第5話 悲しい笑顔

今回は、ホテル街にほど近い駅での待ち合わせだった。

どんよりとした曇り空に雨がちらつく中、早めに駅についた僕は近くの喫茶店で時間をつぶしていた。

ホテル街に近い駅だからだろう、改札前には多くの男女がいかにも待ち合わせと言う風で屯っているのがガラス越しに目に入る。

「もうすぐつくよ。駅前だと悪目立ちするから、近くの薬局にしていいかな。」

時間ちょうどに掲示板に書き込みが入る。

はいはい大丈夫ですよ、柔軟に立ち回るのは得意です。

それにしてもしっかりした子だ。時間に遅れることがないのは、この界隈で素直にすごいと思う。


指定の薬局はそれほど混んではいなかったけれど、通路も狭く人を避けながら彼女を探すのに多少の時間がかかった。

あれ、どこにいる?店内を2周りしただろうか、あれだけ印象的な出会いをした彼女の顔を忘れたわけはないのにみつからない。杖もついているはずなのに。

ああ、あの眼鏡マスクか、ようやくみつけた。印象がだいぶ違う。やっぱり多少の変装は必要だもんね、見つけにくいはずだ。

杖を片手に持ち、棚の商品を手に取り見ている彼女は、改めて見てもどこにでもいる普通の女の子にしか見えない。

普通だよなあ、こんな子がなあ。

彼女の姿を見た瞬間、それまで黒いモヤモヤでいっぱいだった頭の中がぱぁっと晴れた気がした。初めて出会った瞬間を思い出し、嬉しい気持ちで心がいっぱいになる。

やっぱり可愛いよなあ。これから相手してくれるんだよなあ。

一秒にも満たない時間だったと思うが、色々な感情が僕の中で渦を巻いて挨拶を躊躇させていた。


「何見てるの?」

口をついたのは、ちょっとひねった第一声。

「あ、うんちょっとね。」

たった2週間ではあるけれど、改めて耳にする彼女の声はとても若々しくて魅力的で、僕の耳を心地良くくすぐった。

その手には、いかにも若い女性が使いそうな化粧品があった。

「これ、あんまり置いてないんだよね。すぐ売り切れちゃう。」

こんなちょっとしたものに悩む姿が可愛すぎる。これダメな奴だ、全部買ってあげたくなっちゃうやつだ。

「俺もなんか買うから一緒に買っちゃおう、選んじゃって。」

「え、いいの。」

「いいよ」

「じゃあ、これとこれ、いい?」

マスク越しでも嬉しそうな顔がわかる。こんなもの、その笑顔が見られるならいくつでも買ってしまうだろう。

「うん、じゃあ買っちゃうから外で待ってて。」

もちろん自分で買うものなんてない。レジが見えなければわからないから良し。

会計を済ませて外に出ると、杖を突いた彼女が出口近くに佇んでいた。


「お待たせ」

声をかけながらも痛々しいその姿に、こりゃ確かに悪目立ちするよなぁと感じる。本当にこのままホテルに行っていいんだろうか、という疑問が浮かばなかったわけでもないけれど、ずるい僕は自分にとって都合よく解釈することにした。

まあ本人が良いって言ってるんだからいいよね、何かと物入りだって言っていたし。

その時の僕は、ずいぶん嫌な大人だったんだろうと思う。

すべてが自分本位。尊大な見下し。欲望に満ちた率直な感情。もちろん最終的な行動が変わることはなかったと思うけれど、皆が後から思い出し悶絶すると言う、いわゆる黒歴史とはこういうものを指すのだろうか。


表に出ると雨はすでに上がっていた。

「大変だったね、足。」

「まあね、でも自分でやっちゃったことだし。お休みももらえたしね」

「そりゃそうだけど。」

杖を突いた女性とホテルに向かうのは人生で初めて、いや最初で最後の経験なんじゃなかろうか。

彼女に合わせてゆっくり歩くことくらいしか気遣う方法が思い浮かばなかった。

雨は上がったけど滑らないようにゆっくりと。

前回利用したコンビニは店内が狭かったため、今日はちょっとだけ離れた広めのコンビニに向かうことになった。

飲酒は大丈夫とのことで、お酒やつまみを買ってホテル街に向かう。

時間が早かったこともあるのだろう、今回はすんなりホテルも決まり、部屋に転がり込むことができた。


「はい、これ」

「やった。ありがとう。」

マスクをとった彼女に先ほど薬局で買った化粧品を渡すと、顔をほころばせながらその場でパッケージを空け始めた。

「これすぐ売り切れちゃうんだよね。」

「人気なんだ。」

「そうそう。」

陳腐な表現だけれど、彼女はまさに花が咲いたような笑顔を僕に向けて嬉しそうに笑ってくれた。

「それくらいでそんなに喜んでもらうとこっちも嬉しいね。」

「だってこう言う物買ってもらうなんてないもの。」

「え?嘘でしょ、小物とか結構買ってもらったりしないの?」

「しないよ、自分からも言わないし買ってもらったことない。」

意外な答えに、あまり良くない男としか会ってないのかな、いや僕が変なのかなと多少悩みつつも、他愛無い会話を交わしながら宴会の準備をしていく。

今回の部屋には気の利いた食器などは見当たらなかったので、簡単につまみの口を開けて広げていくだけだ。


準備を終えると、彼女から鋭い質問が飛んできた。

「会う間隔、短くない?」

「そうかな。」

笑いながらの問いかけに、軽く動揺しながらも、落ち着いて返答できた自分を褒めてあげたい気持ちだ。初めて出会ってから2週間。そりゃ短いよね、だって会うつもり、本当はなかったもの。

すでに心の中の黒い感情が霧散していた僕は、適当な相槌をうちながらその笑顔を見つめていた。

ほんと、なんでこうなった。

他愛ない会話と愛想笑い。2度目の酒宴はこうして始まった。


彼女の旅行先で起こったこと。僕の仕事のこと。お互いの周辺事情を話しながらも、確信を突く話題には決して触れないこの界隈独特の会話。

相手に距離感を感じさせない彼女自身の膨大な自分語り、自分からは質問しない特徴的なスタンス。多分彼女には、相手を煙に巻くつもりなどまったくないのだろうが、素直でありながら計算された、完成度の高いその会話術に僕は舌を巻く。

多くの男は彼女と別れた後に、手に入った多くの情報に笑みを浮かべ反芻するのだろう。自分の情報はまるで彼女に伝わっていないことなど気付かないままに。


この子はいったいどれだけの経験を積んでここまで来たのだろう。

明るく開放的な性格は天性のものだろうし、その会話もとても素直なものに感じる。

彼女にとっては大きなお世話なのだろうが、その話術の、年齢にそぐわぬ高い完成度の裏にあっただろう膨大な経験の数々に、僕は彼女の闇を感じた。

でも、それでも彼女を知っていくにつれ、僕は彼女に引き込まれていった。

これは沼だ、それも底なしの。

人の感情には、例えば子供のもたついた動きを愛おしく感じるようなプログラムが初めからインプットされていると言う。

では、僕のこの感情はなんだろう。

彼女が見せる、怒られた時の嬉しそうな笑顔。拗ねた時のしぐさ。あけっぴろげなボディランゲージ。そしてたまに零れ落ちる様に出てしまう泣きそうなせつない笑顔。

自覚はしていないだろう彼女の行動のすべてが愛おしさに変換されて、僕の心は叫びたくなるほどの愛情に満ち溢れていく。

僕は自分の心の形を見たことはないけれど、まるで彼女の存在が、足りないパーツとして自分の中に音をたてて嵌ったように思えた。


何事も2度目と言うのは微妙な雰囲気が付きまとう。

初めてではない、でもそれほど知り合っているわけでもない。お互いに手探りで、白い闇の中を進むようなイメージ。

会話も端々に微妙な空気感が漂いはじめる。

そしてここでも情けないことに、僕は彼女の一言に救われることになった。

「そろそろしよっか。」

頭をトンカチで殴られ、どす黒い感情に支配されていたはずの僕はどこに行ったのか。

「そうだね。」

精一杯の虚勢を張って答えた僕は、心の底で素直に負けを認めたのだった。


2度目のコミュニケーションは、直前の会話よりよほどスムーズだった。

自己評価にはなるが、満足のいく結果を残せたと思う。まあ、あくまで自己評価でしかないのだけれど。

すっかり気を良くした僕は前回の約束を思い出し、着替えながら彼女に個人的な連絡が取れるSNSのアドレス交換を申し出た。

「いいよ。」

あっさりと教えてくれると言う彼女に拍子抜けしたのが正直なところ。多少はごまかされるかとも思っていたのだ。

嬉しかった。前回に引き続き、自分が承認された気がした。

「でも、これ名前出ちゃうけど、いいの。」

彼女の気遣いに僕は間髪入れずに即答する。

「うん、いいよ。」

もう名前どころか全部持って行ってくれてかまいません。


こんなに幸せを感じる情報交換は初めて経験したと思う。

仕事とは関係ない、本当に2人の連絡先のみの交換。もちろん彼女にとっては連絡先交換専用のアカウントなんだろうけれど、こういった経験の少ない僕にとっては、余計なものが介在しない、とても純粋なものを受け取る気持だった。

「ちょっとまって、QRコード出すから。」

「これで読み込むのかな。」

「そうそう。」

気の抜けた音とともに、携帯電話の画面に彼女のアドレスが表示された。

「きたきた。」

「こっちもきた。」

舞い踊るほどの高揚感。これでつながった。細い糸のようなものだけれど、彼女との確かな絆がそこに存在していると僕は感じた。

純粋な喜びが体中を駆け巡った。


「ありがとう。」

今まで、これほど心のこもったお礼を言った記憶はない。

心の中のもう一人の僕は、大げさだなと声を上げたけれど、その時の僕はこの世に存在するあらゆるものに感謝を捧げる勢いで喜んでいた。

「あれ、そっちの名前でちゃってるよ、大丈夫これ?もしかして本当の名前なの?」

その手のアプリケーションに慣れていないので最初は気付かなかったが、画面には掲示板とは違う彼女の名前が表示されていたのだった。

「うん、本名だよ名前。」

「へぇ、いい名前だね。教えてくれてありがとう。」

その時の僕は、多分子供の用に無邪気な笑顔をしていたことだろう。

たった3文字の、でも僕にとって大切な宝物になったそれはとても輝いて見えて、大分長い間見つめていたと思う。


「やっぱり君は可愛いなあ、かばんに入れて持って帰りたくなる。」

「えー、なら持って帰ってよ…。」

その時は軽い気持ちの発言で、彼女のその答えも本気ではとらえてはいなかった。

数か月後に、僕はこのやりとりを死ぬほど後悔することになるのだけれど、この時の僕にはそこまでの気持ちもなかったし、神様も文句を言われても困ったことだろう。


駅の改札をくぐると、反対方向の電車に乗るため、先に僕がホームへの階段を上ることになった。

「今日もありがとう。」

周囲に目立たないように、彼女の耳に顔を近づけて小声で別れのお礼を言った。

「うん、こちらこそ。」

悲しそうなせつない笑顔が僕の心を打った。

ちょっと待って、そこでなんで悲しそうな顔をするんだ。やめてくれ、まるで僕をだましてそれを悪いと思っているような悲しい笑顔はしないでくれ。

心が鷲掴みにされる。息ができない。

つい先ほどまで深いコミュニケーションをとっていたはずなのに、わかりあっていたはずなのになんでそんな悲しい笑顔が出るんだ。

多少名残惜しそうな表情を残しながら前を向いてしまった彼女を、僕は黙って見送ることしかできなかった。


ホームに出ると、意識して彼女を探さないように視線を伏せる。

彼女を視線で追いかけるのはルール違反に思えた。別れたらそれまで。この界隈の暗黙のルールだと僕は勝手に決めていた。

でも悲しい、せつない笑顔が頭から離れない。

僕らの関係は割り切りだ。あんな悲しい顔をする理由が思い当たらない。癖なのだろうか。だとすればずいぶん心臓に悪い癖だ。

電車に乗り込みながら色々考えてみたものの、もちろん答えなんてでようもない。

自然と指が携帯電話のアプリケーションを立ち上げた。

先ほど教えてもらったアドレス宛に文字を打ち込んでいく。

「よろしくね。」

初めての、本当の意味で2人だけの会話。他には何も介在しない純粋な世界。

「お、やるつもりか?」

ユニークなキャラクターのセリフ付きスタンプが返される。

なるほど、これが若い子たちのやりとりなんだ。自分も若かったら色々使ってみるんだろうな。


その日はそれ以上の会話ができなかった。

打ち込んでは消して、消して。

今日のお礼は言ってしまったし、特に書き込む必要があることなんてなかった。

必要性で考えるのもおかしなもんだなとは思うけれど、あまり彼女に迷惑をかけたくはないし、アドレスを交換したその日に大量に打ち込むのはマナー違反と思えた。

また会うよなあ、それまで少しずつ会話に慣れていけばいいよね。

その時止まった大きめの駅で、電車に乗り込んできた人の波に流されながら僕は自分に言い訳をしていた。


初めてつながった、細い、とても細い絆。

それでも僕にとってそれは、天上から垂らされた救いの糸のように思えて、心の中でしっかりと握りしめた。

いつかあの悲しい、せつない笑顔の理由が知りたいな。

それと、本当に楽しそうな笑顔を自分が引き出せたらいいな。


心から願ったことは叶えられるものだ、と昔の偉い人は言ったらしい。

ここはその言葉に乗ってみるか。

目標と期待と。するべきことが決まったら後は行動のみ、自分の得意分野である。


その日、僕はそんな願いを胸に眠りに落ちたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ワリキリ @mitsuba99

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ