バッグクロージャー
かどの かゆた
バッグクロージャー
「あー、あの、『アレ』取って」
彼女は座ったまま手を伸ばして、僕にアピールした。彼女が見つめている『アレ』というのは、バッグクロージャーのことだ。
バッグクロージャー。
それは、市販の食パンなどの袋を閉じているアレのことである。彼女はどうやらその正式名称を知らないらしく、頻繁に『アレ』と呼んでいる。多分、僕以外にはその呼び方では伝わらないだろう。
「はい」
僕はバッグクロージャーを彼女に手渡した。綺麗な水色のそれを、彼女の白く長い指が受け取る。
「ありがと。うん。この食パン美味しいね。あ、マーマレードじゃん。私が好きだって覚えててくれたの?」
「いや、普通に偶々だけどね」
僕は甘いコーヒーを啜って、自分の部屋の様子を見た。ソファの上には、彼女の着替えがきっちりと畳まれている。こういうとこ、変に几帳面だよなぁ。
「あのさ」
僕は、目玉焼きを頬張る彼女を睨んだ。
「こうやって付き合ってもない男の家に泊まるの、止めたほうが良いよ」
彼女はオレンジジュースで目玉焼きを流し込んで、僕の目を見つめた。きょとんとした表情。
「別に、人を選んでやってるからセーフだよ、セーフ。それに一回きりだし」
彼女はそう言うと、食パンにマーマレードジャムを塗る。人の家だというのに、遠慮なんて知らないといった様子で、たっぷり塗っている。
「一回きりって言ったの、今回で三十六回目だからな」
「何で数えてるの? 私のこと好きなの?」
僕はすっかり減ったマーマレードジャムの瓶を見て、ため息をつく。
「え、何でそこで黙るの?」
不思議そうな顔をしているので、僕は彼女のおでこを小突く。
「阿呆なこと言ってないでさっさと食べ終えてくれ」
僕が思い切り不機嫌な顔を見せると、彼女は心底楽しそうに、けらけら笑った。
「あと、すぐ出かけるから、そっちにも家出てもらうよ」
僕がテーブルから立ち上がると、彼女は「えー、もうちょっとダラダラしたかったなぁ」と不満げな顔をした。
「そっちは用事とか、無い?」
僕は歯磨きをしようと歯ブラシを取り出す。えっと、歯磨き粉はどこだったかな。
「あぁ、ちょっと合コンに、ね」
おっと、手が滑った。僕は歯ブラシを落とした。ゆっくりと拾ってから、彼女の顔を見る。とても自慢げな表情だった。
「良いだろー。何か誘われてさぁ」
合コンなんて本当にあるんだなぁ。なんて、僕はぼんやり考える。まぁ、別に彼女がどこに行こうと特に関係はないんだけど。合コン、合コンねぇ。
「まぁ、羨ましい限りだよ。行ってらっしゃい。今日は自分の家に帰ってくれよ。これだけは約束してくれ」
「分かってるって。約束ね。約束」
彼女は最後にヨーグルトを食べて、立ち上がった。
「じゃあ、さよなら」
すると、彼女はさっさと荷物をまとめて部屋を出ていく。いつもならもう少しゆっくりしていくのに、どういう心境の変化だろうか。
「しかし、合コンかぁ」
僕は呟いて、二杯目のコーヒーをゆっくりと飲む。
結局、その日のバイトは遅刻した。
夜。僕が適当な惣菜を買って家に帰ろうとすると、スーパーから少し歩いた狭い道の電柱に、女が立っていた。すっかり遅くなっていたので、他に人通りはない。
月が雲に隠れていて、道は真っ暗だったから、闇の中に電柱とその女だけが浮かび上がっているようで、ちょっと不気味だ。
もしかして、お化け?
恐る恐る近付くと、その女はお化けではなかった。その上、女は女でも、知り合いだった。それも、今朝寝起きに出会ったばかりだ。
「……こんな所で何やってんの?」
「いや、一人で寂しがってるかなぁ、って思って」
彼女はどうやら酒を飲んでいるらしかった。電灯に照らされた頬は、少し赤くなっている。
「別に、寂しがっては無いけど」
そう言うと、彼女は僕の顔を見て、上機嫌な感じで、げらげら笑った。僕はどんな表情をしていたのだろうか。
それから、僕と彼女は暗い住宅街を歩いた。彼女は思ったより酔っているみたいで、僕と無理やり肩を組んで、千鳥足で歩いている。
「今日合コンで聞いたんだけどさ。あの食パンのアレ、バッグクロージャーって言うらしいじゃん。何そのカタカナ語って思ってさ! すごい笑っちゃった」
いつものことだけど、基本的に彼女がべらべら今日あったことを大声で話している。近所迷惑だと言っても、きっと聞き入れてはくれないんだろうな。
そう思っていたら、さっきまで騒いでいた彼女が、急に黙り込んだ。
「ん? どうした?」
並んで歩く隣をちらと見ると、真剣な顔と目が合った。彼女は、僕を見つめていた。
「……あのさー」
間延びした、甘えるような口調。
「私が合コン行くって言って、どう思った?」
そして。短い沈黙。足音と、古い電灯の音だけが響いた。僕はしばらく考えて、口を開いた。
「さっきの、バッグクロージャーの話」
「へ?」
彼女がぽかんとしている。僕はそれを無視して、話を続けた。
「実は、ずっと前から知ってた。ただ、敢えて黙ってただけで」
「えー、何で黙ってたの?」
彼女が軽く怒ったような表情に変わる。
「って、そうじゃない。そうじゃないよ。聞きたいのはそんな話じゃなくて」
彼女が頭を振ってもう一度僕に何かを問いかけようとする。僕はそれを遮るように、また話し始めた。
「何ていうか、曖昧な言葉の方が、伝わることもあるような気がして。バッグクロージャーじゃなくて『アレ』みたいな、誰にでも伝わらない言葉の方が、嬉しい気がして」
僕は足を止めて、彼女と肩を組んでいるのを外した。そして、彼女の正面に立つ。
「実はさ、今まで隠してたんだけど、柑橘系、苦手なんだ。子供の頃から、ずっと。一口も食べられないくらいで」
それは、とても曖昧な返答。恐らくは彼女にしか意味が伝わらない、そんな言葉。
彼女は大きく目を見開いた。それから、僕に背を向けて、僕の家の方向へ歩き出した。
「……朝の約束、守らなくても良いかな」
暗いのもあって、彼女の表情は見えない。ただ、その曖昧な、じんわりと何かが伝わるような返答が、僕の口角を上げた。
すると、タイミングを見計らったように、月を隠していた雲が、レースのカーテンのように薄くなる。
「帰ろうか」
輪郭のぼんやりした月が、振り向いた彼女の表情を、僕に教えてくれた。
バッグクロージャー かどの かゆた @kudamonogayu01
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