コップに入ったコウノトリ

八百本 光闇

コップに入ったコウノトリ

 コップを倒す。溢れかけた水は全て流れ出る。中にいるコウノトリは羽ばたく。


 公園。夜。


 死にかけのミンミン蝉が鳴いている。

 大人の迎えを待ち泣きじゃくる子供の声。

 壊れかけた電灯は点滅を繰り返す。

 無表情の無職共はさ迷い歩く。


 酔いどれとなっていた私は、端の黴臭い椅子に座って頭を冷やすことにした。家族持ちの人間なら心配されるだろうが、私の家には待ってくれる人などいないので、悠々自適にここに居ることができるのである。

 目の前には野良猫の糞尿がこびりついた砂場があった。昔の臭いだった。私は大きくため息をついた。安酒の息が秋風で飛んでいく。

 その肌を刺す風で、私は追憶と現実の間へと飛ばされた。

 目の前にある砂場が広がってゆく。いつの間にか私は、子供時代へと戻っていったのだ。




 私は他の人間より、少し精神面が遅れていたという。だが知能の面では劣っていなかったので、特別学校に配置されることはなかった。

 しかし――いや、だからこそ、私の学校生活は、あまり良いものでは無かった。


 私が何か発言する度、死んだような嗤いが木霊し、私が近づけば彼らは磁石となって離れ、打たれ、罵られ、蹴られ、斬られ、隠された。

 彼らが行った行動は、すなわちいじめというものであった。彼らにそういう扱いを受ける度、私のコップに水と砂が入った。毎日が重くなった。この水は涙なのだと、教えてくれたのは誰であっただろうか。だがその人は、この砂の正体は、教えてくれなかった。


 私の荒んだ日々の中で、砂場は私の知的欲求を満たしてくれる存在であると共に、コップの水を取り払う遊具でもあった。私は毎日公園の砂場へと行き、今も持ち歩いているコップを使って、砂を落としたり、飛ばしたり、すくったりして、学んだ。母か父かが迎えにくるまで、毎日学んでいた。休日の時は、六時間以上も夢中で砂をいじっていた。よく漏らして、最初は両親に叱責されたが、しだいに諦めるようになった。

 他の人と何も変わらない。コップに入った水を取る方法が、他人には特異に写るだけのことである。

 そんな私を変な奴だとこの公園を避ける者、この年になってまだこんなもので遊ぶのかと私をからかう者など、様々な者がいたが、結局、いつしか皆が公園を離れていった。


 彼女以外は。


 私以外誰もいない公園で、今日も私は砂を両手に取り、風を吹き掛けた。晴天に砂が煌めいた。

「――砂、好きなの ?」

 まともに、人に話しかけられたことは家族以外ではほとんど無かった。彼女は私のところに歩み寄り、目の前にしゃがみこんだ。私は頷いた。「どうして ?」と、彼女は砂を触りながら言ったので、また私は砂を両手に取り、風を吹き掛けた。砂が飛んで行く。随意に飛ぶその砂は、正しく鳥であった。

「と、鳥……」

 私は始めて他人と話した。彼女となら話せると思ったからだ。

 認めてくれないと思った。忌避されると思った。だが。

「ふふふっ……あなたって、なんか面白い例え方するね」

 認めてくれた。歓迎してくれた。私の心に何かが芽生えた。


 私と彼女の関係は、えんぴつと消しゴムの様になった。

 私が書いた汚い字を、彼女が綺麗に書けるまで消してくれた。いつも、いつも。

 彼女はすり減っていった。いつしか彼らの標的は、私だけではなく、彼女にも及んでいった。

 だが彼女は全くその事を気にしていない様に見えた。

 コップには消しカスが入った。重い砂は消された。全て消えた。代わりに彼女に、濡れた砂が入った。


「――ねえ、君の将来の夢って何 ?」ある日、砂場で学んでいる時、彼女は言った。特に考えてなかったので黙っていた。

「私はね。コウノトリになること!」

 私は砂をいじるのを止め、彼女を見た。彼女は痩せた腹を擦りながら言った。

「だって、コウノトリって、子供を運んできてくれるんでしょ ?」

 その言葉が私のコップを打ち付けた。

 消しカスはコウノトリとなった。



 気づけば屋上にいた。後ろには開かない扉が私を睨んでいた。扉の上部にある窓は、から見れば狭い屋上を全て見渡せるようになっている。そこにいるのは彼ら。私達を嘲笑しながらビデオを構えている。

「あいつとヤッたらここから出してやる。どうせ生まれないし」

 そんな言葉を思い出した。その言葉の意味は、今もわからない。

 屋上の端で、彼女が体育座りをしている。顔を手で覆っていた。コップに入った水が溢れ出たのだろう。私は彼女の方へ近づいた。

 彼女はまるで、野良猫の糞尿の様な臭いがした。いつからここにいたのだろうか。

「ねえ……」

「あ……」

 私はレモンを絞ったかの様な声しか出せなかった。彼女は水を溢れさせたまま立ち上がり、

「私ね、今日からコウノトリになるの。だから、さ。見ててくれない ?」

 彼女は柵に手を掛け、乗り上がった。始めて人の眼を見た。その眼は、真実だけを写していた。

 その情景を見ているだろう後ろからは、なぜか困惑の声が聞こえる。


 そして彼女は……。


 彼女のコップが落ちるところを見た。

 コップは倒れる。溢れた水は全て流れ出る。砂は堕ちる。コウノトリは羽ばたく。


 コップは割れた。下にいる割れた赤い人間は、彼女なのだろうか。それとも彼女はコウノトリになって、子供を運びに行ったのだろうか。だとしたら、この赤は、コウノトリに成るには重かったから、捨てたのだろうか。

 私のコップには、コウノトリとなった消しカスと、水だけが入っていた。



 私は変な気持ちになった。彼女はコウノトリに成ったはずなのに、奇妙なだった。

 例えるのだとしたら、体の中心だけ暖かな春が訪れた様な、

 人に嘆願する様な、

 金縛りが起こる様な、

 そんな気持ちがあった。


 嗚呼。私がここに来た目的はこれであった。この混沌、現実、白夢、心を視るためであった。


「お、おい、マジで落ちちまったのかよ……」

 彼らがやって来た。

 後のことは、余り覚えていない。私にとって不必要な記憶だからだろう。

 砂まで捨てさった彼女はもういない。

 今のコップには、溢れかけた水と、水に浮いて外に出そうになったコウノトリだけが入っていた。



 私は起きた。もう朝になっていた。


 ミンミン蝉はその一生を終える。

 子供は大人につれられ帰って行った。

 壊れた電灯は二度と点かない。

 無職共はまた寝床を探す。


 私はまだ覚めない酔いの中で、もはや廃校となった学校へと向かった。

 太陽は輝きを増す。使い古されたアスファルトの熱は、私の足を焼き豚足の様にした。しかし靴を履く気はしなかった。見慣れた道。見慣れた空気。違うものは、学校が腐り錆びれ、誰もいないことである。

 私は通行禁止のテープをまたぎ、少し湿った学校へと歩き出した。


 壊れかけた木の床は、悲鳴を上げながら私に歩かれていた。

 彼女とその悲鳴を重ねたのか、私のコップの水がまた増えた。


 私はあの屋上へと着き、彼女が飛んだ柵に手を掛けた。風が吹く。これから乗ることになる、風だ。


 コップに入ったコウノトリが私から出て、思い出もなにも無くなる前に、もう飛んでしまおう。

 単純、端的、淡々、短見、眈々と、そう思った。


 私のコップを倒した。彼女と同じ所で。


 コップを倒す。溢れかけた水は全て流れ出る。中にいるコウノトリは羽ばたく。

 私は、羽ばたけただろうか。





 コウノトリに成れただろうか。

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