3−2 蔦

 ドアが開いて、倉井 蔦莉が入ってきた。もう、入学から1週間。いい加減、友達を作ろうとする努力をしないと、大変なことになってしまう。いや、孤独は馴れっこだ。でも、もう、あんな生活はこりごりだ。

 大丈夫。大丈夫。おはようって、言うだけだ。たった一言なのに、緊張してしまう僕は、やはり、あがり症だ。おぉ、もう倉井さんが来てしまう。いつ立ち上がれば良いんだ。自分の中の自分に問いかける。倉井さんが椅子に座った。

「よしっ。」

そう呟いて、僕は立ち上がった。そして、

「おはよう、倉井さん。」

と、話しかける。

「・・・おはよう。」

表情が、あからさまに固まっている。やはり、失敗だったのか。いや。こんなところで、諦めるもんか。

「この学校、すごく、いっぱいクラブありますよね。」

「そうだね。」

薄っぺらな返事が返ってくる。

「僕、帰宅部なんです。習い事の事情で。」

「へぇ。」

「・・・・・・・・・。」

「・・・・・・・・・・・・・・。」

だめだ。なんか話さないと。えっとなんか、ほら。焦れば焦るほど、話しかけるものが見つからない。それを、見つけた時には、数分経っていた。

「倉井さんは、何入るんですか。」

「えっ。ごめん。聞いてなかった。もう一回言ってくれる?」

やっぱり、僕、声小さかったかな。いや、話しかけない方が、良かったのかな。僕なんかに話しかけられて、鬱陶しかったかな。うわぁ、失敗した。そんな、ことを考えている僕を見ている蔦莉は、首を傾げている。

「えっと、クラブ。何入るんですか。声小さかったですよね。ごめん、なさい。」

そう言う僕の声はどんどん小さくなっていく。一旦、声が出なくなると、自分の声を制御できなきなる。そんな自分が嫌いだ。

「あぁ、大丈夫、大丈夫。ちゃんと、聞こえたよ。私はね、帰宅部。お母さんが、夜遅くまで仕事してるから、私が、家事しないといけないんだ。」

「そうですか。大変ですね。実はね、僕も、帰宅部なんですよ。偶然ですね。まあ、同じ部同士、仲良くしましょう。倉井さん。」

「うん、そうだね。よろしくお願いします。あっ、あと、敬語なし。それと、倉井さんは他人行儀っぽいから、蔦莉って呼んで。私も、蔦って呼ぶから。分かった?」

「・・・うん。分かりまし、じゃない。分かった。よろしくね、蔦莉。」

「よし、これで、やっと友達だね。」

 この蔦莉の『トモダチ』という言葉が心の中で木霊する。友達か。僕は、何年友達と言える関係を失ってきたのだろう。いつもいつも、気が付けば、省かれたり、虐められていたり。

 僕は、あるとき、『どうして、省かれたり、虐められたりするのか』ということを考えに考え抜いた。その答えが、分かった時には、人間とは、こんなものだったのかという、失望感に酷い目眩を覚えた。

––––紀元前一世紀頃、ローマ文化が生まれる。そのなかの一つであるコロッセオは、奴隷の人々を一対一で死ぬまで闘わせる。他の人々は、その試合を観戦して、日々のストレスを発散するのであった。––––

 この話は、虐めに似ていると思う。具体的に書くと、僕たち虐められる側は奴隷、虐める側は観戦する人に当てはまるのではないかという意見だ。つまり、立場が弱い人々を理由もなしに、その場の虐めなければいけないという雰囲気で虐め、ストレスを発散しているのではないか、という考えである。この意見は、まだ誰にも言ってない。自信がないのだ。もし、誰かに否定され、また、虐められたとすると、もう耐えられない。中学校生活を、思いっきり堪能するために、この学校にきたのだから。贅沢は言わない。普通でいいのだ。せめて、普通の生活を送りたい。


「蔦くん、普通の生活を送りたい、って言うけど、普通って、何なの?」

家に帰ると、家庭教師の奈々先生が聞いてきた。

「そりゃぁ、みんなが過ごしているような、虐めのない幸せな生活ですよ。」

「じゃあ、蔦くんは、虐めがなければ、はっきり、幸せだって言えるの。」

「だから、そこに、『みんなが過ごしているような』って付くじゃないですか。」

「蔦くん、みんな、一人ひとりが感じる幸せは、それぞれ、違うのじゃないかな。つまり、普通の人は、存在しなくて、仮に、存在したとしても、その人は幸せとは、限らないのじゃないかな。」

 ややこしい。でも、なんとなく分かる。紐は解けかかっている。あともう少しだけで全てが解ける。このもどかしい気持ちが、心を支配する。いつか、こういう形而上学的なことを、明確に理解したい。そしてみんなに、「世界を観なよ。普通はないんだよ」って伝えてあげたい。僕はそう思った。

「勉強、始めようか。蔦くん。」

奈々先生が、呟いた。

「はい。」


 ひと段落したところで先生に話しかける。

「先生、来週の月曜、学力考査なんですが、どうしましょう。」

奈々先生の顔が明らかに固まる。

「えっ、まさか、蔦くん、何も勉強してないの?」

「学力って付くから、勉強しないで良いかと思いまして。」

「何言ってるの?事前に勉強してついた学力も、自分の学力になるでしょ!今日は土曜日だから、ちょっと延長してもいいわね。ほら、試験範囲は?」

奈々先生が、勝手に延長を決める。

「国数だけで、小学校の全範囲です。」

「あら、じゃあ、見直しするだけでいいわね。えぇっと・・・・・・。じゃあ、これ、やって。」

そう言って、奈々先生は即席の問題を渡してきた。どれも、僕が苦手とする問題だ。さすが、奈々先生。しかし、「げっ」という言葉が、無意識のうちに出てしまった。脳は嫌がっているようだ。

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