参拾陸

 

 光はなく、匂いも、音もない。自分がどこに立っているのか、先もなく、後ろも、上下もわからない。


 並の神経であれば半狂乱になってしまいそうな空間。そもそも、そうして精神を崩壊させるための魔法なのかもしれない。だが、レティシアは、そんな、気が狂いそうな場所にいてもどこか落ち着いた感情でいた。


 ここを知っている、この感じはいつも味わっている、そうレティシアは思う。


「ここは、私の心……」


「多分、不正解かしら?」


 何もない暗闇、そこへ響いたのは、どこか妖艶な雰囲気を感じさせる少女の声。同時に無数の鋭利な赤い先端が暗闇からレティシアを目掛け襲い掛かる。


「————」


 レティシアは、自分の周囲の空間を操作して飛来した鮮血の針を何事もなかったかのように消しさった。


「なるほど、持久戦ですか。確かにこの力は多くの魔力を消費する、かといって気を抜けば串刺し……あの部屋での言葉を訂正しましょう、あなたは手強い」


 自分以外の存在を認識できない暗闇の中で、しかし、真っ直ぐに視線を向けたままレティシアは応えた。


「そう、別に嬉しくないわね? ロゼはあなたに勝ったところでメリットはないもの、それより戦うのも飽きちゃったし、どうせ耐久戦なのだからお互い無駄に攻撃するのはやめて、お話ししない?」


 レティシアの見つめる先、暗闇から薄らと笑みを浮かべたロゼが膝を組む形で宙に浮かんだままその姿を現した。


「いいのですか? 姿を見せて、そこはもう私の間合いですよ」


「あら、優しいのね? ロゼならそんなこと教える前に刺しているもの」


 微笑みを浮かべたまま首を傾げたロゼに、レティシアはどこか気を緩めた様子で肩を竦める。


「それを承知で姿を見せたあなたに、私は不意打ちなどしない……と、私は、自分の思いをあなたに見透かされているわけだ、いいでしょう。どちらかの魔力が限界を迎えれば勝負はつく、それまでの間————」

「随分と開放的になったわね? それとも、今が本当の姿なのかしら?」


 じっとレティシアの様子を、笑みを崩さないまま伺っていたロゼが確信をついたように発したその言葉にレティシアは、一瞬目を開いたが、静かに俯きこぼす。


「————本当の私、ですか、そんなもの、とっくに死んでいます」


「ふぅん、別にロゼはどっちでもいいのだけれど、一つ教えてくれない? 私たちを縛っていた首輪とあなたの胸にある素敵な宝石、どう違うのかしら」


 特に興味を示すこともなくレティシアの言葉を聞き流したロゼは、単刀直入に揶揄しながら疑問をぶつけた。それを聞いてどこか自嘲するように笑みを浮かべたレティシアであったが、反論することなくロゼへと向き直る。


「今更隠す必要もありませんね、あなた達、そして城に囚われていた爪牙人達を縛っていたあの首輪は、心を縛り支配する。私のこれは、行動と言動……意思はそのままに、強制的に支配する魔石」


「意思はそのままに、ね、反吐が出るわね? あなたの主人には」


 その言葉にロゼは、ドリュファストという人間の悪辣あくらつさに辟易へきえきとした様子で応えた。


「————獅童どのに嵌められている魔石はその二つの特性を組み合わせた、新しい魔石。アレは、徐々に心と身体を内側から侵食し、最終的には魔石が宿主の意識と成り代わる。身も心も主人であるドリュファストへと、心から忠誠を誓う絶対の支配」


 レティシアの説明を聞くなりロゼの表情から笑みは完全に消え、鋭い眼光はここにはいない誰かを睨み付けているようであった。


「それで? あなたは、いつまで腑抜けているのかしら? 気が付いているのでしょう? もう、その魔石に力はない、言動を支配するならこうしてロゼの前で主人に反するような発言はできないものね」


「……私は、もう死んだ、だから」

「だから? 操られているフリをしながら混乱に乗じて刺し違えてでも憎い主人を殺す、って事かしら?」


 どこか呆れた様子のロゼは、鼻を鳴らして細めた瞳の端でレティシアを見据えた。


「そこまでお見通しですか、では話が早い————獅童どのは、まだ完全に操られているわけではありません、恐らくはあの方の“血”が魔石を拒んでいる、レヴィアどのの力があれば、まだどうにかなるでしょう」


 諦めたように表情を緩めたレティシアは、ロゼを信頼のこもった瞳で見つめ返した。


「私に戦いを挑んでくれたのがロゼどのでよかった」


 最後とばかりに微笑みを浮かべたレティシアにもう敵意はなかった。たった一人でも、心の内を話せる人がいた、それだけでレティシアの心は決意を固めるに十分な思いを得たのだ、これで思い残すことはなくなったと改めてレティシアは肩の力を抜いたと同時、ロゼは鋭い眼光をレティシアへと向けて言った。


「はっ、ばっかみたいね!! あなたのくだらない悲劇のヒロインごっこにロゼたちは死ぬ思いであんなバカみたいな訓練させられて、バカみたいにあなたを仲間だと信じてるバカな連中とあなたを連れ戻しにきたって言いたいの? バカなの? それともロゼたちがバカなのかしら?」


「ロゼ、どの? ————!?」


 突然弾けたように感情を爆発させたロゼに、一瞬動揺を誘われたレティシアは、次の瞬間におとずれた頬への衝撃に大きく目を見開いた。


「知らない、あなたの過去なんかどうでもいい、ロゼは興味もない。だけど、ご主人様に救われた分際で、自由を手にした分際で、過去に負け続けているあなたが、勝手に死んで、ご主人様の心に残り続けるなんてロゼは認めない、許さない——そんなに死にたいなら、今ここで、殺してあげる!!」


 気がつけば手の届く距離にいたロゼは、思い切りレティシアの頬を引っ叩くと、さらに感情を昂らせて声を張り上げて続けたロゼの言葉にレティシアはその瞳に大粒の涙を溜めて言った。


「私の生きる意味なんてもうない、ないの、両親を、友を、故郷を、女としての全てを、人としての尊厳を、踏みにじられ、屈辱にそめられた私が、これ以上どうやって、どうやって生きろと」


 よりどころのなかったその心は、悲鳴をあげるかのように、今まで誰にも打ち明けることのできなかった思いの丈をさらけ出したレティシアの言葉を聞いたロゼは、その肩を震わせながら口を開いた。


「だから知らないって言っているの! ただ、あなたは自由をご主人様に与えられた分際なの、そのご主人様が生きろって言っているのだから、生きるしかないの、惨めでも、苦しくても、しわがれて“老い”があなたを殺すまで、あなたは生きて笑うために戦うしかないの! 生きるための自由しかあなたには与えられていないかしら!」


 暴論だ、めちゃくちゃだと、レティシアは思った。優しさや思いやりなど何一つ感じられない彼女の言葉は、しかし、確実にレティシアの心を掴んで激しく揺さぶった。


「生きて、戦う。笑うために、戦う————」


 唖然と立ち竦むレティシアは、言葉が出なかった。思いはある、腹立たしさもある、だが、自分の感情にとことん真っ直ぐなロゼの言葉に、ただただ圧倒されるしかなかった。


「ふん、そんなクズのために死ぬ人生なんてロゼは真っ平かしら、なぜ自由になったのにそれを壊さないのか全然理解できないもの」


 ロゼは、片目を閉じてその胸元へと視線を向けた。面食らっていたレティシアは、苦い笑みを薄らと浮かべて俯きがちにこぼす。


「私もあなたみたいになれれば、もっと強く生きられたのでしょうか。この魔石は、私の心臓を媒介にして触手を伸ばすようにこの身体を支配しています。つまり、これが砕ければ私は死ぬ、今は力を失っていますが、いつ、もとに戻るか……私は、結局————っ!?」


 どこか震える声を、拳を握りしめて必死にごまかし語るレティシアは、俯いていた顔をあげてその視線をロゼへと向けた、瞬間。いつの間にか目の前にいたロゼ、その手に握られていた真っ赤な剣が魔石とレティシアの胸を貫いていた。


「あら、そう。ロゼはそういう妄想、信じないの————これであなたは死んだってことね?」


 ひび割れた魔石が粉々に砕けて散った、そして同時にレティシアの視界は暗闇に染まってゆく。


「……バカな人」


 小さな呟きが、漆黒の空間にポツリとこぼれ落ちた。






 ◇◆◇






 そこは見渡す限り一面の水に覆われた世界。陸の存在しない、空と水面の青が交差する果てのない世界。


「固有世界ですか、実に素晴らしいですね? はい。それに、海とは、まさにあなたを象徴しているではありませんか、はい。三界の王にして、この世の海を統べる者、海竜レヴィア様」


 何もない中空で平然と前に立つ白骨の仮面は、たかぶった感情を抑えるような声を発した。


「おおきに、ところでおたくはん誰どすか?」


 レヴィアは薄らと視線を細め、仮面へと応えた。


「これは失礼、私エンヴィルと申します、はい。お察しでしょうが、しがない魔族の端くれでございます。レヴィア様に心ばかりの敗北を一度だけプレゼントして差し上げたのですが、まあ、あの時はあなた様も十全とは言えない状況、フェアではありませんでしたからね、覚えていらっしゃらなくても無理はありません、はい」


 レヴィアの問いに名乗った仮面の魔族は、大仰に頭を下げて見せた。仮面の下に隠された表情は、その雰囲気から笑みを浮かべているように見える。


「そないなこと聞いとるんやあらへん、うちが聞きたいんは、比喩なしにあんた誰や? いうことどす、千年前の戦いにも、魔王の側近にもあんたみたいなんは、おらんかった。それに、あの時の事を知っとる者なら、あんたみたいな阿保な考え持ちまへん」 


「ふふふ、あはははは、そうです、そうですね、はい。あなたの仰る通りだ、私は誰か、私はその時の誰しもであり、また誰でもない、一言で申し上げるなら“レギオン”とだけ申しておきましょうか」


「要するに頭のイカれた魔族の生き残りいうことでよろしおすな? ほな、死によし」


 レヴィアは、言い捨てるなり掌をかざすと青白い光を纏い、凝縮された水の魔力を一気に魔族の頭へと目掛けて放った。


「おっと、もう始まりですか? 始めるのですね? はい、はい!! では始めましょう、どちらかの命が枯れ果てるまで、共に踊り明かしましょう!!」


 レヴィアの放った攻撃をするりと躱したエンヴィルは高揚を顕に声を張り上げながら、仮面の奥に光る瞳に狂気を宿す。


「うちにそんな趣味はあらしまへん、そないに踊りたいなら一人で死ぬまで踊ったらよろしおす」


 レヴィアは躊躇なく青白い閃光を放ち続け、それを躱し、打ち払い、同質量の魔力で相殺する。だが、そうしている間にレヴィアは自らの魔力で作り出した視界を埋め尽くすほどの白い霧を発生させて辺りを覆い尽くした。


「これで、しまいや」


 パチンと指を弾く音が鳴り響く、瞬間霧の中から魔族を取り囲むように現れたのは、蒼穹の長い髪をなびかせる海色の瞳をした無数の少女。


「————幻影、いや、実態ですか、はい。これは、素晴らしいっ、やはり、こうでなくては!! はい!」


 無数に出現したレヴィアは、一斉に掌をかざし、青白い魔力の光をそれぞれがほとばしらせる。


「——————」


 全方位からの集中砲火は、躱すことも防ぐことも叶わず魔族を容赦無く襲い、全身を貫き、その仮面を半分に砕いた。


「ここまで、とは、実にいいですねっ!? これほどに心躍るのは初めてですよっ、はい。もっと、もっと楽しみましょう」


 割れた仮面から晒された顔は、女性のような男性のような中世的であり、美しくもあり、だが、醜くもあった。肌はあざ黒く、赤と黒の血管が浮き立ち、見るものを恐怖させる様相でありながら、整った顔立ちに歪な魅力を感じさせる。そんな姿に目を細める無数のレヴィアのうちの一人は、スッとその場から姿を消したのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る