参拾玖

 

 薄暗い冷たさと、孤独な心が吹きさらしにされるような寒く、とても寂しい場所だった。そこには何もなく、ただ漠然と広がる果てのない空間に、一人膝を抱えてうずくまることでしか温もりを感じられない。一瞬でも気を抜けば、孤独に蝕まれ、寂しさに呑み込まれて溺れそうだった。

 こうして自分を抱きしめていないと、壊れてしまう。一人きりである事に気がついてしまう。


「お母さん……」


 フィナは考えていた。ここは、どこなのか、一体なぜ自分は一人きりなのか。いつから、一人なのか。母と過ごした短い思い出が幻のように目の前を通り過ぎていく。思わず手を伸ばすと幻は消え、次に映し出されるのは覚めることのない眠りについた母の姿であった。


「おかあさん、あたしね? お母さんとの約束守れたよ、ちゃんと、いい人間と会えた。少しだけ、本当に“好き”になれたかもしれない……だから、もう、いいよね? あたしもお母さんのところに」


 幻の母にすがり、自らもその場所へ向かわんとするその背後から凛とした声がかけられた。


「なに甘えたこと言うてはりますの? あんたのために亡くなりはったおかあはんの想いに泥塗るつもりおすか?」


 手の届きかけた幻は陽炎のように揺らぎその手から離れてゆく、慌てて振り返ったフィナの視界に映ったのは海色の瞳を細める蒼穹の長い髪を靡かせる少女。


「レヴィア? なんで、どうやってここに」


「なんでやあらしまへん、人が一生懸命治そうおもてんのに、何自分から黄泉あっち行こうとしてはりますの? しどうはんの為や思うたけど、なんやアホらしなってしもうたわ」


 レヴィアは呆れた様子で視線を冷たく細め、両腕を組んでフィナを見据えた。


「あ、あんたには関係ないでしょ?! それに、もう、いいんだよ、あたしはお母さんとの約束が守りたかっただけで、それは強引だったけど叶ったから」


 肩を震わせて反論するフィナに、レヴィアはさらに嘆息してその心情を悟ったように応えた。


「しどうはん、いや、初めて自分にやさしゅうしてくれた人間と仲ようなってたぶらかしたからもうええって? ほんま、ええ加減にしよし」


 その声には真っ直ぐな怒りと哀れみが込められていた。フィナは困惑した表情で、しかし、自分の思いに必死でしがみつきレヴィアの言葉を拒絶する。


「あたしはたぶらかしてなんかっ……ただ、そうなる事がお母さんに喜んでもらえると思って、あたし」


 反論する言葉も、現実を受け止める心の余裕もフィナにはなかった。ただ、自分が生きるために縋ってきた幻想を抱きしめ、駄々をこねる子供のように反発し続けた。


「ほんまに、難儀な子ぉや。それをたぶらかしとる言うんどす、相手の気持ちも考えんと自分のことでいっぱいいっぱい、あんたのためを思うて戦いはったしどうはんも、おかあはんも、今のあんたのおかげで無駄骨の犬死にどす」


 容赦ないレヴィアの言葉に牙を向いたフィナは、瞳を鋭く細めて睨み返す。


「お母さんを悪く言わないで!! あんたに何がわかるのよ!? 人間を好きになって、人間に騙されて……あたしがお母さんのそばにいてあげなきゃ、お母さんが可哀想————」


 一瞬、呼吸が止まったかのように思えた。それほどまでに深く暗い、深海のような瞳で射抜かれたフィナは思わず押し黙った。レヴィアは、昂った感情をひとまず呑み込むように軽く息を吐くと、遠くを見つめて語り始めた。


虎人ティガルは誇り高い種、人間にすがって甘えるような真似は絶対にしまへん、それがあないな浅はかな人間に、ほんまに騙されたとおもうてるん? あんたのおかあはんは、あんたを守るためにその身を犠牲にしたんと、うちは思うけどな?」


「あたしを、守るために?」


 確信を持って応えたレヴィア、その言葉に愕然としたフィナはただ目を丸くして見つめ返す。


「なんであの男が、今更になってあんたを殺そうとした? 今まであんたの存在を知らんかったからや、あんたのおかあはんは騙されたふりをして、男の言いなりになって、あんたのこと隠し続けたんと違う? それでもあんたに、人間を恨んでほしくなかったんは、あんたのおとうはんを恨んでほしくなかったから」


「————ぇ」


 理解できるはずもない。母がそんなこと思い自分を守るために死を選んだなど、母への妄執に縛られ、それを糧に生きてきたフィナには、到底理解できなかった。


「あんたのおかあはんは、哀れなんと違う、愛するもののために命を捨てられる、誇り高い、立派な人や。あんたの言葉はそんなおかあはんの想いを否定するもんどす」


「あたし、そんな……あたしはどうしたら」


 唇が無意識に震えていた、気がつけばいくつもの涙滴が頬に線を残してこぼれ落ちていく。


「生きなはれ、しどうはんの言う通り、死ぬまで生きてほんまに幸せになるんが、生かされたあんたの使命や」


 瞬間、脳裏に蘇るのは獅童と出会った場面。そして自分のために怒り、自分のために命をかけて戦ってくれているその姿を思い出したフィナの胸に刺すような痛みが走った。


「しどー。あたし、お母さんの想いを叶えることで、お母さんと繋がっていられると思って、それなのに、こんなあたしの為に」


 胸にかけた無骨なネックレスが揺れる、それを握りしめると心が暖かくなるのを感じた。獅童が込めた想いが、その優しさが流れ込んでくるような感覚にフィナは安らぎを感じた。


「ほんまに、難儀な子ぉや。あんたのために力と人生を残してくれた両親に恥じることのないよう、しっかり自分の足で立つんどす」


 穏やかさの戻った声色で告げられたレヴィアの言葉に、こくりと頷いたフィナは、ゴシゴシと涙をぬぐい力強く向き直った。


「うん、あたし、しどーに謝らなきゃ。そして今度は本当に、心からの気持ちを込めてしどーに————」


「それはいりまへん、しどうはんのお嫁はんはうちで間に合っとりますさかい? ほな、いきまひょか」


 決意を新たに、そして、獅童のことを思い返して頬を染めたフィナの言葉をさらりと遮ったレヴィアは、何もない空間をスタスタと歩き始めた。


「そ、そんなことさせないわよ、あたしだって今はちゃんとしどーのことっ、てどこいくの?」


 上も下もない、透明な世界。透き通る水面のような足元を気にすることもなく歩いていくレヴィアの後ろ姿を追いかけるようについていくフィナ。


「どこて、このままやったらあんた、ほんまに死んでまうぇ?」


 フィナの言葉に、レヴィアは立ち止まると振り向きざまにあっけらかんとして応えた。


「ぇえ!? ど、どうするのよ? せっかく前向けそうなのに、あたし死ぬの? それは、すごぃ困る」


 改めて突きつけられた現実に、冷静さを取り戻したフィナは、その表情を青ざめさせて静かに首をふった。


「忙しい子やな? そうならへんようにうちが来たんどす、あんたの中に眠っとる精霊の力を呼び覚まして新しい核にするんどす」


 言いながら再び歩き始めたレヴィアについて歩くフィナは、どこか不安げにレヴィアの横顔を見ながら問いかける。


「それって、あいつの言っていた、お父さんの力?」


「そうどすな、この辺りやろか、ほんならいきますえ? てい」


 特に気にする様子もなくあっさりと応えたレヴィアは、ほどなくして立ち止まると、何かを探るように瞳を閉じ、ふっと目を見開くと同時に足を踏み鳴らした。

 すると、水面のような足場に大きくヒビが入り、そのヒビは空間全体に広がるとガラスが砕け散るように透明な世界が崩れ去った。同時に、赤く燃え滾る炎があたり一面に広がり、真下から現れた炎の渦がフィナとレヴィアを呑み込んだ。


「何これ?! 熱い、身体が燃えそう」


 肌を焼く熱気にフィナは焦燥をあらわにし、次の瞬間二人の目の前に突如、人の形をした影が揺らめいた。


『我はイフリート、我の力を求め我を呼ぶならば、汝の器を示せ、新たなる契約者よ』


 燃え盛る炎が人の形を成し、雄々しく猛々しい顔立ちで、その肌は黒く、瞳は紅蓮の光を灯している。全身に炎の衣を纏った姿を見て、魔神という言葉がフィナの頭には無意識に浮かんでいた。


「あたしの器? でも、どうやって」


 フィナは、炎の精霊イフリートの圧力と熱気に後退りそうな自分の心を奮い立たせ、必死に向き合って頭を巡らせる。しかし、そんなフィナを遮るように涼しい顔をしたレヴィアが、なぜか苛立たしい表情でイフリートを睨みつけて言った。


「ああ、もうそんなんえぇから、はよフィナはんの核になりよし」


 気怠そうに手の甲をひらひらとイフリートへと向けるレヴィアを、フィナは目を丸くして冷や汗を流しながら見つめ、恐る恐るイフリートへと視線を向けた。


『ん? 我の前になぜ契約者以外の……ぇ、れゔぃあ様!? な、な、な、なぜあなた様のような御方が、ここに、と言うかなぜ、我の前に!?』


 レヴィアの存在に気がついたイフリートは、威厳ある態度を一変させ激しく動揺をあらわにし、声を裏返しながら慌てふためいた。そのやりとりにフィナは思わず顎を落として二人を見つめる。


「もうええって、時間がないんどす? はよしなはれ」


 苛立ちはやし立てるように言葉を投げ捨てる、しかし、ここは引けぬとばかりにレヴィアへ食い下がろうとするイフリート。


『し、しかしですな?! 我にも色々とその、事情が』


「はよぉ」


『はい、委細承知であります!』


 ひどく従順であった。見た目的な印象や先ほどまでの圧力も威厳も嘘のように掌を返して腰を低くするイフリートを見て、いたたまれない気持ちになったフィナはレヴィアへと声をかける。


「ぇぇ、と……レヴィア? なんか精霊さんが、すごぃかわいそうじゃないかな? 大丈夫だよあたし? 試練受けるよ?」


 恐る恐る提案するフィナであったが、まるで聞く耳を待たぬとばかりにイフリートをじっとりと見据えているレヴィア、そんなやりとりを目の当たりにしたイフリートは目を見開いてフィナへ向き直った。


『おお、汝、レヴィア様に向かい呼び捨てとはっ!? 汝の力認めよう!』


「ファっ!?」


 どことなくレヴィアから距離をとりつつ凄まじい圧力で迫るイフリートに、尻尾の毛を逆立てて困惑するフィナ。そして、威厳を取り戻したイフリートはフィナへ向かい偉そうに語り始めた。


 『このイフリートが汝の新たな力となり、その野望を照らす炎となって—————』


「はよぉ」


 更に苛立ちを深めた声色で低く言葉を発したレヴィアに、イフリートは再び小さくなって応えた。


『はい、すいません、では、早速————ぁ、新たな契約者よ』


「ぇ、は、はい」


 振り返るたびになんとか威厳を保とうと必死のイフリートへ、いたたまれない感情を抱きながら苦笑いを浮かべるフィナであったが、真剣な表情になったイフリートを見て、同じく真剣な面持ちで向き合った。


『汝の父より伝言を預かっている』


「ぇ? お父さんからあたしに?」


『さよう、前契約者ルーベルト・フィアンマの今際の言葉だ。“この力を託す、君が大人になる姿を見届けられずとても残念に思う、でも、この力と共に君のそばで君を守れるよう私はこの力の中に共に生き続けよう、愛すべきフィナ、願わくばこの力が必要とされない世であることを”』


 心にポッカリと開いていた空洞に暖かいものが注がれていくような感覚をフィナは感じていた。


「お父さん……あたし、顔も全然覚えてなくて、でも、ちゃんとあたしのこと」


 感極まって俯くフィナへとレヴィアが優しげに声をかけてくる。


「本来、爪牙と人間の間に子を成すのは難しいんどす、奇跡、言うても過言やあらしまへん、今の世ならなおのこと。せやからフィナはんは、人間と爪牙の架け橋に、もしくは、そう言う願いのもとこの世に性を受けたんかもしれへんな」


 フィナは力強く拳を握りしめ、レヴィアへと向き合い頷いた。そして、イフリートを見据える。


「お父さんの想い、そしてあなたの力……全部、あたしが受け継ぐ」


『委細承知した』

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