終章 始まりへ至るエピローグ

第181話

 朽ちて穴の空いた天井、様々な魔法陣がいくつも描かれた壁や床。決して清潔とは言えないベッドに、魔導書を積み上げた机。


 そして椅子に座っているのは、眼鏡を掛けて文庫本を開いている、銀髪の吸血鬼。


「サーニャさん……?」

「ん、起きたか朱音。珍しいな、貴様がこうも深く寝るとは」


 文庫本を閉じたサーニャが、優しい、慈愛に満ちた笑みを浮かべて、朱音の頭をそっと撫でる。

 最も新しい記憶にあるサーニャとは、どこか違う雰囲気。一年にも満たない時間を共有した、彼女とは。


 ハッとなって飛び起きる。

 見覚えのある部屋は、朱音が本来生きる時代で、両親が死んでからずっと使っている部屋だ。そもそもここは桐生探偵事務所でもなく、もはや土地の名前も分からないどこかの廃墟を、生き残った僅かな人間たちな住処にしている場所。

 そのうち、朱音にあてがわれた部屋。


 つまりここは、朱音にとっての現代。

 ついさっきまでの記憶からは、未来の世界ということになる。


「私、なんでここに……」


 怪訝な目を向けてくるサーニャに構わず、朱音は思考に耽る。

 本当についさっきまで、戦っていたはずだ。父と二人でグレイを倒し、この目を使って新たな世界を築いた。そのはず。


 まさか、全てが夢だった?

 いやそんなわけがない。自身の内側へ意識を向ける。そこにある力は、あの時代じゃないと手に入らなかったもの。

 両親との幸せな生活も、色んな出会いや苦しい戦いも。全てが夢じゃないと言う証拠。


「朱音、どうした? どこか具合が悪いのか?」


 心配そうな顔が覗き込んでくる。

 過去のサーニャとは毎日のように会っていたけれど。この時代の、朱音をここまで育ててくれた、大好きな親代わりの吸血鬼と会うのは、とてもとても久しぶりで。


 視界が滲む。

 込み上げてくるものを我慢できない。


「サーニャさん……私……私っ……!」


 泣きながら抱きついてきた少女を、銀髪の吸血鬼はなにを聞くこともなく、優しく受け止めた。



 ◆



 それから朱音は、サーニャに全てを語った。

 過去に遡って、そこで両親と再会して。楽しかったことも、辛かったことも、その全てを。

 サーニャはそれを、疑うこともなく全部聴いてくれた。銀炎の力については、サーニャも知っている。だからと言うのもあるだろうけど。きっとこの吸血鬼は、そうじゃなくても朱音の話を疑ったりしなかっただろう。


「そうか……頑張ったのだな」

「はい。最後は、グレイを倒して、父さんと一緒に魔眼の力を使ったはずなのですが……」

「なぜか、この時代に戻ってきているというわけだな」


 ふむ、と腕を組んで、一緒に考えてくれるサーニャ。

 そう、そこだけがよく分からないのだ。なぜ朱音が、こうして元の時代に戻ってきているのか。その可能性自体は考慮していたことだし、ただ戻ってきただけならおかしなことではない。


 しかし、元の時代に戻るというなら、今ここじゃないはずだ。

 朱音が時間遡行を行った、その直後以降に戻らなければおかしい。


 現在の日付は2040年の3月上旬。

 朱音が時間遡行を試みた、あるいはこれまでの転生でグレイに挑み死んだのは、3月中旬以降。一週間ほど前の時間に戻ってきた。

 そしてこの時間に戻ってきたのなら、朱音が二人いることになってしまう。


 二十年前へ遡行したのは、肉体と精神の両方だ。ならばそのどちらもこの時代に戻ってくるべきで、しかし実際に朱音は一人しかいない。つまり、精神のみが戻ってきた。


「そもそも、この時代であっても、今の世界が残っていることからおかしいのですが。私も父さんも、たしかに魔眼の力を使ったはずですので」

「世界の再構築か……あるいは、今はまだ再構築の途中なのかもしれんな」


 言葉の意図を掴みかねて、小首を傾げてしまう。元はネザーの研究員であったというサーニャは、その辺り朱音よりも理解が及んでいるのかもしれない。


「桐生織の主観では一瞬の出来事やも知れぬが、時間を越えた朱音は別だ。再構築が完了するまでの、僅かな隙間。そこに入り込んだのが今の貴様というわけだ」

「でもでも、それならどうして、今この時間に戻ってきたんですか? 精神だけの時間遡行はたしかに可能ですが、理由がわかりません」

「おそらく、肉体は未だ元の時代にあるのだろう。いや、この場合は元の時代というより、新たな世界といった方が正しいな」

「てことは……」


 いつになるかは分からない。けれど世界の再構築が終わったら、その時は。またあの時代、新しい世界に。大好きな両親が生きている時代に、戻るということだ。


 ではなぜ、そのような形でこの時代に戻ってきたのか。

 その理由、いや、今の朱音の目的は?


「いわゆる、ボーナスステージとやらだろうよ。魔術や異能がなくなるのならば、転生者という存在もいなくなる。貴様の後悔を、全て晴らすため。そのためにこの時代に戻ったのではないか?」


 決着はつけた。

 父と力を合わせてグレイを倒し、新たな世界の構築を叶えた。


 それは、あの時代での話。

 キリの人間としての使命を全うして、家族との未来を掴むことができた。


 それでは、全て終わったと言えない。

 織や愛美たちにとっては終わりでも、朱音にはまだ、やり残したことがある。


「おはようございます、サーニャさん! あ、朱音ちゃんも起きてたんだ」


 不意に部屋の扉が開いて、長い黒髪をツーサイドアップに結んだ女性が現れた。

 黒霧葵。

 過去の時代では消えてしまった人格。それを残したままで生きている、朱音にとっては姉のような人。


 その異能は、グレイと同じ情報操作。

 ゆえに、一目見ただけで分かってしまう。ここにいる朱音の情報、その全てが。


「朱音ちゃん、これって……」

「おはようございます、葵さん」


 しかし、朱音はなにも言わない。

 あの時代での出来事は、ここにいる葵にとってショッキングなことが多すぎる。

 だってここには、蓮もカゲロウも、翠も、緋桜もいない。


 なんとか飲み込めたのか、葵はそれ以上なにも言わなかった。

 けれど、自分とサーニャを見つめる朱音の瞳に、なにか感じるものがあったのだろう。真剣な顔で見つめ返してくる。


「サーニャさん、葵さん、お願いがあります。私と一緒に、戦ってくれますか?」

「愚問だな」

「うん。私も碧も、覚悟を決めるよ」


 立ち上がって、そばに置いていた短剣を懐にしまい、ハンドガンを収めたホルスターを腰に巻く。


 やり残したことが、まだある。

 あるいは、全ての始まりとも言えるだろうこの時代で。

 今度こそ、全部終わらせるんだ。



 ◆



 この時代の空気は過去の時代と比べると、どこか乾いたように感じてしまう。

 生まれ育った世界の、見慣れてしまった荒廃した街を歩き、朱音はつい比較せざるを得なかった。


 生の気配が圧倒的に足りないのだ。

 充満するのは死の匂い。大気中の魔力濃度は馬鹿みたいに高くて、ただそれだけで一般人が生きていける環境にはない。

 両親が遺した結界がなければ、拠点に住む魔術師以外の人たちは既に全滅している。


 そんな世界を、三人で練り歩く。

 向かってくる魔物は、どれもが瞳を紅く染めたやつらばかり。決して気を抜けるような相手ではなく、しかしこの世界を生き抜いた三人にとっては、雑魚であることに変わりない。

 朱音のグロックが眉間を穿ち、サーニャが容赦なく凍らせ、碧の大鎌が体を両断する。


「それにしても、あの子がちゃんと表に出てるなんてこと、あり得たのね。あたしには想像できないわ」

「その辺りは、緋桜さんやカゲロウの存在が大きいと思いますが。緋桜は結局最期まで、葵さんの兄であろうとしていましたので。カゲロウも、馬鹿だけどいいやつでしたから」


 片手間に魔物を屠りながら、碧が思わずといった風に漏らす。

 あの時代での葵の言葉を信じるなら、彼女は今も、その体の内側から外の状況を見ているのだろう。それでも、表には出てこようとしない。


 最も大きな違いは、緋桜とカゲロウの存在だ。きっと彼らが健在なら、葵には違う未来が待っていたのだろうけど。


「でもまあ、情報は視たもの。力自体はあたし達でも使えるわよ。纏いも多分完璧」


 その言葉を証明するように、碧の指先で青白い火花が散った。

 戦闘という点において、『黒霧葵』が持つセンスは抜群のものだ。朱音は知らないことだが、あのイブ・バレンタインも一目置くほど。じっくり育てれば、人類最強を追い越すだろうと、あの枠外の存在は確信していた。


 この時代の葵たちも同じ。そもそも今日ここまで生き残れているのは、それ相応の強さを持っているからだ。


「無駄口はそこまでだ。そろそろだぞ」


 やがて、明らかに雰囲気の異なる場所へと辿り着く。周囲の廃墟や瓦礫の山は、そこにだけ存在していない。

 代わりに、塵のように積もった灰が。

 風に煽られて舞うそれは、ここら一帯の全てを崩壊させたもの。


 そしてその中心に、理性を失くした紅い瞳を持つ、灰色の吸血鬼が。


「グレイ……」


 最後の戦いで、やつの想いを、信念を知った。人類滅亡という目的に込められた、吸血鬼の妄執を。

 だからだろうか。その姿を見ても、かつてのように激しい怒りが湧き上がらないのは。


 だからといって、戦うことをやめることはない。今ここにいるグレイは、紛れもなく両親の仇、その張本人なのだから。


 血よりも深い紅が、燦々と輝くオレンジへと向けられる。


位相接続コネクト


 静かに紡がれる、力ある言葉。

 朱音の姿が変わる。銀のラインが入った黒のロングコートと、朱色のスキニーパンツ。

 けれどそこに、仮面はない。

 力強く輝くオレンジの瞳があるだけ。


未来へ繋ぐ時の敗北者レコードレス・ルーサー


 それでも朱音は、敗北者を名乗る。

 重ねてきた、記録されることのない無数の敗北を、今も背負っているから。

 その末に、今の自分があるから。


「これで、本当に全部終わりにする」


 そして私は、新しい未来に辿り着くんだ。

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