泡沫の夢まぼろしか、眩しい光に照らされその表情はおぼろげで、はっきりとしているのは暖かく優しい……包み込む様な声音。


『母さま、僕きっと父さまの様に強くなって母さまを守るからね!』


『ふふ、それは楽しみだわ————はお父様に似て優しいのね』


『それでね、いつかきっと父さまみたいな————』



 儚く、淡い記憶……ただ一つわかるのは、眩い光に包まれるその女性が母親かも知れないという事。


『——、愛しているわ……側にいてあげられなくてゴメンね』


『母さま! なんで?! 母さま……ぁ』


 霧のように、手を伸ばせば掻き消える記憶の波。立ち上る火の柱、その中心で倒れ伏す母と呼ばれる女性の姿、その姿を見ている視点の人物は誰かに抱きかかえられ強引にその場から引き離されて行く。


 それ以外の記憶はない、果たしてそれが本当に自分の記憶なのかどうかも疑わしい、子供の記憶とはその幼さ故に不都合な現実を捻じ曲げるものだ。それに、どちらが事実であったとしても、それは余りに遅すぎて感傷に浸るにはもう時が立ち過ぎているのだから。






 ◇◆◇






 嫌な匂いがした。湿気と鉄の混ざり合ったような、生ぬるく、むせそうな匂い。

 ふと意識を全身に巡らせれば、思うように身体が動かせない事に気がつく。手首を冷たく硬い感触が覆い、動かせばじゃらじゃらと鎖が擦れる音がする。両手首に嵌められた鉄の枷、それを鎖で天井から吊るしているのだ。

 獅童はダロスの見せた、水の魔法。その非現実的な光景に驚愕している所を背後から何者かに襲われ、気を失っている間に地下の牢獄へと繋がれていた。


「……っち、なんて日だ」


 吐き捨てるように独り言ち、自由のきかない手首を器用に動かしながら袖口をゴソゴソと触り始め、同時になぜ自分がこんな場所にいるのかを思い起こしていた。


「あの水は何だったんだ、ホログラムか? それに俺はどうやってここまで」


 歪む視界に、酷い悪酔いをしているような感覚。気がついたら見た事もない場所にいた、しかし、それ以前の記憶が判然としない。どこで、何をしていたのか。

 獅童自身、こういったトラブルが日常的なのは、十分に理解出来ていたし、それは彼にとって当たり前とも言うべき出来事ではあった。だが、今回は相手も状況も前例がない。今まで相手にしてきたのは、過激派の麻薬カルテルや、裏稼業の人間などが殆どであり、オカルト教団などの異常犯罪は獅童の専門外であった。


「銃もなし、スマホも財布もなしっ、絶望的だな」


 誰に語るでもなく、指先を器用に動かし、物静かな空間にかちゃかちゃと鉄の絡む音だけが響き渡る。

 周囲は頼りないランプの明かりだけが天井から吊るされているだけで、薄暗く、どこか気味の悪さが漂っており、獅童は少し広めの牢獄で壁に背中を当てる形で吊るされていた。


 それから、一先ずこれからどうするかを考えながらその意識は手元へと集中させ————


「ねぇ」

「ぁ? 今忙しんだから後にしろ」


 どこからともなく獅童を呼ぶ、かすれたような声。意識を集中させていた獅童は無意識に返答し。


「ねぇ!」

「だから、後に……」


 獅童はピタリと動きを止め、逡巡する。今自分に話かけているのは誰なのか。空耳でなければ、声は正面から聴こえたはずと、まだ完全に慣れてない薄暗さに目を凝らして真正面を見つめる。


「なによ? じろじろこっち見るな」


「お、おんな?!」


 獅童が目を凝らした先、ランプの明かりにぼんやりと映し出されたのは、獅童と同じく両手を鎖に繋がれたまま吊るされている少女の姿であった。

 歳の頃は、まだ十代であろう少女は小柄で華奢な身体つきで細身の腕に痛々しく嵌められた枷はその可愛らしい容姿とは完全に不釣り合いなもので。

 癖っ毛の目立つ頭髪は金に近い橙色で、後ろ髪を後頭部で纏めているリボンはやけに古く、擦り切れていて。獅童を見据えるその瞳は燃え盛る火のように真紅の輝きを放っていた。



「まさか、こんな所に女————それに」


「あんただって人間のくせに捕まってるじゃん」


 ぼろきれのようになった衣服は所々から、薄汚れてはいるが白く瑞々しい素肌が晒され。しかし、獅童を驚愕させたのはそれよりも。


「そ、その格好は……コスプレか?!」


「こ、コス? って! なんでいきなり鼻血出してんのよあんた?!」


 その少女には耳があった、しかし、それは獅童の知る耳ではなく、頭部から生え忙しなく動いているまるで猫の様な獣の耳。そして少女の腰には、尻尾が生えていた。金と黒が交互に折り重なった美しい尾。


 獅童の情報が、記憶が確かならば、目に映るそれは、紛れもなくコスプレであった。


「——こんな所で、なんて格好を!!」


「な、何よいきなり?!」


 少女は突然興奮した様子で叫び声をあげた人間の男へ、訝しむように、僅かに頬を赤く染めながら呟き。


「そ、その耳と尻尾だよ!! なんでこんな所で、そんな尊い格好を?! あぁ、これがコスプレ……まさかこんなところでお目にかかれるとは」


「耳と尻尾? それより、すごぃ鼻血出てるけど? 大丈夫なの?」


 ぼたぼたと吹き出す鮮血を止める術もなく垂れ流す獅童————彼は“女子”つまりは美少女に対しての免疫が一般の男性に比べ、限りなく低い、否、皆無だ。

 幼少期から厳格な父親の元、男手一つで育て上げられた獅童は、小、中学校時代は徹底した管理教育のもと、自由な時間は殆ど無く。高校で若者が甘酸っぱい青春に勤しんでいる時に、獅童は男子高で、勉学と、ただ一心に身体を鍛える事だけを磨かされ。同世代が優雅なキャンパスライフを謳歌している頃には——銃弾の飛び交う戦場にいた。


 故に彼は、剣崎獅童と言う男は“女子”ましてや美少女になど、触れる事なく現在まで生きてきた訳であり。その飢え乾きによって歪んでしまった女性観念は、もはや“女性”ではなく“美少女”でしか満たせなくなっていた。


 そして、彼にとっての美少女とは。


「コスプレ美少女……美少女の究極進化形態、その存在は“メイド”を遥かに凌駕すると言う。一般の人間には決して触れることのできない、究極の存在——それが、まさに今、目の前に」


「なんか、わからないけど……あんた気持ち悪い。肌がぶわってなった」


「——っく、美少女からの罵倒……なかなかに堪えるっ、しかし!! 俺にとっては寧ろ快感でしかない!!」

「きたなぃ!! 鼻血飛んできてるよ?!」


 狂喜乱舞する謎の男へ、関わってはいけない物に触れてしまったと後悔し始めた少女は、げんなりとため息を漏らし。


「そんなにあたしの耳と尻尾が珍しい? この鎖取ってくれたら触らせてやってもいいけど? って言ってもあたしと同じく捕まっているあんたには無理な話か」


 少女はどこか投げやりに獅童へと問いかけ、同じく囚われの身である男を揶揄するように鼻を鳴らす。


「なんだ? こんなカビくせぇ場所で囚人同士仲良く脱走の相談か?」


「————」


 唐突に現れた声の主は、牢獄の扉を開き、怪しげな道具を手にした二人組の兵士だった。


「さぁ、楽しい楽しい暴力の時間だぞ? クソガキ? 今度はテメェがぶっ壊れる番だ」


「……」



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