第29話 僕が死ぬ意味(レゾンデートル) その2

 大阪は雪に見放された街です。年に数度、粉雪が降ることはあっても、積雪となると数年に一度という珍事になります。ホワイトクリスマスなど夢のまた夢です。ですから、大阪の子供たちは数少ない積雪の機会を逃さず目いっぱい遊ぶのです。


 あれは小学校何年生のときでしょうか。朝、家を出ると、外の世界が真っ白に染まっていました。あのときの高揚感は今でも忘れられません。雪はわたしにとって、魔法のようなものでした。フィクションの中では見たことがあるものの、それが見慣れた景色を覆い隠して目の前いっぱいに広がろうとは夢にも思わなかったのです。


 わたしは思わず駆け出し、そして雪をすくっていました。はじめて触れる雪の、あの冷たさ。雪を踏む感触。雪を両手でぎゅっと押し固めると、想像した以上の固さになりました。とにかくすべてがはじめて。胸躍るような経験でした。


 興奮していたのはわたしだけではありません。登校すると、すでに同級生たちがグラウンドで雪遊びに興じていました。わたしも教室にランドセルを置くと、その中に加わりました。学校のグラウンドももちろん見渡す限りの雪です。先生もそんな子供たちに理解がありました。一時間目の授業を潰して雪で遊ぶ次第となったのです。


 雪だるま。雪合戦。グループの垣根を越えて、無邪気に戯れていたあの頃。地上の汚れを知らず、雪もまた化学物質に汚染されていることを知らず……


 世界は、きれいでした。



 死刑囚は刑の執行前に豪勢な食事を供されると云います。


 その日、わたしがモスバーガーに足を運んだのも、そのようなことを意識してのことかもしれません。


 昼食時を過ぎた店内はがらんとしており、わたしは順番を待つことなくレジに直行しました。若い女性の店員はわたしがコートの下に高校の制服を着ているのを見て少しいぶかしんだようでした。


 わたしはそれまでの人生においてモスバーガーを食べたことがありませんでした。ハンバーガー自体は好きでも嫌いでもありません。ただ、前々からマクドナルドやロッテリアのそれとどう違うのか試してみたいとは思っていたのです。この店舗はわたしが通っていた高校のすぐ近くにありましたが、わたしには買い食いの習慣がなく、またこういう店に同伴するような友人もいませんでした。


 わたしが注文したのはモスチーズバーガーでした。テイクアウトするつもりだったのですが、なぜか店内で食べると云ってしまったのは、やはりこういうことに慣れていなかったからかもしれません。


 二階の席からは、通学路として馴染み深いオフィス街が見渡せました。


 ハンバーガーはボリュームがあり、それなりに美味しかったものの、マクドナルドで百円払えば食べられるものにわざわざ上乗せしてまで食べるものではありませんでした。そもそも、わたしは食べるということ自体があまり好きではありませんでした。それは自分の「カラダ性」をいやでもあらわにするからです。食べ物は、ハンバーガーは地上の「匂い」がしました。この程度では、肉体への未練にはなりえません。この地上への未練にはなりえません。



 店を出ると、わたしはまた自転車をこぎ始めました。


 すると、そのときです。


 鼻先に何か冷たい物が触れました。雨だろうか――思わず指で触れると、それは少ししゃりっとした感覚がしました。天を仰ぐと、白いものがぱらぱらと空から降り注いでいました。


 雪。


 意外なことではありません。大阪とて冬になれば雪くらいは降ります。雪は精々、綿埃程度の大きさと云ったところでしょう。地面に触れた瞬間にはもう跡形もなく消えてしまいます。街を覆うほどの大雪というならともかく、この程度の雪なら毎年見られるのです。なのに、どうしてでしょう。わたしは、まるではじめて積雪を目にしたときのように高揚していました。


 雪。


 いくら見た目が綺麗でも、化学物質に汚染されているという事実に変わりはありません。なのに、どうしてでしょう。雪は、「匂い」がしませんでした。そのときのわたしには、それがまるで天使の羽のように神聖で汚れのないものに思えたものです。


 雪。


 このようなものを最後に見られるとはと、それはもう、モスバーガーなどよりもよっぽど感銘を受けたのを覚えています。


 わたしは神に愛されている。


 神は天にいまし……


 胸の奥が暖かいものでいっぱいになっていきます。


 わたしもこの汚れた体で崇高な使命を体現する必要がある。汚れた体だからこそ、その行いによって自分を聖化しなければならない。あの雪のように。そうだ、自分はあの雪のように散っていくのだと自転車をこぐ足を速めました。


 やがて林立するビルの向こうに去年まで通っていた高校が見え始めました。



 大阪府立J高等学校。オフィス街の端に位置する立地。隣はマンション。正門の向かいはオフィスビル。石の塀に囲まれた三棟の校舎。


 わたしが去年の春まで通っていた学校。


 わたしが去年の春に退学した学校。


 もともと、自宅から近いことを理由に選んだ学校です。自転車で精々二十分。学校は、わたしの生活圏内にありました。所用で外出した折、そのすぐ近くを通ることも少なくありませんでした。


 そしてその度に、わたしはそれとなく学校を観察したものです。


 幾度となく通った正門。その脇の通用門。


 あの門を乗り越えていく。それはおそらく簡単なことでしょう。下駄箱くらいまでなら誰にも見咎められることなく侵入できるはずです。それでも不安ならば、学校の制服を着ていけばいいだけのこと。幸いにして、わたしが在学していた時の交友範囲はゼロ近似です。わたしを知っている生徒はほとんどいません。退学した生徒が学校に侵入したことに気づく生徒はほとんどいません。


 それでも、いざ乗り込むとなるとハードルは高いように思えました。わたしは「決行」の日を夢見ながら、自転車で何度か門の前を往復し、そのまま家に帰るのが常だったのです。



 舞い散る雪の中、ペダルをこぎ続けます。学校の塀の前に差し掛かったところで昼休みのチャイムが鳴りました。狙ったとおりの時間です。わたしは笑みを禁じ得ませんでした。


 正門まで回ると、そこはがっしりと閉ざされています。しかし、通用門はいつも通り解放されていました。そこに教師の姿はありませんでした。これも、やはり幸運でした。


 あのささやかな通用門、人一人通るのが精一杯の狭き門――


 狭き門より入れ――


 思わず呟きます。


 そして、それまで何度もそうしてきたように正門脇の通用門をくぐりました。


 恐れるものは何もありません。


 わたしの傍らには神がいて、鞄には包丁がありました。

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