第3話

+++


 彼の瞳が、好きだった。

世界に秘められた色彩を映し出すような、描いた未来を真っ直ぐに見据えるような。

真摯なその眼差しにはいつだって、誰より情深い彼の心のかけらが融け込んでいた。

私は彼の、そんな優しい光を宿す瞳が、好きだった。


 あの事故から半年が経っても、彼の身に心が戻ることはなかった。

感情が抜け落ちた顔、声を紡ぎ出すことのない口元、一切の意思が消えた無感動な瞳。

そして、やっぱり暖かな掌。何一つ変わらずに、ただ時間だけが流れていく。

 そんな日々の中で、私の心は限界だった。

私に生きる意味を与えてくれていた、彼の笑み、彼の言葉、彼の眼差し。

そのどれもが失われた今、縋ることができるのは力なく投げ出された手の温度だけ。唯一のそれを一心に握り締めていると、彼がどれだけ危うい状態なのかを痛いくらいに思い知らされる。

彼の心は、彼の命は、私の手が届かない所で、今この瞬間にも消えてなくなってしまうかもしれない。ああ、この世の誰より大切な人がこんなにもぎりぎりの所で生を保っているのに、どうして、死にたがりの私は今日も当たり前のように息をしているのだろう。彼が隣にいない私に、一体どんな価値があるというのだろう。そう思うと

どうしようもなく苦しくて、押し潰されそうな心の片隅で願ってしまう。もう逃げ出したい、なんて。それが何の意味もない行為だと、知っているくせに。

「…ねえ、奏、戻って来てよ。」

ベッドに横たわる彼の手にそっと自分のそれを重ね合わせ、消えそうな声で呟いた。

 明日、夢、希望。彼がいないと、一切合切、見えなくなってしまう。

全てを失った私に価値をくれたのも、死にたい心を繋ぎ止めてくれたのも。そして、夢を奪われて真っ暗な私の未来に、何処までも幸せな明かりを燈してくれたのも。

やっぱり、彼だったから。


 死のうとしていたあの日以来、私は度々彼と屋上で時間を共有するようになった。

二人で空を眺めたり、何気ない会話を交わしたり。時折私が死にたい気持ちを吐露

すれば、彼はいつだって、暖かな笑みと言葉で私を繋ぎ止めてくれた。幾度となく彼に救われて、私は全てを失った後も生き続けることができていた。

 ゆっくりと、穏やかに。二人で過ごす時間はまるで、彼の人柄そのもののよう。

そうして彼との距離は縮まっていって、互いに下の名前で呼び合うようになった頃。

 「……未来が、見えないの。」

いつものように屋上で空を眺めながら、私はぽつりと零した。視界いっぱいに広がる今日の空は、分厚い雲に覆われて灰色だ。光のないその様はまるで、私の不明瞭な

これからの日々を暗示しているみたいだった。

「走れなくなってから、自分の進む先に何を望んだらいいのか、分からなくて。」

誰より速く、誰より真っ直ぐに。ずっとずっと、それだけを一心に追い求めてきた。

走ることに全てを懸けて、走ることに未来を見出していた。だからその夢を絶たれた途端に、進むべき方向を見失って途方に暮れるのは当然のことで。

「私って、空っぽなんだなあって。……馬鹿だよね。奏がいてくれるから、今は死にたいなんて思っていないのに。でも、考えてしまうの。」

夢中になれることも、叶えたい夢も、ほんの一握りの希望さえも、過ぎゆく日々の中に何一つ見つけ出せないまま。

「私、生きてていいのかなって。」

思考の奥で燻る不安を口にした途端心に何か冷たいものが沁み込んでくるような気が

して、無性に泣きたくなって。隣で同じ空を見上げていた彼は、私の言葉を受け取り考え込むように目を閉じた。沈黙が、二人の間に降りる。

「……ねえ、彩乃。僕の夢の話、聴いてくれる?」

少しの間黙っていた後、彼はそう言って私の目を見た。私が頷くと、彼は「そんな、大層なものじゃないんだけどね。」と笑って話し出した。

「この目で、世界を見てみたいって、思ってるんだ。」

「……世界を?」

「そう。旅先で出会う人とか、風景とか、文化とか。それだけじゃなくて、大切な人

たちと笑い合う何気ない日常とか。自分を取り巻く世界の一場面に触れて、その奥に

在る綺麗な色をこの目で見たい。」

 なんて彼らしい、素敵な夢なんだろう。

彼には、不思議な力があるように思う。屋上から見える空の色をどんな天気でも鮮やかだと言うように、自分でも知らなかった私の色を見てくれたように。彼の目はいつだって、美しい色を纏う風景を映している。他の人は気づけない、秘められた色を捉えることができる。そんな彼が目にする世界はきっと、想像を絶するほどに綺麗なんだろうと思う。

「…奏らしいね。」

感嘆の声でそう返した私に、彼は「でしょう?」と楽しげに微笑んでみせてから。

「この夢には、続きがあって。」

何処か、神聖ささえ感じさせる口調だった。いつも通りの穏やかな表情に、少しだけ切実な色を滲ませて。彼の目の奥に在る優しい光が、真っ直ぐ私に向けられる。その瞳が私の姿を映してくれるだけで、心はこんなにも満たされるのだということをその時知った。

「この目で、世界を、見たいんだ。……君と、一緒に。」

その言葉を理解するのに、少し時間がかかってしまう。この人の描く未来の中に私が存在しているなんて、烏滸がましいことだ。そこまで彼に甘えて、頼って、寄りかかってしまう訳にはいかない。そう、自分では思っていたから。望んでいなかったと言ったら嘘になるけれど、それ以上に、彼にいつか否まれることが怖くて。

「綺麗な君の隣で、綺麗な世界を見ていたい。それが、僕の夢。だから、ねえ、」

先の見えない真っ暗な道を行く私に、暖かく灯るランタンを差し出すみたいに、彼は言う。その光に照らされて、失われたはずの未来が視界に浮かび上がってきたような気がした。何も持たないこんな私でも、手を伸ばせば届くんじゃないか。そう思えるほどに、彼の言葉は真っすぐに響いて私を掬い上げてくれる。

「ずっと、隣にいてくれる?」

願ってはいけないと、思っていた。こんな私には不相応だと、信じていた。もうこれ以上傷つかないように、何もない未来を受け入れたふりをした。ああ、それでも。

私の愛したその表情で、その声で、その瞳で、他でもない彼がそんな一言をくれるのなら。返す言葉なんて、浮かぶはずがない。頷く以外の動作を、この体に許すはずがない。

思考が停止し感覚が麻痺したような私の心には、彼の言葉だけが届いていた。

「僕と一緒に、生きていて。」


 貴方が美しい夢を分け与えてくれたあの日から、私は。

空白の未来に色鮮やかな何かを望んで、今日まで生きてきたんだよ。

貴方となら生きてみたいって、貴方の隣で世界を見たいって、私の全てがそう願ったから。


+++


全てが変わってしまったあの日から、今日で一年。彼はまだ、虚ろなまま。

私はこの一年間、ずっと傍に寄り添い続けたし、何度も何度も彼の名前を呼んだ。

それでも、彼が心を取り戻すことはなかった。

「……奏、誕生日、おめでとう。」

あの事故の当日は、彼の特別な日でもあった。ああ、だけど。伝えられなかったお祝いの言葉、壊れてしまったプレゼント。一体、何の皮肉だろう。幸せに笑ってくれるはずだったその日の主役に、降りかかったのは祝福じゃなくて悲劇だったなんて。

「あれからもう、一年が経ったんだね。」

言葉をかけたところで、彼が返事をしてくれることはない。宛先の分からない相手に手紙を送り続けているみたいなこの虚しさにも、悲しいことにもう慣れてしまった。

「貴方が隣で笑っていてくれないと、私はやっぱり、生きていけないみたい。」

だって、こんな私をこの世に繋ぎ止めてくれるのは、彼だけだった。自分の価値も、生きる意味も、望む未来も、全部全部、彼が教えてくれた。「一緒に生きていて。」と、彼が言ってくれたから、私は死にたがりの自分を意識の外側に投げ出して、生き続けることができていたのだ。

「……死んでしまいたいよ。だけど、私がこの世から逃げ出したって、きっと貴方には会えないんだよね。」

彼は、生きているから。心の宿っていない状態でだって、確かに生きているから。

私が死んだところで、この現実は変わらない。ただ、彼の隣に寄り添う存在が消えるだけ。生きることは苦しくて。だけど、死ぬことで何かを変えられる訳でもなくて。ああ、どうすればいいんだろう。悲劇が起こる前の日常に戻れたら幸せなのに、それは決して叶わない。

「ねえ、教えてよ。私は、どうすればいい?」

彼の暖かな手に自分のそれを重ね合わせて、祈るような想いで問いかけたけれど。

彼はやっぱり何も言わず、一切の光が消え失せた無感動な目をただ宙に向けている。

 もう、壊れてしまいそうだ。私の声は、届かない。彼の瞳は、動かない。どんなに願っても、理不尽に全てを奪われる前の愛しい彼はもう、戻ってこないのだ。

「……おねがい、たすけて、」

静かな空間に零れ落ちた行き場のないその言葉は、救いを乞う私が紡いだもので。

だけど同時に、真っ暗な何処かに置き去りにされた、彼の心の声でもあったのかも

しれない。


貴方も、私も。命が尽きるまでずっと、命が尽きたってきっと、救われないまま。


 

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メーデー、メーデー、メーデー、 藤璃 @sui-touri

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