21ー2−1 楓 

お母さんへ

 探さないでください。


 数日前、朝起きると、蔦莉からの手紙が置いてあった。私は茫然とした。


 蔦莉が家出した。


 我が子が家出するのは、フィクションの世界だけだと思っていた。まさか、蔦莉がするなんて––––。

 仕事なんか、手に付かない。作家さんや編集長と話している時も、ずっと蔦莉の顔だけが頭に浮かんでいる。可愛い可愛い、蔦莉。

 旦那が亡くなってから、私は蔦莉にどうやら虐待していたようだ。お酒を飲んだあとの記憶は残っていないのが、蔦莉の体の痣がそれを物語っている。そのことに気付いた時、自分の行動に私はひどい目眩を覚えた。こんなに蔦莉のことを愛しているのに・・・。私は母親として失格だ。

  変わらないといけないことは分かっている。でも、何をどうすれば良いのか分からない。

 そんなことを考えている私は、私の担当である作家の新井 ゆう先生に

「倉井さん。倉井さん。」

と、呼ばれていることに気付いた。

「はい!」

私は勢いよく返事し、顔を上げた。すると、新井先生は顎に生えた髭を触りながら

「あの・・・倉井さん、なんかありましたか?今日は、なんかいつもと違いますよ。」

と、不思議そうに言った。

 さすが新井先生だ。私は新井先生がデビューして以来、8年間編集者として彼に付き添っている。だからか、私は新井先生を理解しているし、新井先生は私を理解してくれている。

「そうなんですよ・・・。新井先生、私どうすれば良いと思いますか?」

私は、そう聞いた。

「・・・僕は詳しいことを知りませんから、どうにも言いようがないですが、あなたが思っていることを素直に言葉にすると良いのではないでしょうか。」

「言葉に、する・・・。」

私は、そう言って新井先生の顔を見た。

「そうです。人ってね、言葉にしないと気持ちを通わすことができなんですよ。言葉を使わずに伝える生き物もいるのにね。逆に、話したい生き物もいるかも知れない。人間は、話せることが当たり前すぎて、話せない環境に置かれた時の不便さとか、会話する大切さを分かっていないと思うんです。せっかく話す能力を持っているなら、もっと話せば良い。話して話してお互いを丸くし合えば良い。僕はそう思うんです。」

そう言って新井先生は、深呼吸をした。

「イジメ・・・が起こるのはそのせいなんではないですかね。」

前々から思っていたことだが彼は、すごい。彼が綴る言葉は、繊細で、私たち読み手の心をクッと掴む。彼の言葉を聞いたり、呼んだりすると、自然と元気が湧いてくる。

 私はいつの間にか下がっていた頭を上げて、半ば叫ぶように

「新井先生!ありがとうございます!今から、会いに行きます!」

と言った。私のその声を聞いた新井先生は、

「元気になられたようで、よかったです。頑張ってください。」

と微笑んだ。私は、「ありがとうございます」と笑い、新井先生のお宅を後にした。

 編集長に電話をかけた。コール音が3回ほど鳴り、[はい。こちら泉。]と編集長の声が聞こえた。

「あっ、編集長ですか?お疲れ様です。今、新井先生のお宅にお邪魔させていただいていたのですが、急遽帰らないといけない用事ができたんで、帰らせていただきます。・・・はい。・・・あっ、はい。もう伝えました。・・・はい。失礼いたします。」

と私は言って、電話を切った。

 プーップーップーと鳴り響く電子音を聴きながら、私はため息をついた。夏の暑い空気が汗を促す。額を流れる汗を拭い、私は家路を急いだ。

「蔦莉、今までごめんね。お母さんは蔦莉のことが大好きだよ。」

と何度も何度も呟いた。彼女に伝えるための練習をしたのだ。


 私たちが住むマンションが見えてきた。私たちは、このマンションの1階に住んでいる。どきん、と高鳴る心臓を抑え、私は自動ドアを開けて、マンションの中に入っていった。警備員さんに「ただいま帰りました」と会釈をし、家を目指す。カツンカツンと、足音が響く。鞄の中に入っている鍵を取り出し、鍵穴に差し込んで回す。ガチャと鈍い音を立てて、それは開いた。丸いドアノブを回し、ドアを開けた。後ろから差し込む光が、薄暗い玄関に私のシルエットを作る。

「ただいま〜。」

私は細い声でそう言ったが、情けなく響くだけで、何の返事も無かった。仕方ないか、と私は思いドアノブから手を離した。その数秒後、ガッチャンとまた鈍い音を立てて閉まった。私は靴を脱ぎ、玄関に上がり電気をつけた。廊下を歩き、突き当たりである蔦莉の部屋のドアを開けた。案の定、蔦莉はまだ家出中だった。途方にくれた私は、とりあえず蔦莉の部屋に入ることにした。

 入ってすぐに見えたのは壁に貼られた元気一杯な『私ならどんなことだってできる!』の文字。いつこんな物を貼ったのだろう、と思いながら電気スイッチを押す。カチッという音ともに一気に明るくなり、手をかざした。時が経つにつれ、徐々に慣れてきた。私は手を下ろし、部屋の中を見回した。

 蔦莉の部屋に入ったのは、いつぶりだろうか。半年、1年・・・。いや、それ以上だった気がする。女の子らしい部屋・・・とは言えないが、私が買ってあげた覚えのないパソコンや、機材が置いてあった。何に使うのだろう、と思いながらそれに近づいていくと、古い記憶が蘇った。


*****


「今日も疲れた・・・」

そうだ、あれは確か蔦莉が中学に入学して間もない頃だったろうか。蔦莉はビールを飲んでいる私に、恐る恐る声をかけてきたっけ。

「あのね、お母さん。私、音楽活動したいの。」

私は、この日編集長と飲んでいて相当酔っていたはずだ。

「は?ふざけんじゃねぇよ」

酔っていたから、私は感情的な態度を取ってしまった。

 そこからはもう覚えていない。・・・はずが、記憶の中の私が口を開く。酷く醜い顔をしていた。

「お前、本気で言ってんのか?お前なんかがな、そんなことできるわけがないんだよ!」

えっ、これが私?記憶の中の私は手を振り上げる。守らなきゃ、と思った私は

「だめ!」

と叫ぶが、過去の私には届かない。

「いや!やめて!」

蔦莉がかすれる声で、そう叫んだ。心が、痛い。

  バチン

 蔦莉の顔は赤く膨れていた。


*****


 虐待している姿を見て、『あぁ。これが蔦莉から見た私なのか。そりゃ、家出するな』と思った。私は蔦莉の勉強机に近づき、

「ごめんね、蔦莉。頑張ったね。」

と机を撫でた。

 本棚を見ていると、蔦莉が付けた日記のようなノートがあった。まだ書き始めたばかりらしく、一番最書のページを開いてみた。書いたのは、結構最近のようだ。

『〇月○日。レコード会社にスカウトされた。CD販売できるかも。』

私は、

「ん?」

と呟き、瞬きした。

「レコード会社に、スカウト?」

意味がわからなかった。スカウトという言葉自体、私は仕事柄近しいが、音楽に関しては夢の夢だと思っていた。それなのに、蔦莉がスカウトされた。そのことが、嬉しくて仕方なかった。

「蔦莉、よく頑張ったね。」

と私はまた呟いた。次のページをめくると、

『〇月○日。蔦くんと曲を作る予定を立てた。どんな歌を作ろうかな。』

と書いてあった。

「蔦くん?」

私は不思議に思ったが、一緒に活動している子か、と思い次のページを見た。

『〇月○日。マネージャーさんが決まった。奈々さんだった。本当にびっくりした。でも、どこかほっとしている。

奈々さんの仕事用の電話→〇〇○ー〇〇○ー〇〇○』

奈々さん・・・。誰だ?文脈からは、前から関わりがあったようだ。可愛い名前だな、と私は思った。私のイメージは、声はコロコロした感じで、元気溌剌な喋り方をする女の子だ。

 本当に私は、自分の娘のことでさえ、分かってあげられていないんだな。

「ダメな母親だな。」

私はそう呟いた。マネージャーさんに聞けば、私が知らない蔦莉の姿を教えてくれるのだろうか。・・・マネージャーさんに聞けば蔦莉の家出先も分かるのかな・・・・。

「って、その手があったか!」

 私はそう叫んで、急いで電話を手にとった。マネージャーさんの電話番号を押す。ピッピッピと機械音が鳴るとともに、どんどん番号が入力されていく。ドクドクと暴れる心臓を抑えながら、発信ボタンを押した。

 プルルルルプルルルルと聴き慣れた電子音が鳴る。

[はい、もしもし。上川です。]

想像していた声よりも低い声がスピーカーから流れた。

「もしもし、上川様でしょうか。私、倉井蔦莉の母です。」

[・・・蔦莉さんのお母さまですか?]

上川さんは驚いたようにそう言った。

「はい。」

私がそう答えると、彼女は

[お話ししたいことがあるのですが、このあとお時間いただいてもよろしいでしょうか。]

と早口で言った。

「はい。どちらに伺えば?」

と私が聞くと、

[霞私立病院の向いにあるカフェに来てください。]

と急かすように言った。

「はい。失礼します。」

そう言って、私は電話を切った。病院の近くに呼び出すということは、蔦莉が病気にかかったということだろうか。

「急がないと。」

と私は呟き、また外に出た。つい先ほどまではは綺麗な青空だったのに、西の空に積乱雲が見えた。





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