最終話

「おい探偵、いい加減に目を覚ませ」

「んぁ……」


 聞こえるはずのない声が聞こえて、織の意識は覚醒した。

 桜の花が彩る、人気のない公園。そこのベンチに座っている。よくよく周囲を眺めると、見覚えのある公園だと気づいた。

 棗市の北側、住宅地の中にある公園だ。

 朱音と丈瑠が猫の世話をしていたところ。猫の気配はしないし、当然のように娘も、その友人もいない。


 その代わり、織のすぐ隣、ベンチの上にはとんでもないやつがいて。


「ようやく目を覚ましたか。貴様が起きないことには、私も動けんだろうが」

「グレ、イ……? ってちっさ⁉︎」


 全長十五センチほどにまで縮んだ、灰色の吸血鬼が、そこにいた。


「え、なにこれ、どうなってんだよお前? ていうかなんでお前がいるんだよ!」

「喚くな、今の私のサイズだと、普通の声量でも十分に大きく感じるんだ」

「あ、悪い」


 思わず謝ってしまったが、それどころじゃない。

 どうしてグレイがここに。なんでこんな掌サイズになって。そもそも、世界の再構築とやらは、正常に機能したのか?


「あの後、どうなったんだ?」

「さてな、私に聞かれても分からんよ。ただ、私は力の大部分を失った。こうして存在を保てているのが不思議なくらいだ」


 意識を集中させる。

 自分の中にある力は、消えていない。魔力も異能も、キリの力も、残ったままだ。

 しかし、世界から魔力が感じられない。どれだけ感知魔術を広げても、なんの反応も出ない。精々がすぐ横からとても弱々しい反応が出るくらいだ。


 つまり。


「成功した、のか……」


 街は戦いの爪痕など一つも見せず、穏やかなそよ風が吹いている。位相に接続しようとしても、上手く行かない。扉が完全に閉じているのだ。


 そう、成功した。

 キリの人間としての使命を果たした。

 魔術も異能もない、平和な世界へと、作り替えられた。


 実感が湧かないのは、隣に人形サイズの吸血鬼がいるからか。あるいは、自分にだけ力が残っているからか。

 ベンチの上で脱力し、晴れ渡る青空を見上げる。


「私に勝ったというのに、随分と覇気のない顔だな」

「いや、なんつーか、実感がないからさ」

「ふん、無理もないか。しかし、幻想魔眼が正常に作用したのは事実だろうよ。そら、説明役がご登場だぞ」


 目の前の空間が歪む。

 先を見通せない闇の広がる孔が開き、そこから二人の人物が姿を現した。


「やあ織。お疲れ様」

「お疲れ様でした、織くん」


 小鳥遊蒼と彼方有澄。

 何食わぬ顔で現れたその二人に、織は絶句する。


「そんなに驚くことでもないだろう? 有澄は元々異世界の人間だし、魂レベルで同化しちゃってる僕も、もはやアダム達と同じ枠外の存在になりかけちゃってるし」

「だからあまり長居はできないんですよ。蒼さんの存在は、新しくなったこの世界に悪影響を及ぼしかねないですから」

「そ、そっすか……」


 織の中にあった僅かな実感が、さらに失われていった。

 いやだって、こんな普通に登場するとは思わないじゃん。


「ああ因みに、記憶を残してるやつは結構いるもんだよ。そこの吸血鬼が使った魔術のせいで、ノイズが入ったんだろうね。転生者は全員記憶持ち。あとはまあ、例外が織以外に四人ってところかな」

「てことは、ルークさんとか龍さんも?」

「うん、力は失ってるけどね。多分織だったら、記憶持ちのやつに力を戻すことはできると思うけど」


 グレイが使った人類抹殺のための魔術と、幻想魔眼の二つによって作られた、あの空間。そこで魔眼の力を行使したせいだろう。

 だからあの場にいたグレイは、蒼の言う例外のうちの一人。

 なら後の三人は?


 いや、それよりも。あの空間にいたのは、織とグレイだけじゃない。

 もう一人、大切な家族がいたのに。


「朱音は! 朱音はどうなった⁉︎」

「落ち着いて、順を追って説明するから」


 立ち上がって蒼に詰め寄れば、苦笑に宥められた。

 落ち着いている場合ではないが、しかし状況が全く分かっていないのも事実。ベンチに座り直し、まずは蒼からの説明とやらを聞くことに。


「まず、今の世界について。便宜上新世界と呼ぶけど、魔力や異能が完全に消えているのは事実だ。使えるのは君と、例外四人のうち二人だけ」


 片方はグレイのことかと思い視線を斜め下にやるが、人形サイズの吸血鬼は首を横に振った。


「私は力を使えんぞ。魔力がないことはないが、それとて微々たるものだ。魔術行使できるほどではない」

「なら誰だよ」

「そこはまあ置いといて」


 置いといていいのか。

 そいつらが悪人じゃないとも限らないし、結構重要なことだと思うのだが。


「位相に関しては、無くなったわけじゃない。扉が閉じたんだ。だから僕たちも、こうしてここにいられる」

「さっきまではドラグニアにいたんですよ。再構築の際にあっちに弾かれちゃって、一応挨拶しておこうってことで戻ってきたんです」

「それと、こいつも渡しておきたかったからね」


 蒼が手元に出現させたのは、旧世界でイブが使っていた鍵のような魔導具だ。

 それを差し出され、首を傾げながらも受け取る。


「そいつはイブの構築した理論を基に、ネザーで作ってもらった魔導具。異世界の扉を開く鍵だよ」

「異世界のって……つまり、位相をまた開くってことか?」

「いえ、位相とはまた別の扉です。そもそも師匠たちが異世界を渡るのに、位相なんてものは必要としてませんでしたから」


 本来位相とは、異世界と旧世界を繋げる扉ではなく、流れてくる力を濾過するためのフィルターだ。

 仲間たちは位相の扉と便宜上そう呼んでいるだけで、本質はそこにあるわけじゃない。


 だからこの鍵は、位相に干渉することなく異世界への扉を開く鍵。

 おまけに旧世界でのことを思い出してみれば、世界間移動の際に生じるデメリットも無視できるのだろう。


「でも、なんでこれを?」

「別に理由なんてないよ。君の気が向いたら、ドラグニアに遊びに来てくれってだけだ。凪さんから十六年前に託された弟子と、これで一生のお別れってのも悲しいからね」

「シルヴィアも、あの後のことを気にしてましたから。落ち着いたら一度こちらに顔を出して、安心させてあげてください」

「そうっすね……そういうことなら」


 あの友人のことだ。必要以上に心配してくれているに違いない。

 だから安心させるためにも、それから礼をちゃんと言うためにも、一度はドラグニアに行ってみてもいいだろう。


 鍵を手元から消して、ふと気付いた。

 さっきからぽんぽん魔術を使ってしまっているが、これって大丈夫なのだろうか。

 魔術に使った魔力は、その後大気中に霧散していく。つまり、魔力の存在しないこの新世界に、魔力をばら撒いているようなものだ。


 ことの重大さに気づき冷や汗を流す織。

 そんな彼の考えなどお見通しなのか、蒼が魔導収束の魔法陣を広げた。


「魔術行使なら、こうして使った魔力を回収さえすれば問題ないよ。さっき感知魔術も使ってたみたいだし、そっちもついでに回収した。でも、今後は自分でやりなよ」

「面倒だな……」


 なにかしら魔術を使う際は、同時に魔導収束の術式も構成しなければならないということか。

 二つの術式を同時に構成するのは結構大変なのだが、まあ、できないことはない。

 ていうか、ここはもう魔術が存在しない世界なのだから、使わずに生きていけばいいだけだ。転移とか便利だけど、そこは我慢。自分の足を使って移動しよう。


「最後に。君たちは完全に、新世界では存在しない人間として存在している」

「ややこしい言い回しっすね」

「事実だから仕方ないさ。桐生織という人間は、この世界のどこにも記録されていない。ただまあ、それだと今後の生活が不便だろうからね。色々と手を回しておいた」

「いつの間に……」

「時空間魔術は、小鳥遊家の十八番だぜ? 栞の腕は君も見てるだろう。僕レベルになれば、時界制御だって可能さ」


 つまり、新世界における過去へ遡り、そこで色々と手を尽くしてくれた、ということだろう。さすがは人類最強。


「知り合いの転生者に、政府のお偉いさんがいてね。戸籍はそこに頼んだ。あとは住む場所も、前と同じ場所にあるから」

「てことは、事務所が残ってるってことっすか?」

「いつかまた、織くんたちが三人で暮らせるようになった時。あの場所がないとダメですからね」


 優しく微笑む有澄。二人の手厚いアフターケアに、思わず涙腺が緩んでしまう。


 そうか……あの場所は、俺たちの帰るべき家は、ちゃんと残ってるのか……。


「とりあえずはこんなところかな。後は自分の目で、この世界を見てみるといい」

「そうしてみます」

「ただその前に、まず向かって欲しいところがある」


 突然、織の足元に魔法陣が広がった。転移魔術のものだ。そこに多重詠唱で魔導収束も掛け合わせている。

 どこかに送られるのだらうとは分かるが、果たしてそれがどこなのか。


 術者の蒼は、悪戯する子供みたいな笑顔を見せているのみ。


 ベンチの上に立つちっさい吸血鬼を放っておくわけにもいかないので、とりあえず肩に乗せた。


「おい探偵、鷲掴みはやめろ」

「うるせぇ、お前なんかこれくらいの扱いで丁度いいだろ」


 耳のそばで未だにギャーギャー文句を喚いているが、それは全部無視。

 別れる前に、蒼には言っておきたいことがあるから。


「先生、今までありがとうございました。あんたが俺の先生で、本当によかった」


 心の底からの本音だ。

 蒼が導いてくれたから、強くなれた。今日ここまで至ることができた。

 最強の背中があったからこそ、織は道を踏み外さなかった。


 当然、蒼だけのお陰というわけではないが。それでも織は、この男が己の師でよかったと、本当にそう思う。


 そして言われた本人は、初めて見せる、呆気に取られたような表情をしていて。

 なにかを噛み締めるように俯き、すぐに顔を上げる。


「うん。君にそう言ってもらえただけで、僕も心置きなくこの世界を去れる」

「織くん、お元気で。ドラグニアにはいつでも来てくれていいですからね」


 二人の笑顔に見送られ、織は公園から姿を消した。



 ◆



 移り変わった視界には、見覚えのある、決して忘れることのない光景が広がっていた。

 桐生織が生まれ育ったとある地方都市。そこに建つ、探偵事務所の近く。


 蒼に転移させられたその場所で、織は呆然と立ち尽くす。

 まさか、こんな場所に転移させられるとは思わなかったからというのもある。けれど最たる理由はそうじゃなくて。


 四階建ての雑居ビル。二階が事務所で三階と四階が織の家。そして一階はずっと空きテナントのままな、そのビルの前に。

 瞳をオレンジに輝かせる男性と、メガネを掛けたセミロングの髪の女性が、立っていたから。


「父さん……母さん……」


 二人はなにやら話し込んでいる様子で、こちらに気付いている様子はない。蒼はきっと、二人がこの世界で生きていることを教えたかったのだろう。だから織をここに送った。


「ふむ、やつらも生きていたか。となれば、緋桜も……」


 肩に乗ったミニチュア吸血鬼がなにやら呟いているが、織の耳には届かない。

 意識は、完全に両親へと向けられているから。


 まさかもう一度、二人の顔を見れるなんて、思ってなかったから。

 他の誰でもないこのクソチビ吸血鬼に殺されて、突然の別れとなってしまって。今でも明確に、あの日の光景を思い出せる。

 血に塗れて倒れた両親を。そこに現れた、美しい少女を。


 でも二人は、今の織のことなんて知らないだろう。この新世界における桐生凪と桐生冴子の間に、子供はいない。

 桐生織という存在は、この世界で記録されることがない。


 一目顔を見れただけで十分だ。

 今の凪と冴子には、今の暮らしがある。突然見知らぬ男が現れ、あなたたちの子供です、なんて言われても信じないだろう。


 だから、織は踵を返した。


「常にあらゆる可能性を考慮しろ、って教えたはずだけどな」


 返して、声がかけられた。

 反射的に振り返る。

 まさかと、そんなわけがないと。幻聴だと思う自分がいても。考えるよりも先に、体は反応して。


「久しぶり、でいいのかね。俺らの主観的には殆ど一瞬だったもんだからな」

「織にとって一年振りだし、それでいいんじゃない? ああでも、ちょっと時間がズレてるんだっけ?」

「なんで……」


 思わず漏らした声。無意識のうちに足はゆっくりと動き出す。肩に乗っていたクソ野郎は、いつの間にか地面に降りていた。


「なんでって言われてもな。この目のお陰、としか言えない。お前なら、こいつの力をよく分かってるだろ?」

「私はそのおこぼれってところかしら」


 あの日、最期に交わした会話。

 普段と変わらない、平和な日常の延長にあったあの日。

 行ってきますと言って家を出て、いってらっしゃいと見送ってもらった。


「おかえり、織」

「今まで、よく頑張ったわね」

「ただいま……ただいまっ、父さん、母さんッ……!」


 溢れる涙は止められず。

 桐生織は、家族の元へ帰った。



 ◆



 目元を腫らすまで泣いてしまった織は、両親から促されて久しぶりの実家に上がることとなった。

 二階の事務所を素通りして、三階のリビングへ。織たちの事務所よりも余程広いその部屋で、大量の食事を平らげている少女が。


「あ、父さん。遅かったね」

「いやなんで普通にいるんだよ……」


 当然のような顔でそこに座るのは、織の愛娘、桐生朱音だ。

 もはや驚くのを通り越して呆れていた。あまりにも自然体すぎるだろ。織でもなんかちょっと変な緊張がまだあるのに。


 しかしそんな朱音の目が、スッと細められる。織の肩に乗った、全長十五センチの吸血鬼を睨んでいた。


「それ、こっちのセリフなんだけどね。なんでグレイが普通にいるの?」

「今の私を見て普通と言うか……」

「朱音はその辺ズレてるから……」


 明らかに普通ではないのだが、まあ細かいことはいい。朱音の言いたいことは理解できるし、織だってその辺をハッキリさせておきたいところだ。


 織も腰を落ち着かせると、冴子がお茶を淹れてくれた。母の淹れる紅茶は絶品なのだ。茶葉から拘っているとかで、めちゃくちゃ美味しい。

 とても久しぶりに味わう紅茶で喉を潤し、とにかく状況の把握と情報の整理を行うことにした。


「朱音はいつからここに?」

「織が来る一時間前くらいだな。つっても、俺と冴子が今の自分達として意識を覚醒させたのも、同じくらいだったが」

「つーことは、父さんと母さんも、俺たちと同じってことか?」

「ちょっと違うわね。私たちには、明確にこの新世界での記憶があるわ。四十年、この世界で過ごした記憶がね」


 つまりそれなら、意識が覚醒した、というよりも。記憶を取り戻した、と言った方が適切に思うのだが。

 しかしそう簡単な話でもないらしく。


「記憶として実感もある。ただなんて言うかな、この新世界の住人になるため、後付けで取り付けられたみたいな、変な感覚もあるんだ」

「……?」

「つまり貴様とは違うということだ、探偵。こいつらはこの世界の住人であり、貴様のように記録されることのない存在ではない。それだけ把握していれば今はいいだろう」


 グレイの補足に、とりあえずは納得する。難しいことはよくわからない。そういうのは、愛美とか桃の領分だったから。


「それで? 私はいい加減、お前がここにいる理由を聞きたいんだけど」

「そんなもの、私が聞きたいくらいだ。この身は完全に滅んだと思ったのだがね。貴様の力不足ではないのか、ルーサー?」

「お望みとあらば今すぐ殺してあげるよ」

「喧嘩すんなよ……」


 仲良くしろとは言わないから、せめて喧嘩はしないで欲しい。話が先に進まない。


「丁度演算が完了したところだ。情報の可視化程度なら、異能も行使できる」

「え、お前異能使えるのかよ」

「ごく限定的ではあるがね。今の私では、視ることだけで精一杯だ」


 しかしそれだけであっても、十分に便利なものであることは変わらない。

 翠がドラグニアに来た時もそうだったが、異世界に渡った際、情報操作の異能は演算のやり直しを強いられる。あの時の翠は朱音の血を摂取したことで、すぐに使えるようになったが。

 グレイはそれよりもなお速いスピードで、演算を完了させた。そこがオリジナルの違いというわけだろう。


 はてさて、そんなチビ吸血鬼の視た情報とは、いかに。


「……っ」

「グレイ?」


 テーブルの上に飛び降りたミニチュア吸血鬼が、表情を驚愕に染めたまま固まる。

 まさか、着地に失敗して足首を挫いたのだろうか。だったらゲラゲラ笑ってやるのだが、そんなわけがないだろう。さっきは肩から地面にも飛び降りてたし。


「そうか……この世界は……」

「おい、どうしたんだよ」

「なにか、都合のいい情報でも視たようだな」


 向かいに座る凪はなにかを察したのか、穏やかに微笑んでいる。

 やがてグレイは一つ息を吐いて、あろうことか織に謝罪してきた。


「いや、すまない。唐突に、全てがどうでもよくなってな」


 嘘をついているようには見えない。

 全てということは、灰色の吸血鬼が千年にも渡る間持ち続けた、妄執とも呼べるその目的すらも、ということだ。


 グレイにそうまでして言わせる情報とはなにか。少し考えて、思い至った。

 葵たちよりもよほど強力な、オリジナルの情報操作。それがあれば、ここにいても視えるはずだ。


「まさか、エルーシャって人が生きてたのか?」

「ああ。この世界の、この時代にな」


 ただそれだけで、グレイの妄執は晴れてしまう。たった一人の女性が、生きているということだけで。


 で、あるなら。

 こいつにはこれから、やるべきことがある。見てもらいたい景色がある。

 人間の醜い姿ばかりを見せられてきた、灰色の吸血鬼に。


「お前はこれから、この世界で人間がどういう生き物なのかを見てたらいい。たしかに、お前が見てきたような醜悪な人たちもいる。でもそれだけじゃない、父さんや母さん、お祖父ちゃんたちみたいな人間も、たくさんいるんだってことを」


 織が言おうとしていたセリフを、先んじて朱音に言われてしまった。


 きっと、織と朱音の中には、魔眼を行使した時すでにそのような気持ちがあったのだろう。だから、グレイはこうして、力を失い体も小さくなって、ここにいる。


 しかしまさか、娘からそのセリフが出てくるなんて思わなかった。グレイも同じなのか、目を見張って驚いている。


「貴様から、そのようなことを言われるとはな。やはり、心変わりでもしたか?」

「別に。私はもう、私の決着をつけたから。それだけ」

「……なるほど、未来の私を殺してきたか」


 いつの間に。

 真っ先に思い浮かんだのは、そんな疑問。あの空間で織と朱音が魔眼を発動してから、世界の再構築までは一瞬だったはずなのに。


 視線を朱音の方へ移すと、話も自然にそちらへと移る。


「私は、時間を超えられるから。父さんの主観では一瞬だったとしても、私には未来で決着をつけるだけの猶予があったんだ」

「そうか……終わらせたんだな、全部」

「うん。サーニャさんと葵さんと一緒に、父さんと母さんの仇を取ったよ」


 ならもう、本当に。旧世界でやり残したことはない。

 これからは、この新世界で、まだ見ぬ未来を向くことができる。


「さて、ひとまず現状の把握はできたか? ならこれからの話をしよう」

「織はこれから、どうする?」

「俺たちと暮らすか?」


 両親から問われ、悩む。

 正直、凪の提案は魅力的だ。一度は死に別れた両親と、もう一度共に暮らすことが、今の織にはできる。朱音だって一緒だ。


 でも今の織には、こことは別に、帰るべき場所がある。


 いつか、家族みんなでまた、あの家に。

 織の、朱音の。そして彼女の、その願いを叶えるために。


「いや、俺と朱音は、棗市に帰るよ。先生が色々手回しして、住む場所も用意してくれてるんだ」


 あの街の、あの家で。

 今はまだ会えるかすらも分からない、彼女の帰りを待つ。


「そうか……これが、親離れってやつか……意外と、寂しく感じないものなんだな……」


 なんて言いつつも、凪の目は潤んでいる。

 自分の父親が所謂親バカというやつで、自分が愛されていることは自覚していたけど。ここで泣かれるとなんか恥ずかしいのでやめてほしい。


 そんな父親とは違い、強い母である冴子は、織の門出を柔和な笑みで祝ってくれる。


「織が決めたことなら、それでいいと思うわ。でも、なにかあったらすぐに頼ること。あなたはまだ子供なんだからね」

「もう十八だよ」

「私たち親にとっては、いつまで経っても子供よ」


 朱音がいるから、織にもその気持ちがわかってしまう。

 何歳になっても、親にとって子は子だ。大切な家族だ。それは一生変わらない。



 ◆



 凪にめちゃくちゃ惜しまれながらも、両親に一時の別れを告げ、織は朱音とグレイを伴い棗市に帰ってきた。


 冴子が軽く口にしていた通り、新世界と旧世界では時間にズレが生じている。

 旧世界での最後は、2020年の12月だったが、今は同じ年の3月末だ。

 つまり、織にとって全ての始まりである日に、戻っている。


 さすがに距離があるので転移を使い、棗市の南側まで戻ってきた三人は、事務所への道を歩いていた。

 ところどころに桜の花が見え、風に揺られて花びらを散らしている。最近は緋色の桜しか見てなかったから、普通の桜がなんだか新鮮に感じられた。


 どこか懐かしく思えてしまう道のりは、様々な喧騒に溢れている。


 例えば、ツインテールの少女と茶髪の少年が、仲睦まじく歩いていたり。


「もうちょっとで新学期かぁ」

「来年も同じクラスになれればいいけど、やっぱり難しいかな」

「それは神のみぞ知る、ってやつだね。それより私、春休みの宿題終わってないや……」

「意外だな。葵って夏休みの時、先に全部終わらせてなかった?」

「終わらせないと、蓮くんと遊べる時間が減っちゃうじゃん。でも春休みは数も少ないし、大丈夫だと思ってたんだけど……」

「またカゲロウに馬鹿にされそうだな」

「あいつもまだ終わってないけどね。最悪愛美さんに助けてもらおうかなぁ」


 あるいは、その少し後ろから二人を尾行する青年を、銀髪の女性が呆れたように見ていたり。


「おい緋桜、なにをしている」

「なにって尾行に決まってるだろサーニャさん。くそッ、葵のやつ、いつのまに彼氏なんか作ってたんだ……! お兄ちゃんは許しませんよ!」

「葵の好きにさせてやればいいだろう……バレたら嫌われるぞ」

「大丈夫、葵は俺のこと大好きだから」

「その自信はどこから来るのだ……」


 今にも飛び出して行きそうな朱音を、必死に引き留めて歩みを進めた先。駅前のクレープ屋台で、灰色の髪をした兄妹が仲良くクレープを食べていたり。


「蓮と葵は、上手くやってんのかね」

「姉さんなら大丈夫でしょう。カゲロウが心配するようなことではありません」

「……なあ翠。ずっと思ってたんだけどよ、なんで実の兄を名前で呼び捨てて、従姉妹のあいつは姉さん呼びなんだよ」

「理由など特にありませんが?」

「緋桜の気持ちがわかっちまった……」


 少し離れたところでは、金髪の少年と関西弁の少年が、なにやら言い合っていたり。


「ああ、Ms.桐原はいつになったら振り向いてくれるんだ! Mr.安倍、なにか良い案はないか⁉︎」

「街中でデカい声出すなや。つーか、桐原はいい加減諦めぇ。あいつ、生徒会長の癖にネックレスして来とってんけどな、明らかに男から貰った指輪やったぞ」

「NOoooooooooooo!!!!」

「だから五月蝿いねん!」


 商店街に入ると、まだ幼さの残る少年が野良猫と戯れていたり、女子高生二人組がおじさまおばさま方と元気に話していたり。


 そこにあるのは、平和な日常。誰も魔術や異能のことなんて知らない、どこにでもありふれた、穏やかで幸せな日々。


「みんな、楽しそうだったね」

「だな」


 この街にみんなが集まっていることには驚いたが、織と朱音の意思や願望が反映されたのだろう。不思議なことではない。


 やがてたどり着いたのは、旧世界と全く同じ場所、全く同じ外観の我が家。桐生探偵事務所。

 今の織たちが、帰るべき場所だ。


 その事務所の前に、二人の少女が立っていた。


「ねえ愛美ちゃん、いい加減帰ろうよ。中に誰もいないっぽいし、わたしお腹空いたんだけど」

「なら一人で帰りなさいよ。私は待つわよ。人の家のシマに無断で入り込んだ探偵事務所なんて、怪しさ満点でしょ。所長の顔を拝んでやるまでここは動かないわ」

「頑固だなぁ……」


 ひとりは、おさげ髪の少女だ。女子の中では平均的な身長に、頭には緋色の桜を象った髪飾り。可愛らしい顔つきの、高校生くらいに見える少女。

 そしてもうひとり。長い漆黒の髪と、切長の目つき、隣の少女よりも高い身長。そこらのモデルのよりも綺麗な美貌。


 その横顔に、思わず見惚れてしまう。

 まさかこんなに早く会えるなんて思わなくて、万巻の思いが胸に去来する。

 湧き上がる感情はなんとか押さえつけた。向こうはこっちを知らないんだ。


 深呼吸をひとつして、二人に声をかけた。


「ようこそ、桐生探偵事務所へ。なにか困りごとでもあるなら、助けになるぜ?」


 だから、ここから始めよう。

 俺の、俺たちの未来を。

 この瞬間から、記録していこう。



 完

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Recordless future 宮下龍美 @railgun-0329

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