霧の向こう

雅 清(Meme11masa)

宝石の刃

「霧は好きだよ。ぜんぶ包み込んでくれる。良いものも悪いものもぜんぶね。特に冬の霧が好きで寒い朝のお日様が昇り切る前なんてとくに好き。薄いオレンジの花みたいな色にだんだん染まって、ゆっくりと、ふわっとなって消えていくんだ」

 少年のあどけない声が霧の向こうから私に話しかけきていた。姿は見えないが楽し気で、その声には野を跳ねる兎のような軽やかさがあった。おしゃべりが好きなようで今この瞬間も話し続けている。小鳥のさえずりについてや、水しぶきの一瞬の煌めき、雲の形、感触。自分の感じる世界をなんとか言葉にしようとあれこれを持ち出して、繋げ、表現し。時折、小枝の折れる音と落ち葉を巻き上げる音がそこに混ざって聞こえた。

「晴れの日は? 私は晴れが好きだな」

 問いを投げてみた。霧の向こうで少年は独特な唸り声をあげて悩み、しばし沈黙したあと返事をくれた。

「あんまり好きじゃないかな。空は綺麗で遠くまで見えるしで楽しいけどなんて言うか……見下ろした先は見えてないほうが楽しいっていうか。見えないのがワクワクして、何がいるかって考えると、えーと」

「想像力をかきたてられる?」

「そう! それだよ、ありがとう! 想像しただけで楽しい! ああ残念だなぁ、もう少しでも経ったら山からお日様がでてきちゃう。そしたら霧がはれちゃう。たまにはお寝坊してくれてもいいのに」

「そしたら君の好きな花や木が困ってしまうかもね」

「そっか! お日様がだい好きだものね」

 木々の葉を撫でているのだろうか、風が吹き、葉がざわつき、霧の向こうから葉が何枚か私の足元に舞い落ちてきた。霧は揺らぎ大きな影が動くのが見えた。

「こっちにきてお話しする?」彼が私に問いかけてきた。

「いや、いいよ。声を聞いているだけで。想像したり考えたりするのが好きなんだ。どんな姿をしてるかってね」

「同じだね。想像するだけで楽しいものね」

 霧の向こうの声は無邪気に笑っている。純粋さをそのままにしたような声だった。それ故に危険でもある。純粋故に私の姿を見れば彼は酷く落胆し、嘆き、牙を剥くだろう。霧の向こうの存在を傷つけてはいけない。この薄い霧が彼を守り、また私を守っている。霧の向こうの存在とこちらを隔てる絶対的にして脆い壁だ。ひとたびこの霧が晴れれば両者の間にあるのは悲劇であり、それは避けねばならない。

「ここにはどれくらいいるつもりだい?」私の質問。

「そうだなあ。お日様が二十回昇るくらいまではいたいかも」霧の向こうで影が動き腐葉土に深い溝を作るような掻き分ける音が聞こえた。

「前はどこにいたんだい? 北の方かな?」

「北ってなんだろう? よく分からない」

「寒かったかい? それとも暖かったかな?」質問を少し変えてみよう。

「ここよりうんと寒かった。おっきな山がずーっと続いてて。そういえばここに来る途中に森の中で沢山の石を積み上げたものがあってね、崩したら面白そうだなって息を吹きかけたり、足で突いたりしたんだ。そしたら石の中かワーって沢山の人がでてきたんだ。ビックリしてたら石の付いた枝とか、破裂する玉なんかぶつけてくるから怒って焼いちゃった。もしかしてあれって人の巣だったのかな? 石で作るなんて変だよね」

 私は頭の中の書斎に地図と、ここ数か月の出来事を広げて俯瞰した。

 寒い場所、続く山はおそらくウェン国のテリニア山脈のことだろう。ここから北にある。焼いたのはたぶん城のことだろうが森の城があるとは聞いたことが無い。いや、森に古い廃城が一つ……そこを根城にしていると噂の大盗賊団の活動が最近無いのはそういうことか?

「石の巣とは変なものを作るね。それ以外になにか見たかい?」

「人の木の巣と牛が沢山いたとこには三回くらい見かけて降りたよ、焼いちゃったからもう行っても何も無いけど」

 焼かれた村の報告が三つ。北からここまで直線状だ。彼が件の迷い竜で間違いないようだ。

「ねえ、聞いてる?」

「ああ……聞いているとも」

 ここに留まっていればいずれまた付近の村や街を焼くだろう。誘導してやらねばならない。それが私の務めだからだ。

「私は南の……ここよりずっと暖かいところからきてね。……こんな話つまらないかな」

「ううん、聞きたい!」声の抑揚、羽ばたきの音、興味を持ってくれたようだ。

「ここよりも花が沢山あって木は空に届きそうな程に大きい、食べ物も沢山。仲間もいる楽しい所さ。左の方に川があるのは見ただろう? この川の先、海のむこうに島があって私はそこからきたんだ」

「うみ?」彼の首を傾げている姿が目に浮かぶようだ。

「すごく大きい水溜りさ、舐めると辛い水が沢山あるんだよ。でも飲んじゃいけないよ。ちょっと舐めるだけなら大丈夫。それでその海を真っすぐ……星は分かるかい?」

「うん、お母さんに教わったからわかるよ」

「そうか、凄いね。海についたら夜を待って十字の星の方向に飛ぶんだ。君ならきっと二日くらいで辿りつけるだろうね。島は見ればすぐに分かる」

 それからさらに詳しく島について話してやった。間に彼の質問が幾つか織り込まれながら。大地の匂い、沈みこむ落ち葉の深さ、茂る草とその葉の水滴。花は一年を通して咲き、偉大な大樹と、その根元の洞。そこから見上げる葉の騒めき、風が運ぶ雲の流れ、その隙間から覗く夜の星の囁きかけるような輝き。

 私は見た一つ一つを思い出し、見たままを言葉にして伝えた。霧の向こうの迷い竜は私の言葉に合わせ「うん、うん」と相槌をうち、そのたび木の葉のすれる音が聞こえた。

「その島に霧はでる?」

「さぁどうだろうね、私は見たことがないなぁ。でも島は大きいからきっと霧のでるところもあるだろうさ」

 本当を言えば霧の出る場所も知っている。でもあえて言わないことにした。その方がいいだろう、わからない事が彼には楽しいようだし楽しみにとっておいて欲しいと思ったからだ。

「ぼく行ってみることにする! そうだ、一緒にいく?」

「ごめんよ、私は行くところがあってね。この話を他の竜にも伝えなくちゃならない」

「残念、じゃぁお別れだね……また話せる?」

「そうだね、いつかまた。その時また話そう。その時もまた霧の向こうで話そう」

 朝日が山の向うから昇り始めていた。朝日に霞む霧の中で大きな翼を広げるのが見えた。

「ありがとう、またね」

 急いで茂みに隠れ、隙間から飛び立つ彼を見た。白い迷い竜の彼はこちらを見下ろし、姿が見えないのを残念がっているようだったが、直ぐに首を上げ大きく羽ばたいて上昇していった。朝日を受けた体についた露が煌めいていた。


 帰り道、王都から使いのアグリムが馬に乗って現れたので迷い竜は南のハイオーム島に送ったと伝えた。あそこが彼に一番言いと思ったからだ。アグリムからは西に別の迷い竜がいると報告を受けた。どうやら一番近いのが私の様で、少し休んでから行くと答えた。

「アンリ殿。ひとつ質問しても?」去り際、アグリムが振り返って言った。

「珍しいね。なんでもどうぞ」

「竜と話すとはどんなものなのかと」

「たぶん君の想像通りだよ。かなり怖い。なんせ彼らからしたらこんなちっぽけな体はその辺の小枝みたいなもんだからね」小枝を拾いあげ折ってみせる。パキっとこ気味良い乾いた音がした。「きっと私は運が良いんだろう」

「辞めたいと思った事は?」

「もちろんあるよ、でも辞められない。こう、彼らと話していると。難しいな……彼らの純粋さは魅力的で、宝石の刃を見ているような、あるいは鏡を見ているような」

「よく……わかりませんが」

「ふふ、私もだよ」

 振り返ると、森の霧は消えていた。彼の姿はもう空のどこにも見えなかった。

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