第27話 みんな死んじゃえばいいのに その2

 誰も彼も死んでしまえば善い。


 そう呟くだけなら、誰にでもできます。「死にたい」と云ってみたところで、実際に死ぬ人間がそういないように、殺人に走るような人間もそうそういるものじゃありません。「じゃあ死ねよ」と云われれば戸惑うのが大多数の人間であり、当時のわたしもまたその例に違わずただ言葉を弄ぶだけの臆病者でした。崖から飛び降りる覚悟などありません。それは当時つけていた日記を開いてみても明らかです。


「体育の教師は全員殺す。必ず殺す。奴らはいつも理想だけ、言葉だけだ。気合? 根性? それが教師が使う言葉か? 現実は最後はいつも勝利(ハッピーエンド)のスポーツ漫画とはわけが違う。勉強ができなくても誰も怒らない。テストの点数が悪かったところで、それをネタに笑うだけだ。だが、なぜ運動ができないとみな責める? 何も考えられないゴミしかいないからか? 人間にとって大事な物はそんな物じゃない。考えることだ」


「自らが力ある者だと思い上がり、ただ自分のエゴを押し通すのが奴らだ。殺してやる。「教師」という役割にあったやつらは自分たちは他人を服従させるだけの資格があると思い上がっている。全員殺す。必ず殺す」


 当時、つけていた日記の一部です。これを見ても解るとおり、わたしの「殺意」は日常誰もが感じる「怒り」を大げさに解釈しただけの代物でした。鬱屈した感情を「殺す」という言葉にして吐き出すだけで、それを実際に他人にぶつけることはなかったのです。具体的な犯行のプランさえありません。


 拡大自殺という断崖絶壁の道は、わたしにとって唯一確かに思えた未来でしたが、それは何も自ら望んで選んだわけではありませんでした。それは云わば消去法で選択肢を潰していた結果残った道、暫定的な未来。何か他に道があれば、そちらを選んだに違いないのです。


 そんな消極的な「殺意」が殺人の空想という次のステージに進んだのは、ですから、別のきっかけがあります。



 人間の心理には「同一化」と呼ばれる働きがあります。防衛機制の一つとして覚えている人も多いでしょう。トップアスリートや虚構のヒーローに自分を重ね合わせ、その言動を真似る心理現象です。たとえば、任侠映画を見て肩をいからせて歩いてみたり、ひいきにしているプロ野球選手のスイングを真似てみたりといった行動もその一例と云えるでしょう。


「ガンダム」と云えば日本人なら誰でも耳にしたことがあると思います。初代の『機動戦士ガンダム』を皮切りにこれまで何作もの続編や派生作品を生み出してきたロボットアニメのシリーズには誰しも人生のどこかで触れたことがあるのではないでしょうか。


 わたしがこのシリーズにはじめて触れたのは、二〇〇二年から二〇〇三年にかけて放送された『機動戦士ガンダムSEED』という作品がきっかけでした。そして、わたしはその敵役、ラウ・ル・クルーゼから大きな影響を受けることになります。


 ラウ・ル・クルーゼは世界を呪っていました。対立する二つの勢力間での全滅戦争を望み、戦局を操作し、あと一歩というところで主人公に討たれるのです。


 その呪詛の源はどこにあるのか。それは彼がクローンとして生まれたことにありました。名家の跡継ぎとして作られ、そのためだけに育てられた子供。しかし、それはまったくの無意味だったのです。


 彼のテロメアにはクローニングに伴う異常がありました。テロメアとは染色体の端に位置する構造物で、細胞の寿命を定める役割を持っています。テロメアは細胞分裂の度に短くなっていき、それが尽きるとその細胞はそれ以上分裂ができなくなるのです。そして、オリジナルの細胞を元とするクローニングでは、磨り減ったテロメアをそのまま分け与えることになってしまうのです。それはすなわちクローンはその生成された瞬間からオリジナルと同じだけの余命しか持てないことを意味していました。皮肉なことに、クローニングとは跡継ぎを残すという目的には最も不向きな技術だったのです。


 そのあまりにも非情な運命――


 身を焼くような憎悪――


 わたしは共感に打たれました。


「私は結果だよ、だから知る! 自ら育てた闇に喰われて、人は滅ぶとな!」

 

 そうです。わたしも結果だから知っています。この世界が生み、育てた闇だから知っています。人は裁きを受けるべきです。

   

「この憎しみの目と心と、引き金を引く指しか持たぬ者たちの世界で何を信じる? なぜ信じる?」


 いいえ、何も信じるに値しません。教団の説くとおり世の中は堕落していました。腐敗していました。教団は薄汚い詐欺師の集まりでしたが、世の中だってそれとなんら変わりません。弱者から搾取し、自らの欲望を追及することに少しだって躊躇を覚えないのです。

 

「もはや止めるすべはない ! 地は焼かれ、涙と悲鳴は新たなる争いの狼煙となる!」


 そうだ、世間は思い知るべきだと思いました。わたしの心に憎しみの炎を灯したのは、他ならぬこの世界なのですから。それをいまさら消し止めようとしたところで、間に合うものではありません。


「それだけの業、重ねてきたのは誰だ!? きみとて業のひとつだろうが!」


 業。わたしの出自を表す上でそれ以上の言葉があるでしょうか。教団の二世代目の金ヅル――献金を貢ぐ存在として作られた子供、それがわたしでした。教団に貢ぐためだけに引き合わされた両親に愛はなく、家にサンタはおらず、あったのは信仰だけでした。神だけでした。神を信じることは、そのまま社会への敵愾心につながりました。そして、わたしはその信仰さえも失ったのです。そこから始まった砂漠の旅は世界への憎悪を育てました。そして、その果てに行き着いたのはクルーゼと同じ拡大自殺という末路です。


 クルーゼはわたしが望む生の理想でした。死の理想でした。


 その境遇に心底共感し、また憧憬すべき「英雄」でした。


 こじ付けと云われれば、それまでかもしれません。しかし、「英雄」への同一化の欲望は抗いがたいものだったのです。自分もクルーゼのように世界を道連れにしたいと望むのも当然のことでした。



 クルーゼの秘密が明らかになるのは、物語の佳境、ちょうど迫り来るセンター試験の刻限に追い詰められていた頃でした。追い詰められた心は、クルーゼとたやすく共鳴し、そして世界への憎悪を燃え上がらせたのです。自分も死ぬときは世界を道連れに葬り去りたい。それが叶わないならせめて自分が特に憎んだ相手だけでも……



 拡大自殺の夢想はもはやわたしの脳裏にこびりついて離れないものとなっていました。消去法でしぶしぶ選んだ未来が、是非とも成すべき悲願に変わったのです。まだ決まっていないことがあるとすれば、いつ死ぬか、誰を殺すかの二つだけでした。


 そして、「誰を」の方はおおよそ候補が決まっていました。


 これまでの人生で、わたしが最も憎んできた相手は誰か?


 殺されても文句の云えないような害悪、不条理の象徴がいるとすればそれは誰か?


 教師以外考えられません。


 中でも憎いのは、云うまでもなく体育教師でした。わたしは体育教官室に乗り込んで鉈や金属バットを振るう自分を想像したものでした。日記の調子も、この頃から徐々に変わっていきます。


 バットを持って体育教官室に乗り込む。退学したはずのわたしが現れたことで驚くGの脳天にバットを振り下ろす。短い悲鳴。頭蓋骨が砕ける音。飛び散る鮮血。裁きの始まりだ。一瞬の静寂の後、体育教官室は狂騒状態に陥る。逃げ惑うP、わたしの説得にかかるV、腰を抜かすX。愚か者どもめ。フルスイングされたバットが部屋の備品をなぎ払う。机の上から筆記用具やファイルが飛散する。スティールラックが鋭い音を立ててへこむ。わたしは鬼神のようにバットを振り回し、教師を追いかけその脳天をかち割っていく。誰が逃れられるものか! 全員殺す。全員殺すまでバットを振り回す。


 それまで、あくまで言葉のレベルに留まっていた拡大自殺の観念に、このときはじめて具体的な行動が付け加えられたのでした。


 夢想は、回数を重ねる度に細かなディティールを得ていきました。凶器はより扱いやすい物に変わり、襲撃も急に襲い掛かるのではなく、相手の油断を誘って奇襲をかける方法を考えるようになりました。自宅の台所で包丁を眺めては、それが体育教師の胸に吸い込まれていくところを想像し、玄関でレインコートを見つけたときは連中の汚い血から身を守るのにうってつけだと歓喜しました。


 夢想は、生活のレベルにまで溶け込みつつありました。


 そうして空想を弄んでいるうちに年が明けます。


 二〇〇四年。


 十八歳まで残り二ヶ月。

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