ノースポールにさよならを

仔月

第1話

ふと、視線を向ける。病に冒されていたときも、彼女は美しく、今もなお、その美しさは保たれていた。だからこそ、彼女の柔らかな微笑みを見ることはもはや叶わないことだと信じられなかった。


そう、彼女は高潔だった。だからこそ、死の間際であっても、あのような言葉を口にしたのかもしれない。


「もし、私が死んでも、私の意識をアップロードしないで。お願い。約束よ?」


脳の構造、意識の発生の機序が解明されたことによって、死とはありふれたものではなくなった。死後、当人の人格のデータをアップロードすることによって、死者は甦る。現代のリビングデッド。そのように呼ぶものもいる。確かに、人格のコピー、アップロードへの社会的忌避感は強い。


だから、彼女もあのような言葉を口にしたのだろうか?そうかもしれない。だが、私は、彼女が死への恐怖に苛まれていたことを知っていた。だとすると、彼女の判断を受け入れることは正しいことなのだろうか?


あのとき、病室にて、彼女は一人。ただ涙を流していた。初めて、彼女の涙を見た。


心は定まった。巻き戻そう。彼女との時間を



花瓶に、ノースポールの花を挿す。今日も、私は彼女のお見舞いにきている。


「もう、そんなに頻繁に来なくても大丈夫よ。講義のほうは大丈夫なの?」

「平気、平気。欠席は今回が初めてだから」


嘘だ。そもそも、「この世界」には講義なんてものは存在しない。いわば、この空間は彼女のために誂えられたものだ。私は、彼女の人格のデータをアップロードし、彼女が入院したいた病院がそのままに再現されたものをデザインした。それは、彼女の最後の言葉の真意を確かめるためだ。


「ねえ、聴きたいことがあるの……」


神妙な表情をしている。私は頷く。


「人格のデータのアップロードをするにはどうすればいいの?教えてくれる……?」


歓喜に打ち震える。私は、喜びの感情を押し殺すのに必死になる。ついに、ついにこのときがきた。どれだけの回数、彼女との時間を繰り返してきただろうか。はじめは上手くいかなかった。彼女は高潔だ。だからこそ、何度説明しても、人格のアップロードを受け入れることはなかった。しかし、時間を重ねるなか、私はさまざまな術を身に着けていった。それは、醜悪に思われるものを美しく飾り立てるための術。そうして、彼女に人格のデータのアップロードがどのようなものであり、そこにはどのような利点があるかを説いてきた。


「ええ、勿論よ!」


そうだ!やはり、彼女は死を恐れていた。私の判断は間違っていなかったのだ。


人格のデータのアップロードの方法を説明するため、私は彼女のベッドの傍に近寄る。窓際の花瓶にはノースポールが一輪。窓からの光をうけ、咲き誇っている。



一連の説明を終え、病室を出る。これならば、彼女は人格のアップロードを受け入れてくれるだろう。今や、心は満たされている。彼女は人格のデータのアップロードを受け入れている。あとは、現在の彼女の人格のデータをアップロードすれば、もういちど、彼女との時間が動き始める。


病棟の廊下を歩くなか、ある記憶が去来する。それは、彼女の涙を見たときのことだ。確か、あれは、現実の世界の今日だったはずだ。この世界は現実の世界のそれとは異なるものだ。だから、今、病室に戻ったとしても、彼女が同じようにしているとは限らない。だが、あの経験こそ、現在までの私を駆り立てるものだった。だから、それを確認することは、私にとって、それまでの時間に終わりを告げるための儀式だ。


病室のドアは空いている。その隙間から、顔を覗かせる。そこには、彼女の涙が……なかった。死を目前にしていると思えないほど、彼女は穏やかだ。あまりに「穏やかすぎる」


気付いてしまう。どうしようもなく気付かされてしまう。今になって、私は自分のしてきたことがどのようなものであるかを自覚する。そこの彼女は、あのときの彼女とは別人だ。いや、私がそのように変えてしまった。私は、彼女の決断に納得ができず、何回も、何回も、彼女との時間を繰り返した。そのなかで、私は何人もの「彼女」に出会ってきた。そして、その「彼女」たちもあのときの彼女とは別人だ。私が変えてしまった。そして、無数の彼女の死と引き換えに手に入れたもの、それが現在の彼女だ。私は、自身の大切なものを、自身の手で変えてしまった。


円環世界へいざなうように、ノースポールが揺れる。


この世界が続くかぎり、無数の彼女が犠牲になりつづける。私には、彼女たちを救うことはできない。私に出来ることは、この世界を終わらせること。それが、彼女たちの墓碑に捧げられる、唯一のものだ。


世界が崩れ始める。もう少しで、彼女との時間は終わりを告げる。ああ、そうだったのか。何故、彼女が人格のデータのアップロードを望まなかったのか。それは、アップロードされた人格への制御権は、その人格と接するものにあり、そこに対称的な関係は成立しえないからだ。そこにあるものは、「わたし」と「あなた」の関係ではない。「わたし」が「あなた」をわたしの理想に作り替えていく、「わたし」と「わたし」の関係だ。


彼女の最後の言葉は愛の言葉だったのだ。私を「わたし」の牢獄に閉じ込めさせないための


あふれんばかりの愛を受け取り、私はこの世界を壊す。


ノースポールの花が落ちた。





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