再びラスプーチン

増田朋美

再びラスプーチン

再びラスプーチン

今日はどんよりとして、雨が降っていた。もう雨というより冷たい氷が降ってくる様な天気で、みんな嫌そうな顔をしていた。そうなると同時に湿気も多くなる。と、いうことは水穂にはすごく嫌な天気という事だ。

毎日、疲れた顔をして製鉄所の四畳半で寝ていて、由紀子が、食事させたり、着替えをしたり、憚りの世話をしていた。由紀子さんには申し訳ないけど、嫌がることなく率先してやってくれて、ありがたい存在だった。時々主治医の沖田先生がやってきて、いろんな薬を置いて行ってくれた。時折、療術家の天童先生もやってきて、体の苦痛を和らげてくれるのを手伝ってくれることもあった。みんなそうやってくれるのに、何も不満はいわないので、申し訳ないと言うと、いいのよ、大丈夫だから、とにこやかに笑っているのが、何だか痛々しい所であった。

今日も、由紀子と一緒に、ご飯を食べていた。すると、突然玄関の戸を叩く音がする。ご飯を食べさせていた由紀子が、

「あら、宅急便でも来たのかしら?ちょっと待ってて。」

と言って、玄関先へ向かった。

由紀子が、長い廊下を歩いて玄関先へ行くと、がらがらがらと玄関の戸が開いて、なんだか堂々とした感じの女性が、そこに立っていた。さほど背が高いわけではないのだが、その堂々とした雰囲気は、背が高い人のように見えてしまうのであった。いったい誰だろう?この人は。考えると、どこかで見たことのある顔である。でも、どこか、ちょっと違うような気もするのだが、、、。

「すみません、こちらに、磯野水穂さんっていらっしゃいますよね?」

と、その人は言った。

なんだか堂々とした態度というより、威圧的で押し付けているような言い方だった。

「ええ、いますけど。どうしたんですか?」

由紀子がそう聞くと彼女は続けて言う。

「ちょっと、彼に対して用事があるんですけど、いいかしら?」

「は、はあ。それはまた何の?」

そう聞き返す由紀子に、そんなことはどうでもいいではないかという顔をして、

「あなたには言わなくていいわ。本人に話させてもらえないかしら。」

という。その言い方が何とも、嫌な感じで由紀子は、

「あの、どういうことでしょうか。水穂さんは余程の用事がなければ、立たせることはできませんよ。」

と言い返すと、その人は、ちょっと態度を変えて、

「由紀子さん、私のことを覚えてないかしら?」

と、被っていた帽子を取った。そうすると、由紀子もすぐにわかった。かつて水穂さんの所にやってきて、水穂さんをひっかきまわしていった、あの女医。小杉道子だ。

「何ですか。小杉さん。あなたに来てもらう筋合いはないわよ。」

由紀子がいきり立ってそういうと、

「そんなことはないわよ。今日はとても嬉しいんじゃないかと思われる話を、持って来てあげたのよ。」

道子も由紀子に対抗するように言った。

「何よ。嬉しい話なんて。貴方、あたしたちの事を又何かしに来たんでしょ。そういうことなら、お断りよ。」

「違うわよ、今度は悪いようにはしないわ。とにかく中へ入らせて頂戴な。水穂さんに会わせて、それでいいでしょ。」

由紀子がまたいうと、道子も半ば強引に中へ入ろうとした。

「とにかくって何よ。そんなに嬉しい話なら、誰に話しても嬉しいと言えるはずよね。そんなにうまい話を持ってきたの?」

「ええ、そうしなきゃ、こんなところまで私が来たりしないわよ。」

「だったら、先にあたしに話してからにしてくれる?そういう事なら、他人に話したって構わないでしょう。まず初めにあたしに言って、それから水穂さんに話すようにしてもらえないかしら?」

製鉄所に入ろうとする道子に、由紀子は両手を広げて立ちふさがる仕草をし、対抗するようにそういった。

「そうね。その通りかもしれない。確かに、誰かに言っても構わないかもしれないわ。それを知らせに来たんだから、」

と、道子も納得するように言って、

「じゃあいうわ。水穂さんの病気が治るかもしれないの。それを知らせに来たのよ。」

由紀子の広げた手が一瞬緩んだ。しかし、再びそのこぶしが握られる。

「そんな事ありえないわ!あなたたちは偉い人だから、あたしたちの事なんて考えはしないのよ。ただ、自分の名誉とか出世とか、そういう事しか考えてないのよ!」

由紀子は強く言った。だって、この間沖田先生が来て、もうての施しようがないと言ったばかりだ。其れじゃあ、治るなんてうまい話はないはずだ。だからもう、ほとんど諦めていた所だったのである。

「いいえ、あり得る話なのよ、由紀子さん。水穂さんだけではなく、ほかの患者さんにも言って聞かせているんだけどね。新しい薬の開発を研究しているの。その実験台になってもらいたいのよ。」

「実験台!」

道子が甘ったるい顔をしてそういうと、由紀子はおもわず素っ頓狂に言った。

「そうよ。あたしたちが開発している薬のね。動物実験は成功したんだけど、人体実験を目前にして行き詰まったのよ。」

道子はさらりと言った。またそんなことか。どうして大事な人を、偉い人は簡単に実験台にしてしまうんだろうか。失望と怒りの気持ちが重なって、由紀子はなにも言えなかった。

「だから、そのターゲットとして、水穂さんが選ばれたのよ。正確に言えば、混合結合病の、新薬実験。ほかの患者さんでも立候補者を探しているけど、なかなかいないから、身近にいる人でどうかなって。ちょうどいい人が、直ぐ近くにいて良かったわ。お願いしてもいいかしら?」

さらりと言う道子に由紀子は怒りの声をあげた。

「そんな事させるもんですか!そんな危ないこと、あたしはさせたくないわ。この間のような酷いことになるんだったら、あたしがそんな事させない!」

「由紀子さん、考え過ぎよ。今回の実験は、もう十分動物実験も繰り返して、ちゃんと薬の安全性は確かめたの。副作用だって、さほど重大じゃないって、確認もできているわ。」

道子はなだめるようにいうが、由紀子はさらに怒鳴った。

「動物と人間は違うわ!動物何て白ネズミで試した程度の事でしょう。それも、人間がロボットみたいにさせた、そんなネズミと、水穂さんは一緒にしたりなんかしないで!」

「由紀子さん。これはしっかり、水穂さん以外の患者さんにだって試すのよ。水穂さんだけの実験じゃないのよ。」

二人の女はそう言い合ったが、いつまでも女二人では決着が着かなかった。水穂さんのことを、二人とも思っているのは確かなのだが、その気持ちが空回りして、くっつかないのであった。

「帰ってよ!」

由紀子はかつて、彼女に対して、杉ちゃんが似ていると言っていた、歴史上の有名な人物を思い出しながら言った。ただ、その悪人の名を思い出すことができなくて、口にすることはできなかったが、出来たらしてみたいものだった。確か、ロシア帝国の重病の皇太子を治療したことによって、皇后からものすごい寵愛をされるようになって、ロシア帝国の崩壊の第一歩を作った人物。

「もう帰って!あんたなんかに、水穂さんを任せられるはずはないわよ!」

「帰るわ。水穂さんに会う前に、あなたを何とかするほうが先決見たいね。」

道子はさらりと言った。

「あたしは正気よ!何もないわ!」

由紀子はそう怒鳴りつけたが。

「話しても無駄ね。」

道子は踵を返して、製鉄所を後にした。


これは自分だけの問題ではないなと思って、由紀子は急いで軽自動車を走らせて、焼き肉屋ジンギスカアンに向かった。こういう悪質な人間がやってきたら、だれか偉い人に相談したほうがいいと思ったのだ。店の中に入ると、杉ちゃんがいて、焼肉を食べながら、チャガタイとしゃべっていた。

「あら、由紀子さんどうしたの?そんなうかない顔して。」

来訪に気が付いたチャガタイが聞くと、由紀子は何とかして、先ほど製鉄所にやってきた、憎たらしき客のことを話した。

「なんだ、グレゴリー・ラスプーチンがまた来たのね!」

杉三にそういわれて、由紀子はやっとその人物の名前を思い出すことができた。そう、グレゴリー・ラスプーチン。先ほど述べた通り、ロシアの名物悪人である。

「そうなのよ。どうしよう!水穂さんがまた悪くなってしまうかもしれないわ!」

チャガタイはうーんと腕を組んだ。確かにそういう悪質な人物もこの世の中には少なからずいるだろう。

「ちょっと、俺では対策をどう取ったらいいのかわからないので、兄ちゃんが帰ってくるまでここで待っててくれ。」

「ありがとう。チャガタイさん。」

由紀子はチャガタイのいう通りにするのが一番だと思った。

五分ほどして、只今戻りましたという声がして、ジョチの帰ってきたことが分かった。

「兄ちゃん、ちょっと来てくれ。なんだか大変なことがまた起こるようなので。」

チャガタイが、店舗部分に入ってきたジョチに、もう一度由紀子が話したことを話すと、

「そうですか。」

ジョチも、ちょっと考え込んでしまった。

「まあ、病院ではそういうことがないので安全と言えますが、どうしても地域で介護すると、そうやって弱いところに付け込もうという人もいるんですよね。」

「そうなんだよ。水穂さんはいい迷惑だ。」

二人はそんなことを言って顔を見合わせた。

「全くですね。ちなみに、新薬の実験台は、僕も何回かやらされましたけど、いずれも失敗していますからね。」

「そうか。ジョチさんも、そういうことに出たことあったんだ。」

杉三がその話に口を挟んだ。

「ええ、ありましたよ。まあ、僕というより、僕の母のほうが熱心でしたね。母が積極的に応募させてました。僕が、もう嫌だと言ったことがありましたが、死にたいのかとか言って、怒られましたよ。そういうわけで渋々治験に参加していましたが、そんなの果たして何の役に立つのかって感じでした。まあ、一時的に楽になることはなりますけどね。それが本当に病気を治してくれるかということは、結局どの薬もできませんでしたよ。」

「そういうものなんですか。」

ジョチさんの説明に、由紀子はおもわず言った。

「ええ。一種の人体実験ですからね。たいしたことじゃありませんよ。華岡青洲みたいにね、世界人類の為になることをしたらまた別でしょうけど、それ以外の人体実験では、為になることはほとんどありません。」

さらりと答えるジョチさんに、そういうもんなのかと由紀子は思った。と、同時にその口調の裏についている、もう一つの意味がわかったような気がした。

「つまり、詐欺事件と似たような感じなんで、うんざりだったんですね。」

「その通りですよ。終いには、もう医者の顔を見るのも嫌になりますよ。」

由紀子がそういうと、ジョチさんは苦笑いした。そしてチリ紙を鞄からだして、鼻を噛んだが、出てきたのはやっぱり黄色い鼻水であった。

「まあ、いずれにしても、グレゴリー・ラスプーチンに水穂さんを渡すわけにはいかないよ。いくらそいつが、必ず良くなるから心配するなって言ってもさ、それは、騙し文句だろ。だったらその通りにしないほうがいいよな。」

「そうそう。俺だって辛かったよ。兄ちゃんが人体実験されて、ちっとも効果なくて落ち込んでたの、沢山見てるから、おすすめしないな。水穂さんには、かわいそうだからな。」

杉三が、焼肉を食べながらそういうと、チャガタイも、腕組みをして、しんみりと言った。

「とにかく、その女医が、もうこっちへ来ないようにしたいのよ。そのためにはどうしたらいいでしょうか?」

由紀子はもう一度話を本題に戻した。

「そうですね。そうなるためには、水穂さんに重篤な状態から脱出してもらう以外、方法はないのではないかと思います。」

ジョチのその一言は、ちょっと気に障った。

「でも兄ちゃん、もうやり方なんてないんだろ?」

チャガタイが聞くと、

「でも、本人が変わらないと、そういう悪徳な医療関係者はいつまでも狙ってきますからね。」

と、ジョチは現実的な意見を言った。

「まあ、言い方を変えれば、今の水穂さんの状態じゃ、グレゴリー・ラスプーチンがやってきてしまうのも、ある意味仕方ないという事じゃないのかなあ。昨日だって、ご飯何にも食べないで、寝てばっかりなんだもん。」

杉三は、耳の痛い話を始めた。

「そうだよなあ。確かにそれじゃあ悪徳な医者の思うつぼって感じだな。」

チャガタイも首をひねる。

「今頃、また目が覚めて咳き込んでいるんじゃないかな。」

杉三が、またため息をついた。

「まあねえ、どうしても、重症な人がいると、そういうのを狙ってくる悪徳な医者というのが、必ず出てきちゃうんですよね。それは僕の時もそうでしたけど、本人を変えることはできやしないから、何とかして、周りの人が口を合わせて、追い出すしか方法はないんですよ。」

ジョチさんのだした結論は受け入れたくなかったが、でも答えはそれしかないのだった。


そのころ。

道子は、大学病院の研究室の一室で何か一生懸命書いていた。

「道子先生、何を書いているんですか?」

掃除のおばさんがやってきて、そう尋ねた。

「あの、佐藤さんのことを、まだ気にしているんですか?あれはしょうがないですよ。先生は一所懸命佐藤さんのことを思っていたんだから、それでいいじゃありませんか。」

「でも、あたしたちの新薬は間に合わなかったわ。医療は、結果がすべてなのよ。」

道子はおばさんの言葉に、悔しそうに言った。

「医療は結果がすべて何て、そんなの迷信ですよ。先生は、佐藤さんの為に、一生懸命研究を続けていらっしゃった。それでいいんですよ。」

掃除のおばさんは、床をからぶきしながら、そんなことを言うが、道子はまだ、納得できていない様子だった。

「道子先生、落ち込まないで、よかったことだと考えてください。」

「そうね、確かに、おかげで本気で患者さんを治療してみたいという気持ちにはなったわね。いつも、新薬の実験と観察ばかりの医者じゃ、面白くないわ。」

そうクールに言う道子だが、その裏には何とも言えない寂しさがあるんだということを、掃除のおばさんは知っていた。

「それで誰かほかの人をと思っているんでしょうけど、道子先生はちょっとほかの医者とは着目点というか、ピントがずれているところがあるから、気を付けて頂戴ね。」

掃除のおばさんはにこやかに笑った。

「ピントが外れるね。」

道子も、今回自分のしていることは、少なくとも悪事ではないと思っていたというより思い込んでいた。どちらが正しいのかは、本人も気が付いていないのだ。

あの時、佐藤さんは、新しい薬をもらえたら、今度こそ美容師としてもう一回やると言った。こんな重病に罹患して、もう立ち直ることはできないのかと、自暴自棄になっていた佐藤さんだったが、道子が新薬の実験台になってくれと申し出ると、やった、俺はまた業界に帰れるんだ!と涙を流して喜んでいた。ところが、いくら実験を繰り返してもうまくいかなくて、佐藤さんは、楽しみにしていると言ったまま、帰らぬ人になった。

皆道子の事を信じて疑わなかった。道子の事をすごい先生だとみんな言っていた。そのすごい先生が投薬をしてくれたんだから、仕方なかったと佐藤さんの家族は納得してくれた様だ。そういう人をみて、自分はなんていうことをしたんだろうと、ちょっと後悔した。偉い先生、偉い先生と言われておきながら、佐藤さんを助けてやれなかったということを考えると、大変むなしかった。

だから、今度は本気で患者さんを何とかしてやる番なのだ!

そのターゲットが水穂さんだったのである。

しかし、そのターゲットにたどり着くのも、なんだか大変そうだった。まず初めに、由紀子という女性が、自分のすることを信用してはくれず、懸命に自分を水穂さんから遠ざけようとしている。

その由紀子さんに、信頼してもらうには、まず、自分が水穂さんを彼女の目の前で回復させるということをやって見せることが必要であると、道子は思った。そこでまた製鉄所に行ってみることにした。


翌日、道子が製鉄所へ行ってみると、また案の定由紀子が応対した。その時の由紀子ときたら、何なのよ!という怒りの顔をしている。

「由紀子さん。そんな顔しないでよ。あたしは、もうここをひっかきまわしに来たわけじゃないのよ。ちゃんと、水穂さんの為を思ってやっているの。それを誤解しないで。」

道子がそういうと、

「何よ。あれだけ水穂さんに酷いことしたの、忘れているの?」

由紀子は強く言った。

「それなら、杉ちゃんの言っていた、グレゴリー・ラスプーチンと似たようなものだわよ。」

「あれはだって、蘭さんが私にお願いに来たから。それ以外なにもないわ。それよりも由紀子さんは、水穂さんによくなってほしいと思っているんじゃないの?」

道子はそう聞いてみたが、

「これ以上悪くなってほしくないだけよ!」

由紀子は強く答えた。

「じゃあ、そのために、新しい薬の実験に協力して頂戴よ。そうすれば、水穂さんはまた取り戻せるわよ。由紀子さん。」

道子は今度は勝ったと思ったのだが、由紀子の表情は変わっていなかった。

「由紀子さん、ちょっと手伝ってくれる?体を支えてて貰いたいのよ。」

不意に奥の方から足音が聞こえてきて、天童先生がやってきた。その着物の上に羽織っている白い羽織から、天童先生が東洋医術家であることを、道子はすぐわかった。彼女は、東洋医術が嫌いだった。

「由紀子さん、あなたたちの方がよっぽど胡散臭いことをしていると思うけど?こういう人を盲信して、彼女を神としてあがめる様であれば、かえって治療を遅らせるだけの事だわ。」

道子はそう言うと、

「あら、私、身を引きましょうか?」

天童先生はさらりと言った。そういう人たちは信用してもらえないということを、予め知っているということだ。

「いいえ、あたし、お手伝いします。」

由紀子のその言い方は、道子に何かを突き付けているという気がした。それでは行きましょうか、と天童先生は、由紀子と一緒に部屋にもどっていった。来ても来なくてもそれでいいわよ、と由紀子は言ったが、道子はこのいんちき療法家の正体をばらしてやると、中に入っていった。

とりあえず、三人の女たちは、四畳半に入っていくと、水穂さんの咳き込んでいる声がした。かなり激しい咳き込み方で、道子もよく目撃しているのとは違い、犬でも吠えているような、そういう咳の仕方だった。

「直ぐに咳止めを飲ませなきゃ。」

道子がそういうと、

「それが出来たら、天童先生にお願いしたりしないわ。」

と由紀子がきっぱりと言った。

ふすまを開けると、水穂さんは、咳き込みながら、横向きに寝ていた。頭が布団からはみ出していて、口の周りには、鮮血がべったりとついていた。

「ちょっと、体を起こしてもらえないかしらね。」

と、天童先生が言うと由紀子はわかりましたと言って、直ぐにその通りにした。

「ちょっと、これじゃあ酷いじゃない。直ぐに止血剤か何か飲ませて!このままだと、」

「うるさい!少し黙っててよ!」

道子は医療者らしくそう言ったが、由紀子は強く言って、それをやめさせた。道子は、それに圧倒されてしまって、もう何も言えなかった。

「はいはい。先ず初めに落ち着こうね。ハイハイ、落ち着こう、落ち着こうね。」

そんなことを言いながら、天童先生は、水穂さんの背中をなでてやった。道子は、そんなことをするより、と言いかけたが、不思議なことに段々と静かになった。

「よしよし、うまくいった、うまくいった。そしたら、静かに咳き込んでみてごらん。そうすればたぶん出てくるから。」

天童先生は、由紀子に目くばせした。由紀子は、枕元に置いてあったバスタオルを取って、それを水穂さんの口元に当てた。

そんなことして、、、吐瀉物を詰まらせてたいへんなことになるだけじゃないの!

と、道子は思ったが、水穂さんが、軽く三度咳き込んだ。と同時にバスタオルが朱色に染まったので、道子はびっくりする。

「よしよし、詰まっているもの、全部出せた。」

その証拠に水穂さんが大きく息をした。これは道子が待ち望んでいた風景でもあった。この風景が今ここに現れて、道子は本当にこれは現実なのだろうかと思ったくらいである。

「疲れたでしょうから、よく休んでくださいね。」

天童先生が水穂を静かに布団に寝かせてやった。由紀子はその間に畳についた吐瀉物を、雑巾で拭き取った。

「一体何なのよ!人の事、馬鹿にしてるの!」

道子は思わずそういったが、

「ちょっと静かにしてあげて。発作がやっと治まって、楽になって眠れたのよ。眠らせてあげましょ。」

と、天童先生にいわれてしまったので、何も言えなくなってしまった。

「あなた、えーと、道子さんという方だったかしら。」

暫くたったあと、天童先生にいわれて、道子はハッとする。

「ええ。確かに小杉道子ですが。」

と、道子はぼそっとこたえた。

「まあきっと。あたしたちのような人は、一番いやな存在なんでしょうけど。」

と、天童先生は、そっと話しかける。

「あたしたちは、患者さんを楽にしてあげたくて、やってやりたいのよ。それが一番なんじゃないかと思って。」

「そういう事なら、あたしたちだってできる。今のことだって、待っているより、止血薬をしっかり飲んでいれば、早く治まるんじゃないかしら。」

道子が、ちょっときつく言うと、

「道子さん。当の昔に、そういうことはやったのよ。どの薬で叩いても、叩いても、治らなかったのよ!」

由紀子も、同じくらい強い口調でいった。

「二人とも、今は眠らせてあげましょう。患者さんの前で、喧嘩をしたら、ゆっくり眠って居られないでしょ。」

天童先生が、二人を制した。水穂さんは軽く息を立てて眠っている。

「患者さんにとって、理想てきなのは、こういう事なんじゃないかしら。」

それにしても、きれいな人だった。眠り姫が世界で一番きれいな姫となると、妖精から贈り物を貰ったらしいが、もしそれが男性であれば、こうなるんじゃないかと思われるほどきれいな人だった。確かに、この人をくるしませたら、何だか医療従事者が、問題になるんじゃないかと思われるほどである。そうなると、何だか、新しい薬の実験台にしてしまうのは、可哀そう過ぎる気がした。理由はわからなかったけれど、そう考えてしまう。

「あたし、グレゴリー・ラスプーチンと呼ばれるのは、もうこれっきりにして、医療関係とはどういうことなのか、もう一回考え直してみようかな。」

道子は、思わずそう呟いてしまった。

「これだけきれいな人だもの。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

再びラスプーチン 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る