第28話 僕が死ぬ意味(レゾンデートル) その1

 長々と書き連ねてきましたが、ようやく終わりが見えてきました。



 倫理とは、良心とは一体何なのでしょう。あれから幾度も考えさせられました。


 わたしにとって倫理とは神の掟に違いありませんでした。ええ、ずっとです。サンタの不在を知った幼少期から、今に至るまでずっと。神を探す旅とはつまり、何が正しいのかを問う旅でした。


 しかし、いまのわたしなら解ります。その神とは他ならぬ自分のことだったのでしょう。


 わたしは自分でルールを捻じ曲げ、自分の云いように解釈を加えました。なんということはありません。それはキリスト教の歴史に限っても、幾度となく行われてきたことでした。違うところがあったとすれば、わたしにはルターやヘンリー八世のように自分の教義を他人にまで敷衍する気がなかったことくらいでしょう。わたしはわたしのための教祖、わたしのための神でした。神に届くはずの道はしかし、ウロボロスの蛇のように閉じたわっかだったのです。



 それからのことです。年が明けても、母の口からわたしの進路について触れることはありませんでした。センター試験が始まれば、嫌でもニュースで取り上げられます。そのときには何かあるだろう。そう身構えたものですが、それすらなし。安堵すると同時に、その無関心さに改めて愕然としました。


 しかし、もう一つのタイムリミットは刻一刻と迫っていました。誕生日です。


 十八歳までに何かを成す。


 しかし、わたしは砂漠を彷徨うばかりでどこにもたどり着けませんでした。自分がどこに行きたいのかさえ解らないのです。そして、それはこれからもずっとそうだというような気がしました。どうしたい、は何もなく、あるのはただこうするしかないという道、断崖絶壁へと至る拡大自殺の道だけでした。そこから飛び降りることを幾度となく夢想した道。しかし、自分にはまだ飛び降りる勇気がありません。


 そんな自分の背中を押したのは、自分の身体の醜悪、この地上の醜悪に他なりませんでした。



 ある朝、寝ぼけ眼で鏡に向かうと異変を覚えました。顎の辺りにうっすらと黒いものが散っているのです。


 無精ひげ。


 わたしは鏡を覗き込むこの醜いケモノに愕然とし、洗面台の剃刀で手首を切り裂きたい衝動に駆られました。実際に、剃刀を手に握るところまでいったのです。しかし、いったん気を落ち着けると、それを顎にあてひげをそり始めました。


 そのときの惨めさはなんと表現していいか解りません。また解ってもらえるとも思えません。それから口の周りにも剃刀を当てると、いくつか血の球が浮くのが解りました。わたしにはひげの正しい剃り方も解りません。シェービングクリームを買えばいいのでしょうが、それは自分の身体性を相手に晒すようでとても恥ずかしいことに思えました。


 わたしは剃刀を持ったまま部屋に帰ると、それをそのまま肌にあて腕や脚の毛を剃り始めました。不浄は、余さず葬らなければなりません。


 前にも話したことがあると思います。わたしは人間の身体というものが、グロテスクに思えてしょうがないのです。特に成人のそれは正視に耐えないほどひどいモノに思えました。自分がその不浄の一部となっていくのは、この上ない屈辱でした。これ以上、物質世界の悪臭に当てられていれば、正気を保てるかどうかも解らない。そんなことさえ思ったほどです。


 いったんは落ち着いたものの、自殺の想念はますます大きくなっていきます。この不浄の身体を抱えてどうして生きていけよう。この地上の「匂い」にどうして耐えられるだろう。そんな絶望が胸を満たしていきます。


 生への、云わば「カラダ性」とも云うべきものへの嫌悪感。それは教団が植え付けた種でした。しかし、それを育てたのはわたしでした。


 魔が差したと云うのか、いつだったか、わたしはちょっとした興味からレンタルビデオ店の一角にある暖簾をくぐったことがありました。あの裸体との初対面からもう五年は経ちます。そろそろ嫌悪感も薄れたのではないかと、自分を試す意味合いもあったのでしょう。しかし、入った瞬間、そこが自分の来るべき場所でなかったことを悟りました。


 暖簾をくぐった先にあるのは一面ピンクの空間でした。三面に並んだ棚にはぎっしりと詰まったDVDのパッケージ。パッケージの背にプリントされた扇情的なタイトル。肌を晒した女性たちの写真。わたしはまるで瘴気に当てられたような息苦しさを覚えました。そこは、わたしが試みるちゃちな黒魔術とは比較にならないほどに背徳的な空間だったのです。


 スペースにはDVDを熱心そうに物色しているおじさんがいました。パッケージを物色する、そのじめっとした目つき。しみの浮いた手。その不気味さにぞっとしていると、不意におじさんがこちらを向きました。


 ――兄ちゃん、どないなんが好きや?


 おじさんが墓石のような歯を見せて笑いました。


 ――おっちゃんが選んだろか?


 そう云って、棚のパッケージを漁る手つきの卑猥さ。


 ――やっぱり若いのがええやろ。制服ものがいいか?


 わたしは思わずその場から逃げ出していました。


 家に帰っても、目を閉じればあの毒々しいピンク色の空間とおじさんの顔が浮かんでくるようでした。わたしは残像を払うべく、レンタルしてきたDVD――テレビ雑誌であらすじを読んで興味を持っていた文芸調の洋画です――をプレステ2にセットして再生しました。


 無人の家で、一人ブラウン管に見入っていると、映像の世界に逃げ込むことができました。わたしには演技の巧拙を評価する眼はありませんが、一見、無関係な物語が一本の線に収束していく展開には思わず唸らされた物です。アクションが少ない分、カメラワークにも工夫があり映像の面でも引きつけられるものがありました。しかし、それも主演男優と女優がアパートのエレベーターで肢体を絡めあうまでの話です。


「かまととぶりやがって」と思われては不本意なのですが、わたしはその瞬間までディープキスという概念を知りませんでした。ですから、そのときのわたしの驚愕ははなはだしいものでした。それが、一般的な男女の睦み合いからかけ離れたアブノーマルなものに思えたのです。絡み合う舌は、ヘビの共食いのようでした。


 変態だ!


 わたしは心中で叫びました。家に誰もいなかったのは幸いでした。何が起こっているか解らず、わたしは動転したままトイレへと走りこんでいました。便座を上げながらも、こみ上げてくる吐き気を何とか押さえつけます。そうして便器に溜まった水を眺めていると、徐々に心が落ち着いてくるのが解りました。


 われながら大仰過ぎた、部屋に戻ろう――そう考えたとき、居間から聞こえてきたのが男女のあえぐ声でした。二度目の我慢は、できませんでした。



 聞けば、子供が成人女性の裸体にショックを受ける経験はそう珍しいことでもないようです。しかし、たいていの場合はそれを克服します。切羽詰った欲望がそのショックや嫌悪感に目をふさぐ役割を果たすのでしょう。尤も、それは性に対する禁忌の意識がない場合の話です。


 わたしには生を、性を肯定的に見られる下地がありませんでした。不快感はそのまま禁欲的な思想と絡み合い、互いを支える形で歪な成長を遂げたのです。感覚に裏打ちされた思想は、それはもう手強いものです。わたしが実際にポルノコンテンツに触れず思春期を過ごせたのは、そのおかげにちがいありませんでした。


 生は醜い。よって自分も醜い。どうして神はこの醜い生を自分に与えたのか。そうして、自身の死を見つめた結果、はたと気づきました。人が生きる意味にです。


 人の生とは、死ぬ理由を見つけるためだけに存在するのだと。



 わたしはずっと考えてきました。神が、この汚れた地上にわれわれ人類を産み落としたのはなぜか。どうして、よりによってヒトなどという劣悪な肉体を与えたのか。どうせ、最後には死んでしまうのに。


 人はどうあっても最後には死にます。ゴールは最初から決まっているのです。ならば、それを少し早めたところで何の問題があるでしょう。人は自らの意思で命を絶つことができます。クリア方法は最初から手の中にあったのです。わたしたちにはそれを実行する勇気がないだけでした。


 なぜ人は死ぬのか? その時のわたしには答えがはっきりと解りました。それこそが神の望みだからだと。


 なぜ人は生きるのか? それもはっきりと解りました。人は死ぬためにこそ生まれてくるのだと。


 なぜこの世は汚れているのか? その汚れた生の引力から逃れ、自らを解放するためにこそ生まれてくるのだと。それが神の課した試練、天国の門を開く鍵なのだと。人生とは、その過程で得たものを自ら投げ打つことで初めて完結するのだと。


 その勇気とは、つまり死ぬ理由です。


 正義感と理性を培い、この世の悪と不条理を見抜くこと。その結果として生まれるこの世界への絶望、憎悪、義憤。この世界は間違っていると叫んで崖を飛び降りる者だけが天使に拾われるのです。


 ならば自分も自身に対して死を納得させなければならない。そう思うようになりました。死は、思想によって裏打ちされました。他ならぬ神がはんこを押したのです。わたしはそれに従うだけでした。


 後はもうあまり書くことがありません。

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