老人の回想 中学一年生 春
1 蔦莉
時々、自分が見ていたものは、全て偽りだったのではないかと思う時がある。綺麗な空も、優しかった母も、仲良かった友達との思い出も、全て私が作り出した偽りの姿にすぎなかったのだと。
「もうやめて!ねえお母さん!」
マンションの狭い浴室の中に、甲高い私の悲鳴が響いた。
「お前なんか産むんじゃなかった!」
もう慣れている。母に暴力を振るわれることや、水をかけられること。私の体は痣だらけだ。
初めて暴力を振るわれた時は、「痛い」と思った。でも、いつしか、母のその行動が、私の日常と化したのだ。
あぁあ。また痣増えたじゃない。明日、入学式なのに。
私は、この世にとって、この家族にとって、必要なのか。私の必要性を考え、一時期、自殺を図ったりもした。でも、やはり刃物やロープを見ると、『あぁ私は死ぬのか。痛いのかな』とか思い、やめてしまうのであった。
母が私に暴力を振るい始めたのは、2年前。父が交通事故に遭い死亡。そして私は、私立小学校から公立小学校に転校した。幸せだった生活の、歯車が狂いはじめたのは、これがきっかけだと言えるだろう。母は、お通夜やお葬式の手配で、忙しく駆け回り、泣く暇もなかった。
それからというもの、母は、酒を飲んでは私のことを、殴り、蹴った。酒を飲んでる時の母は、日中のテキパキと動く母とは、似ても似つかない、冷酷な怪物のようだ。母が酒を飲む時、必ず私は、部屋にこもる。それでも、母はドアを開け、私を引きずり暴力を振るう。当初は恐怖を感じた。けれども、私みたいな雑魚が受ける適当な扱いだと、最近は、そう考えるようになった。そう思うようになったのは、毎回、母に『お前なんか産むんじゃなかった』と言われるからかもしれない。
でも、いつか前のお母さんに戻ってくれるかもしれないと、期待していた。
あんな、母親になりたくない。いつもいつも、そう思っている。母に対抗する気はないが、できれば、この日常から一刻も早く脱け出し自由に生活したいと思う。
少し、傷が痛む。けれども、初めて着る制服を見て、痛さ以上の期待が、心を熱くさせた。
3ヶ月前。
私は、中学校生活を私立で過ごすために今まで勉強してきた。
「いいか、お前ら。中学受験は、人生の通過点だ。人生の分かれ道でもあるが、落ちたからって、人生が終わることは無いんだ。とにかく気楽に、いつも通りのお前らで、受けるんだ。緊張しても、良いことなんて1つもないぞ。分かったな。」
塾の佐藤先生に、受験1日前に言われた言葉。母からの、応援コメントはなかった。だが、この先生の言葉に随分と気持ちを軽くさせられた。私は、「ある進学校を第一志望にし、それ以外の学校は受けるな。その学校に受からなかったら、かつ、特待生になれなかったら公立に行け」と母から強く言い聞かされていた。そのため、この受験に身を入れていた。受験日が近付くたびに、プレシャーが何倍にもかかり心が重く、暗くなっていった。でも、佐藤先生の例の一言で私の視界が眩しいほどキラキラと輝いた。
受験日、佐藤先生の一言のお陰か、あがり症の私が落ち着いて試験終了を迎えることができた。試験問題は簡単で、特に手こずらなかった。
結果発表の日。私は、自信を持って、学校までの道を歩いた。その道中、結果を見終わった人たちとすれ違った。楽しそうな人もいれば、「この世の終わりだ」という顔をしている人もいる。面白い。
校舎の前の黒板に、受験番号が張り出されている。私の受験番号は、133778。第一志望コースは、特進コース。そこを目でなぞると・・・あった。見つけた。その瞬間に飛び上がった。この数年間積み上げてきたことは無駄にならなかった。そのことに、ほっとした。
気付いたら、涙が溢れていた。眼鏡をとり、涙を拭った。でも、いくら拭っても、目の奥から次から次へと熱い水滴が落ちてくる。鼻の奥がツーンとなった。
合格証を取りに行くと、先生から声をかけられた。
「
「はい。」と頷くと、
「少しよろしいでしょうか。お話があります。」
と、校舎内に案内された。何だろう。私、不正行為でもしたのかな。
案内された場所は応接室だった。そこに入ると、校長先生や教頭先生がおられた。緊張で、引っ込んだ涙は、頰に筋を残している。校長先生が口を開く。
「合格おめでとうございます。」
「ありがとうございます。」
私は、反射的にそう言った。
「我が校に、特待生制度があるのをご存知ですか。」
「はい。勿論、存じております。」
当たり前だ。私は、特待生として入学するために受けたのだから。
「その事についてなのですが、貴女は、本校においてそれに適切な方だと判断しましたので、これをお渡しします。」
そう言って、[特待生証]と書かれた、紙を渡された。
まさか、本当に特待生になれるとは––––。私なんかがもらっていいの?恐る恐る受け取ると、校長先生が、クスリと微笑まれた。頑固そうなお顔だが、性格はそうでなさそうだ。よかった。私の物だ。これからの学校生活に少し期待が膨らんだ。
応接室から出る時、一人の男の子とすれ違った。私が、振り返った時には、その子は、もう、応接室に入った後だった。でも、仄かに鼻をくすぐる深い森の匂いがそこに残っていた。
その夜は、達成感と安堵と幸福感が混ざった不思議な気持ちで泣き続け、気付けば朝になっていた。
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