第2話

 彼の声が、好きだった。

夢を奪われた私を綺麗だと、価値を失った私を大切だと。この世でたった一人、彼だけが言ってくれた。優しくて、暖かくて、誠実で。そんな彼の心をそのまま溶かし込んだような声で紡がれる言葉が、いつだって私に生きる意味を与えてくれた。

私は彼の、そんな慈しむような声が、好きだった。


 あの悲劇から、二か月が過ぎた。彼は今日も生きていて、だけど空虚なまま。

鼓動も呼吸も確かにあって、生物としては今も“生きている”状態。決して、死んで

しまった訳ではない。けれど人間としては“生きている”と信じることが難しい状態。

表情とか、声とか、瞳の中の光とか。彼の心が宿っていたものたちは全部、全部、

失われてしまった。それでも、心そのものは、まだ無くなっていないはずなのだ。

「ねえ、そうでしょう?」

彼が私の問いに答えてくれることはやっぱりなかったけれど、それでも私はその心の存在を疑いたくはなかった。だって、包帯が外れてやっと触れられるようになった彼の手は、事故の前の変わらずこんなにも暖かい。その温度が今の私に唯一与えられた生きる意味であるように思えたから、壊さないように、離さないように抱き締めて、この二か月の間ずっと、虚ろな彼の傍に寄り添い続けている。

「……なんて、独り善がりかな。」

冷たい部屋に、私の声だけが寂しく響く。言葉尻がほんの少し震えたのは、きっと気のせいじゃない。だって本当は、怖くてたまらない。

今にも消えてしまいそうな命の灯。もしかしたら既に失われてしまっているかもしれない心。唯一の縁である掌の温もりでさえ、安心材料には到底なりえない。

だいじょうぶ、心はまだ、彼の中に。幾度となく自分に言い聞かせているそれは、

単なる虚しい希望的観測。わかっているけれど、ああ、信じていなければ気が狂ってしまいそうだったから。

願いのようなその言葉を擦り切れるほど繰り返して、私は今日も生きているのだ。

 そんな日々の中で、思い出す。

私が、夢を追いかける権利を奪われたあの日のことを。自分の存在意義を見失って

死のうとした私を救ってくれた、彼の言葉を。

 

 かつて実業団の選手だった父と、中高と強豪校の陸上部に所属していた母。

そんな両親の間に生まれた私が、幼い頃から陸上競技に打ち込むことになるのは

多分、生まれたその時から決まっていたんだろう。私は案の定、平仮名を書ける

ようになるより先に、走ることを始めた。父はマラソン、母はハードル走。けれど私が向いていると言われたのは、そのどちらでもなく、短距離だった。

物心つく前に親の熱意で始めた陸上競技、自分の意志で選んだ訳じゃない種目。

それでも私は走ることが好きだった。誰より速く、誰より真っ直ぐに。スピードだけをただ一心に追い求めるのは自分の性にあっていたし、積み上げた練習の成果が確かな数字となって表れる度に心が満たされるような気がした。走って結果を出す私に

こそ価値が在るのだと、両親も、私自身も、信じて疑わなかった。

 だから、陸上競技以外の何にも興味を持てないことも、友達と呼べる存在が一人もできないことも、私にとっては大した問題じゃなかった。

小学生、中学生、高校生と、成長していくにつれ、大会で勝ち取った表彰状やメダルの数は増えていって。だけどやっぱり、私の周りには誰もいないままだった。

他を圧倒するスピードだけが意味を為す世界は美しくて、だけどいつだって厳しい。

その中で、私はずっと孤独だった。


 走ることが、私の価値。走ることが、私の夢。走ることが、私の生きる意味。

盲目なまでにそう信じていた私は、高校一年生の夏、全てを失った。

膝の故障で、陸上競技という道を絶たれてしまったのだ。

初めて膝に違和感を覚えたのは、陸上の名門とされる私立中学に進んだ直後のことだった。ああ、もしその時点でちゃんと診察を受けていたなら、こんなことにはならなかったのかもしれない。だけど、私はそうしなかった。痛みがあるのは確かだけれど、走れないほどじゃない。そう自分自身に言い聞かせて、小さな故障をわざと見過ごした。一度立ち止まったらその途端に、自分が無価値な人間になってしまうように思えたのだ。

それからも膝の痛みは繰り返しやって来た。徐々にその頻度が高くなっていることにも、感じる痛みが強くなっていることにも、本当は気がついていた。だけど私は、

走ることを止めなかった。価値を失ってしまうことが恐くて、止められなかった。

 そうやって、痛む膝を騙し騙し使って走り続けていた私だったけれど、ついに限界はやってきた。高校一年生の夏休み、練習中に両膝を襲った、立ち上がることもできないほどの激痛。もうやり過ごすことはできないと悟って病院に掛かると、残酷な診断結果を告げられた。

オーバーユース、使い過ぎ、つまり過度な練習による、両膝の疲労骨折。

長い間見ない振りをしてきた違和感が積もりに積もって、最悪の形であらわれてしまったのだ。他でもない、私自身のせいだった。立ち止まる勇気がなかった、私の心の弱さのせいだった。

レントゲン写真を険しい表情で見つめながら、かかりつけの整形外科医は告げた。

「相当、重傷ですね。ずっと痛みを我慢して走っていたんでしょう?」

治らない怪我では決してない。だけど、このまま走り続けていれば、確実に日常生活にも支障が出てしまう。短距離選手としてやっていくことは難しいだろう。

「走り続けて壊れるか、陸上競技をやめるか。…辛い選択だとは、思いますが。」

それは、私にとって死刑宣告にも等しかった。だって、走ることこそが自分の価値

だって、生きる意味だって、ずっとずっと信じてきたんだから。それを一時的にでも失うのが嫌で、自分の体を誤魔化してきた結果、こうして全てを奪われることになるなんて笑えない。

突然道を絶たれ呆然とする私に、一緒に診断を聞いていた母は陸上をやめることを

勧めた。

「彩乃が壊れてしまったら、困るからね。」

でも、それが本心じゃないことを私は知っていた。母の口調は酷くぎこちなくて、

浮かべている笑みは取り繕ったみたいに不自然で。「走れない貴女に価値はないんだから、走るだけ走っていっそ壊れてしまえばいいのに。」なんて、そんな気持ちが

透けて見えた。

 そして私は、走ることをやめた。その途端、やっぱり、誰もが私を見放した。

ずっと支えてくれていた両親も、熱心に指導してくれた監督も、一緒に練習に励んできたはずの仲間も、結局は短距離選手としての私にしか興味がなかったのだ。お伽噺の中で歌を忘れたカナリヤみたいに、走れなくなった私は見向きもされなくなった。

周りの人たちが離れていくのと同時に、私は自分の存在意義を見失った。陸上の他にやりたいことなんて何一つなかったし、特別仲の良い友達だって一人もいなかった。

ずっと、走ることしかしてこなかったから。

 全てを懸けたものを奪われて、独りになって、生きる意味を見失って、それでも惰性で息をして。そんな日々は、酷く苦しかった。この世界の何処にも自分の居場所

なんてないように思えて、生きているだけで誰かに責め立てられるみたいな感覚さえあって。いっそもう逃げ出してしまいたいという気持ちは、日に日に募っていった。

 そんな私が、自殺の意志を固めるのに、そう時間はかからなかった。

二度と走ることができないのなら、死んでしまおう。誰からも必要だと言ってもらえないまま、自分で自分を認めることもできないまま、生きていたって虚しいだけだ。

未来を絶たれた夏、その直後の秋の終わり。空が燃えるような茜色に染まる時刻に、私は無価値な自分の命を投げ捨てるために学校の屋上へ向かった。

そこで出会った誰かに、死にたい心を救われることになるなんて、知りもせずに。

 

 「三上、彩乃さん、だよね?」

屋上のフェンスに手をかけて、その向こう側を見つめていた私の名前を、誰かが

呼んだ。柔らかさの中にも誠実さを感じさせる、耳に心地よく響く声で。

「……西村、くん?」

振り向くと、そこに立っていたのは同じクラスの男子生徒。彼はふわりと微笑み、私のすぐ傍まで歩いてきた。

「三上さんと、話がしてみたかったんだ。この後、時間ある?」

そう言いながら、彼はその場に腰を下ろした。今まさに死のうという場面にそぐわない穏やかな言葉に戸惑いつつも、結局私も彼に促されるままにしゃがみ込む。

「屋上から見える空って、綺麗だよね。晴れている時も、曇っている時も、いつでも

 色鮮やかでさ。この景色を眺めるのが好きで、僕はよくここに来るんだ。」

彼が指し示した先に広がる夕焼け空は、ああ、確かに綺麗だった。夕映えのキャンパスに、落日に染め上げられた雲が棚引く。誰もが呼吸さえ忘れて魅入ってしまうような、圧倒的な美しさ。私は彼と二人、しばらくの間息を凝らしてその鮮麗な茜色を

見つめていた。

「あまりここで人に会うことはないからさ、今日君がいて少し驚いちゃった。三上

 さんも、空を眺めに来たの?」

夕日を映す彼の目を見ていると、心に不思議な安堵が広がっていくのを感じた。どうしてだろう、自分でもよくわからないけれど。この人になら死にたがりの私の胸の内を話すことができるじゃないかって、そうすれば何かが変わるんじゃないかって、根拠もなくそう思った。

「……今日ね、私、自殺しに来たんだ。」

私の言葉に彼は少し驚いたように目を瞬かせたけれど、口を開くことはしなかった。

こちらに向けたその眼差しを動かすことなく、話の続きを待ってくれている。

「怪我で走れなくなって、家族にも仲間にも見放されて、自分が何のために生きて

 いるのか、分からなくなったの。私、走ることに全部を懸けてきたから、それを

 失った自分には何の価値もないんじゃないかって。そう思ったら、生きるのが

 苦しくなって。」

「それで、ここから飛び降りようって?」

「……そう。」

「こんなこと言われても、困るよね。暗い話しちゃって、ごめんなさい。」と、私が小さく頭を下げると、彼は緩く首を横に振って、微笑んだまま口を開いた。

「僕は、走るのをやめた今の三上さんも、綺麗だと思うよ。」

「綺麗……?」

信じられなかった。あまりにも大きな、衝撃だった。たった一つの価値基準しか存在しない寂しい私の世界を掴んで揺らして、根本からひっくり返してしまうほどの。

走れなくなった私を、綺麗だと言ってくれる人がいる、なんて。こんな私を認める言葉をくれる人がいる、なんて。

ああ、もしかしたら、私の価値を誰より強く否定していたのは他でもない自分自身

だったのかもしれない。走ることを私の唯一だと決めつけて、独り善がりなその価値基準に盲目的なほど縋って、小さく脆い世界に自ら閉じこもって。そうすることで

しか自分を認めてあげられていなかった寂しい心に、その時初めて気がついた。

「走っている時も、そうじゃない時も、君は綺麗だよ。」

彼はもう一度、私の目を見て言う。真っ直ぐに向けられた眼差しは穏やかで、その奥に覗く光は自然とつりこまれてしまうほど優しくて。まるで、静謐な夜空に散りばめられた小さな星のよう。

「三上さんの纏ってる空気とか、ふとした瞬間の表情とか。柔らかくて、すごく綺麗だよ。その色がきっと、いつも変わらない三上さんの本質なんだね。」

 私の、本質?変わったことを言う人だ。だけど、なぜだろう。彼の声で紡がれた

その言葉は、不思議なくらい胸に沁みた。声に温度があるとしたら、彼のそれはきっと、誰のものより暖かい。

頬を、一滴の涙が滑っていく。その雫をゆっくりと拭ったら、さっきまでの死にたい気持ちが少しだけ薄れたような気がした。

走ることでしか自分は認めてもらえないって、だから走れなくなった私には何の価値もないって、そう思っていた。だけど、彼の何処までも優しい声が、自分では気づけなかった私の色を教えてくれた。彼が綺麗だと言ってくれるのなら、こんな私だって生きていても良いんじゃないか。彼にとってはそこまでの深い意味はなく口にしたものかもしれない。でも全てを失った孤独な私にとってそれは、今縋ることのできる唯一で、死にたい気持ちの淵から救い上げてくれる言葉だった。

「ありがとう、西村くん。」と、私は泣きながら笑んだ。

「生きる意味を、教えてもらった気がするよ。……今日は死ぬの、やめようかな。」

彼と一緒に夕焼けを眺めて、彼の紡ぐ言葉に救われて。死にたがりの私は変わらず心の中にいるけれど、少なくとも今は、生きていくのが苦しいだけのことだとは思わなかった。

「どういたしまして。……ねえ、三上さん。また死にたくなったらさ、」

暖かな表情の彼が光宿る瞳で私を捉えたその刹那、心の底で熱を伴う何かが揺れた。それの正体が何なのか、私にはまだ分からなくて。それでも、その温度を心地良いと感じた。

「その前に僕と話をしよう?僕の言葉で君が生きていてくれるのなら、何度だって

君を、繋ぎ止めてみせるから。」

 

 私は、貴方に、救われたんだよ。

あの時の言葉通り、死にたい私を何度も何度も繋ぎ止めてくれた貴方がいたから、私は今日も生きているんだよ。

だから、お願い、どうか、何処にもいかないで。

貴方の隣じゃないと生きられない私を置いて、独りでいなくなってしまわないで。

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