第26話 みんな死んじゃえばいいのに その1

 誰も彼も死んでしまえば善い。


 芥川龍之介「或阿呆の一生」の一節です。作中の「彼」こと芥川は関東大震災で破壊された街に佇みながらこういう感慨を口にするのです。そして、これは一時期のわたしの口癖でもありました。


 この作品と出会ったきっかけは何と云うことはありません。名作文学くらいは読んでおくべきだと、古本屋で百五円のシールを貼られた岩波文庫を拾ったのです。それが、芥川だったのは、高校の現代文で学習した「羅生門」が気に入っていたためでした。


 わたしが買ったのは、岩波文庫から出ている、芥川の晩年の作品を収録した薄い本でした。「歯車」、「或阿呆の一生」……


「歯車」はその病的な神経性に戦慄を覚えはしたものの、筆者の不安を共有するまでには至りませんでした。一方でわたしの心を捉えたのが、五一の断章で構成された「或阿呆の一生」です。わたしは今でもこの作品の全文をそらんじることができます。



 願書提出の締め切りが過ぎてからの日々は、針の筵に座らされているようでした。


 母は願書を出さなかったことを知ってか知らずか何も云ってきません。そもそも、古い世代の母にはセンター試験のシステム自体よく解っていなかったのではないでしょうか。


 母のせいにするわけではないですが、あの子供に対する無関心さ、放任主義はいったいなんだったのでしょう。これは、わたしの半生を振り返る上で何度も突き当たる疑問でした。


 思えば、幼稚園の頃からそうでした。あそこに通っていた児童で、行きと帰りに保護者の送迎がないのはわたしだけでした。登園するときは一人でバスに乗り、そして帰るのも一人でした。停まったバスを降り、自宅へと向かう道は三百メートルとなかったでしょうが、まだ背丈の低い子供にはそれなりに長い道のりでした。それをたった一人歩いていく。「しっかりしてるね」とよく云われました。しかし、それもいまとなっては誤解に思えて仕方がありません。本当にしっかりしているなら、こうして願書を出しそこなうようなこともなかったでしょうから。


 母の干渉があるとすれば、それは「悪魔の誘惑」がわたしに魔の手を伸ばしたときくらいのものでした。


 母は云わばルール違反のときにだけ笛を鳴らす審判のようなもので、わたしがラインの内側にいさえすれば、たとえそこで何をしていようとまったくと云っていいほど干渉しなかったのです。



 毎日を無為に送っていると、またあの青年の言葉が蘇ってきます。十八歳まで、という自分の言葉も精神を圧迫しました。


 時間はただ過ぎていきます。わたしは逃げ場を求めました。図書館です。貸し出し冊数の限界まで本を借り、それを二日三日で読みきってはまた新たに本を借りていくというサイクルがしばらく続きました。そうして、始終、本の世界に浸っていると不安を忘れることができました。しかし、それも刹那的な逃避にすぎません。やがて図書館も年末の休館日に入り、新年が押し迫ってくるとわたしはいやでもぼんやりと霧散した未来に目を向けなければなりませんでした。


 そのときからふと霧の向こうに見えるようになったのが首吊り縄です。そして、それはそのまま拡大自殺の夢想へと飛躍しました。幾度となくくり返されてきた思考の筋道です。殺人と自殺。それは分かちがたい双子のようなものでした。自分のような社会的無力者は死ぬしかないのだ、そしてどうせ死ぬのならこの世界に復讐してやろうという発想はどんな数式よりもシンプルで説得力があるもののように思えたのです。


 誰も彼も死んでしまえば善い。


 それがわたしの口癖になりました。それはたとえば街中で、自分の部屋で、何度も繰り返すことになる言葉でした。


 もちろん、わたしは芥川が見たような地獄を知りません(阪神大震災の折には、わたしの街も震度三の揺れがあったそうですが、早朝だったためにぐっすりと眠っていたわたしでした)。瓦礫と化した街に立ったことも、腐敗した子供の死体を目にしたこともありません。そのような感慨に至る芥川の精神は想像もできません。


 ですから、わたしがこの台詞を借りたとしてもそれは思春期らしい厭世を気取っているようにしか聞こえなかったでしょう。そしてそれは事実でした。作品の全体の文脈を読み取る能力に欠けるわたしにとって、細部の強い言葉に影響を受けるのは当然のことでした。


 何も本気ですべてが滅んでしまえばいいと思っていたわけではありません。ただ、先行きの見えない人生を眺める時に自然とその言葉が漏れるというだけです。


 誰も彼も死んでしまえば善い。

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