぎだというのに、空は茜色に染まり始めていた。
暗くなる前に鞄を回収して早く帰ろう。
そう思いながら教室の引戸を開けて。
開けると。
中に神ノ木がいた。
教室に神ノ木だけがいた。
教室の蛍光灯が光っていても、なお。
あの日の夕方の続きみたいに、西日に照らされた彼の後ろ姿から長い影が伸びていた。
ー◆ー
扉が横開きする音に気付いたのか、彼がちらりとこちらに顔を向けて会釈して。
すぐに視線を自分の手元に戻した。
あたしは音を出来るだけ立てないようにそっと扉を閉めて、膝のクッションをフルに使って無音で歩く。
席について。
手元に持っていた問題集とノートを開いた。
……早く帰ろう、とは一体何だったのか。
頭の片隅の冷静な部分が自嘲するけれど、自分でも驚くくらいにあっさりとその考えは無視された。
だって、うん。
復習は必要だ。
視線を落とす。
視界には自習室で解いていた範囲をさらに難しくした応用問題が広がっている。
解く。
不自然に配置された電源電圧をVxとおき、縦横斜めに分岐したブリッジに流れる電流をそれぞれi1、i2……と割り振る。
解く。
各閉ループごとに電位差0の式を立てる。
解く。
力づくで、ぐちゃぐちゃに絡み合った計算式の変数をまとめていく。
シャーペンが走る。
変数が消えていって、回路が丸裸になっていく。
で、気がつけば。
Vx=3.2ボルトだなんて、答えが出ていた。
……終わった。
終わってしまった。
シャーペンが止まる。
止まっても。
教室にはシャーペンの音がまだ響いている。
時々ふっと留まって、少ししたら雷電みたいな勢いで音が刻まれていく。
その音がもっと聞きたくて。
今度は頭を使いすぎないことをしよう。
そう考えて単語帳を探すために鞄をあさっていると、彼の音が止まった。
ごそごそとうるさくして集中を妨げただろうか。
そんな不安に襲われて、顔を上げて。
伸びをする彼と目が合った。
「……」
「……」
あたしたちは会話をする間柄ではない。
けれども、目が合ったときに黙って目を逸らすような間柄ではあってほしくなくて。
ないから。
どうすれば良いのか分からずに。
あたしの眼鏡越しに、眼鏡をかけてない彼の目を見て。
見続けた。
ー◆ー
「皆川さん、今日遅いんだね」
沈黙を破ったのは、彼の一言だった。
「そ、そうですね」
「……」
「……」
けれどもすぐに再びの沈黙。
気まずい。
彼から話しかけてきたのだから、今度はあたしから話題を提供する番だ。
それは分かっているのだけど。
何を話せば良いんだろう。
分からなくて、結局黙ったままでいると。
「そう言えば、さっきは何やってたの?
すごい勢いだったけど」
彼がまた、話題を振ってくれた。
「あ、えっ……と。
物理の問題集、解いてたんです。
今日、授業でやったところ」
椅子に座り直し、問題集を開いてさっき解いたばっかりのページを見せる。
「もう応用問題やってるんだ。
複雑な回路だね」
「ですよね。
難しくするのは良いけど、こんなの現実に使うのかな、って思っちゃいました」
「だよねえ」
「あ、でも、電流と抵抗値分かってるループから、次々に変数落としていけば何とかなりましたよ」
すごいしゃべるな、あたし。
自分でも驚くくらいに舌がまわっている。
引かれてないだろうか。
そんな不安に襲われるけど。
彼は問題に興味を惹かれたのか、じっと見ていて。
「……でも、こうすれば楽にならない?」
さらさらっと、回路を変形してみせた。
それは、ほとんどが単純な並列回路と直列回路の組み合わせで構成されていて、変数計算を大幅に減らすもので。
「あ、すごい!すごい!
確かに合成抵抗にしちゃえば、さくっと解けそうです!」
不思議と、難問をあっさりと解かれた悔しさは湧かずに。
彼の鮮やかさに、ただただ興奮した。
「こんなに綺麗に解かれるの見たら、絶対忘れないです!
神ノ木くん、教える才能ありますよ!」
上がりきったテンションのままはしゃいで。
「そ、そんなに褒められると、嬉しいけどさ。
皆川さんだってさっき凄いスピードで解いてたじゃん。
僕は変に凝ろうと時間をかけすぎたよ。
皆川さんのが、よっぽどすごいって」
彼が照れて。
「は、早く解けたのは、計算で何とかしただけで……。
そんなにすごいこと、してないです……」
あたしも照れた。
あたしは誰でも出来るやり方をやっただけで、彼みたいな美しい解法じゃない。
けれどそれでも、勉強のことで彼と褒めあうことは、今までの人生で感じたことがないくらいにこそばゆかった。
そんな、幸せな会話の中で。
「いやいや。謙遜しない、しない。
学年一位もとったじゃん。すごいって」
さらりと。
単なる世間話みたいに。
彼は言った。
「あ……。
えっ……と……」
言葉が出てこない。うまく喋れない。
さっきまでの、照れと喜びが混じったような感情は一瞬で消え失せて。
混乱と、何か大きなものを喪ったような感覚が、薄っぺらいあたしの胸を占拠した。
「実は、僕もさ」
いやだ。
「前まで学年一位だったんだぜ」
やめて。
「まあ、今回はだいぶ順位落としちゃったけどね」
それを、どうでもいいことみたいに笑わないで。
負け続けて悔しくて。
でもそれ以上に、あたしと同じ道を行くあなたの存在が嬉しくて。
「成績以外はどうでも良い」なんて言わんばかりに他人との関わりを切り捨てるあなたの後ろ姿だけが、勉強だけのあたしを肯定してくれている、なんて。
自分勝手に思っていた。
だからあなたに勝ちたくて。
あなたと同じ道を行くあたしがいるって、あなたに知ってもらいたくて。
そしたら今度は。
あなたもあたしの後を追って、追い抜いて。
そうやって、あたしたちは平行な二本の直線みたいに、ただ互いに真っ直ぐ競い合うように伸びていく。
そんな関係だったら、どんなに素敵だろうと思って。
夏休みのあいだ頑張ってたのに。
気がつけば夕暮れはとっくに過ぎて、夜の帳が降りていて。
秋の肌寒い風が窓から吹き込んでいた。
ー◆ー
そうしていたのは長い時間ではないと思う。
突然無言になったあたしに対して、彼は心配そうな目をしながら声をかけたから。
けれど、その目を見たくなくて。
どうでもいいあたしに対して心配するような彼を見たくなくて、目を伏せた。
「ごめんなさい。
もう遅いので帰ります」
乱雑に問題集とノートと筆箱をしまい、脱兎の如く逃げ出して。
がらり、と。
扉を開けて入ってきた人物とぶつかりそうになって、足を止めた。
顔を上げる。
そこには彼の隣でいつも見かけるようになった女子がいた。
……最悪だ。
「……最悪ね」
考えていた言葉が聞こえて。
思わず呟いてしまったのかと思ったけれど、声の主はあたしではなく彼女だった。
「女の子泣かすなんて何したのよ、壮一郎」
顔を拭ってみれば、確かに両手が濡れていた。
いつからだろう。
もしかして彼の目の前でも、普通の女子みたいにプライドを感じさせない姿で泣いていたのだろうか。
気になって彼を見れば。
彼はひどく狼狽えた表情をしていて、その視線は彼女だけを捉えていた。
「変なことはしてないって!
軽い雑談したくらいだよ!」
「……その雑談とやらで酷いこと言ったんじゃない?
皆川さん、大丈夫だった?」
酷いこと、か。
彼の言葉があたしにとって辛いものだったことは事実で。
もし今ここで。
彼に激しく傷つけられた、などと泣きわめけば。二人は別れて、彼はかつての彼に戻るだろうか。
あったかもしれない関係になれるのだろうか。
それは、頭の中の良心とか倫理観とかそういうものがどうでもよくなってしまうほどに魅力的だった。
だけど。
「えっ、……と。
心配させてごめんなさい。
あたしは大丈夫です。
彼とあたしの間には何にもありませんでしたから」
これが事実で、正しくて。
彼とあたしの間に特別な関係なんてなくて、あたしが勝手に思い込んでいただけ。
それがさっきの会話で分かってしまった。
だから、万が一に彼がかつての彼に戻ったとしても、やっぱりあたしと彼の間には何もなく。
何をしても意味はないのだ。
「ほんと?ほんとに大丈夫?」
「ええ。大丈夫、です。
椅子に足をぶつけて涙が出たのかもしれないですけど、もう痛みはないので」
「そっか。
良かったー……」
捨て鉢ぎみに答えた嘘によって、険しかった彼女の表情が緩む。
……良い人なんだろう。
恋人の彼より、ろくに話したこともないあたしを心配して味方になって、無事だと知ればほっとするくらいに。
彼が好きになるのも自明なのだ。
二人の邪魔をしたら悪いし、軽く挨拶して帰ろう。
そう思ったのだけど、二人はもう会話を始めていて。
なんとなく話しかけるタイミングを失ってしまったせいで、あたしは石像みたいに固まってしまった。
……二人が仲の良い様子なんて、見てても辛いだけなのに。
「ぜーったい、なんか酷いこと言ったと思った」
「僕ってそんなに信用ない?」
「んー、まあね?
気にしてないふりしてるけどさ、今回の試験で順位落として大荒れしてるじゃない」
ざわり、と。全身の毛が逆立ったような気がした。
「してない。僕は至って普通だ」
「家にあった漫画、ぜんぶ古本屋に売ったのが普通なんだ?
私、まだ読んでないのあったんだけどなー」
どくどく、どくどくと。心臓の音がやけに激しい。
「……自分で買いなよ。読みたいなら」
「あー、ひっどーい!
先生にいまさら過去問もらって居残って解いてるくせに。
毎日放課後にほっとかれるの、結構寂しいんだけど」
「そ、それは悪いと思ってるって!」
体が期待で震えてしまう。
あたしと彼の間に特別な関係なんてなかった。
そう納得して。諦めたのに。
胸の中で微かにあった残り火が、消えずに再度またたいて。
「あ、あの!神ノ木くん!
試験であたしに負けて悔しかったですか!?」
二人の会話に割って入るようにして、言葉を口に出していた。
不意をつかれた彼たちが口をぽっかりと開けたのもつかの間、彼女がすぐに大きな口のまま笑いだした。
「っ、あはははは!
皆川さん煽るねー!」
それもあってか、彼は顔を真っ赤にして口を横一文字に結んで。
少し、我慢して。
けれど、我慢。しきれなかったみたいで。
「あーもう、うっさいなあ!
悔しいに決まってるだろ!」
ばん! と。
大きな音を立てて、机を両手で叩いた。
びくり、と。
体を縮こまらせたのは、彼女も一緒だったと思う。
空気が凍ったみたいに静寂が訪れたから。
でも。
けれど。
だけど。
こんな冷え切った空気なのに。
彼が悔しがってたことが。
あたしが想っていた彼が、欠片でも彼の中にいてくれたことが。
嬉しくて。嬉しくて。
感情が暴れまわってたまらない。
胸の中があたたかくなって、ぎゅうっと締め付けられて。
彼の方を伺うだけで、心臓が跳ね回って血液が顔を駆け巡るのを感じた。
それで。やっと。
本当に今更だけど、彼を想う感情の名前を自覚した。
彼が好きだ。
試験で一位を取るために努力を続けていた彼が好きだ。
授業中に解けなかったらしき問題を休憩時間中も挑戦し続けて、解けたときに小さくガッツポーズした彼が好きだ。
自習中に騒ぐクラスメイトに対して、あたしとおんなじように苛々していた彼が好きだ。
あたしが悶々としているだけのなか、そいつらを怒鳴ってくれた彼が好きだ。
あの夕焼けに照らされた彼の後ろ姿が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
きっとこんな風に思い出を。
夏休みの間、勉強が辛くなるたびに再生させて、少しずつ彼に惹かれていったんだ。
記憶はいまや明らかになった感情に彩られ、鮮やかに胸の中に満ちていって。
だから感情はまたいっそう高まって。
止まらない。
好きが止まらない。
抱きついて。キスをして。
その先だって。
勉強するから。がんばるから。
あなたとなら何だってしたいと、恋が叫ぶ。
ぽろぽろと。
胸から溢れた感情がまなじりからこぼれるみたいに、涙が出ていた。
分かってるのだ。
駄目だって分かってるのだ。
あたしの想う彼は、もはや彼の一欠片だけなのだ。
だって、怒った彼は一瞬で。
彼にとって完全に理不尽な涙に対して、彼女と一緒に心配しているのだから。
きっと夏休みが始まる前は、彼が神ノ木壮一郎の殆どだった。
でも、彼は夏にきっと恋をして。
彼女のために、かつての彼を隅っこに追いやったのだ。
おんなじなのだ。
あたしが彼に想い募らせながら努力したように、彼が彼女のために努力したことは。
思っていた関係とは少し違うけれど。
あたしたちは、ねじれの関係にある二本の直線みたいに、お互いの行き先など知らず、だけど、それぞれの恋へ向かって全力で伸びていたのだ。
その事実がどこまでも愛おしく誇らしく。
どれだけあたしの恋が暴れても、彼の恋路を邪魔することなんて出来るわけがない。
だからこの恋は自覚した瞬間に失恋で。
そのせいで涙はとめどなく流れるけれど。
あの夏に。
彼と同じ在り方でいられたあの夏に胸を張ることができるよう、泣かずに、媚びずに、縋らずに。
あたしの恋を形にしよう、と。
そう、決めた。
ー◆ー
ぱあん! と。
両手で自分の頬を張る。
気張れ、あたし。
目の前にいるのは人生と恋のライバルだ。
そんな二人を前にぴいぴいと。泣き顔を晒し続けて良いわけないよね?
顔を下に向けて、ふーっ、と深く息を吐く。
涙を止めろ。前を向け。
今が勝負のひとときだから。
顔を上げる。
彼を見る。
気遣う様子の彼を見る。
……そんな表情なんて、もう。
あたしにだけはさせてあげる訳にはいかないのだ。
「神ノ木くんっ!
あたし、次の中間でも一位をとりますっ!」
人差し指を真っ直ぐ伸ばして、言葉を放って。
僅かに残った彼の
実感があった。
案じる彼の目付きが揺れて、右の瞼がぴくりと動いたから。
熱が、こちらに向いたのを感じた。
「期末も、その次も一位です!
東大だって、どこだって受かってみせます!」
畳み掛ける。
消えちゃう前に。
奥底に隠される前に。
今だけは。
他の誰にも、彼女にだって立ち入らせない。
「だから、恋愛は自由ですけどっ!
神ノ木くんが腑抜けていても、あたしはずっと先に行きますから!」
だから。
追いかけて。追いついて。追い抜いて。
そう言いたがる恋を、なんとか押し留めて。
あたしはあたしの恋したやり方で。
あなたへの想いを貫くから、と。彼に告白をした。
きっとそんな努力を続けても、この恋が報われることはないだろう。
だけど、いいのだ。
彼が彼女に恋する邪魔はできなくて。
それでも。気づいたばかりのこの恋を、今すぐに捨て去ることなんて無理に決まっているのだから。
「以上ですっ!
また明日!」
転進開始。
鞄を掴んで振り返り、そのまま教室を飛び出した。
言いたいことは言い切れて。
やるべきことが決まっているなら、もはやここにはいられない。
留まって彼の言葉を聞いたなら、恋に負ける予感があったから。
廊下を走った。
階段を一段飛ばしで駆け下りた。
昇降口で靴を履き替え、すぐさま足を動かした。
走って、走って。
アスファルトで舗装された坂道の途中。
高校から帰る生徒なら全員が通る、その場所でひとり。
遂に、息が上がってへたり込んだ。
はあはあと荒い息が恥ずかしく、どっくんどっくんと早鐘を打つ心臓がもどかしい。
彼なら。夏休みに体を鍛えた彼ならば、これくらいの距離でへばったりしないだろう。
でも、彼は今、ここにはいなくて。
だから彼はあたしを追いかけていなくて。
最後には、口角を上げて意地の悪そうな笑みと上目遣いの挑戦的な視線を向けていた彼が。
じゃあ勝負しようか、と追いかけてでも言ってきそうな彼が。
彼が夏の彼に鏖殺されて。
彼女のもとに留まったのが、分かった。
涙は流さずにいよう。
これで良かったと胸を張ろう。
あたしの恋の全力で心の焔を揺らされてても、彼女をほっておかない彼を誇りに思おう。
彼は夏が終わった今でも彼女に恋した夏を貫いている。
それならば、彼のライバルたるあたしだって。
『きっとそんな努力を続けても、この恋が報われることはないだろう』
こんな弱音がなんど襲ってきたとしても。
あたしの恋を貫いていけるはず。
酸素が欲しくて顔を上げる。
見上げた空には丸い月。
あの日の帰り道で見た上弦の月が、募る想いで満ちたみたいに。
満月が南東の空に輝いていた。
募る想いと夏の足跡 さいか @saika-WR
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