第25話 パーフェクトアローン その2
高校卒業認定試験はとある私立大学が都心に構えるキャンパスで行われました。
時間ぎりぎりで家を出たので、道に迷ってしまったときはどうしたものかと思いましたが、人に訊ねるのも億劫で、住所を頼りに自力で校舎を探しました。最終的に学校のものと思しき塀を見つけ、それをぐるりと回って正門を見つけることができたときはそれはもうほっとしたものです。
門をくぐると、そこは若者の吹き溜まりでした。わたしのように高校を中退したばかりのクチがどれだけいるのかは定かではありませんが、年齢はそうばらついていません。試験の性格を考えれば当然の話ですが、そのほとんどが大学生と云って通る若い男女でした。どういうわけか群れて談笑している面々もいます。仲間で揃って高卒認定試験を受けるというのはどういう状況なのか、わたしには想像がつきませんでした。
自分が大学に進学したら、こういう連中に取り囲まれて日々を送ることになるのだろうか――そう思うとひどく不安でした。
わたしは正門のそばに設置された受付に書類を提出し、試験会場となる部屋に向かいました。大学の校舎に入るのはそれが初めてでした。わたしはオープンキャンパスにも行ったことがないのです。それまでは大学から送られてくる資料に目を通すのが精々でした。写真の中の大学はほとんど非現実的なほど清潔で整然とした印象があり、それを自分の将来と結びつけるのは難しく思えました。
しかし、実際に足を踏み入れるとなんと云うことはありません。わたしが通っていた高校と似たり寄ったりのくすんだ建物でした。壁には染みが浮き、床の隅には埃が溜まっていたくらいです。大学もまた物理法則に従属する現実なのだと、そのとき初めて実感しました。
指定された部屋のドアを開けると、横長の机がずらっと並んだ広い空間が開けました。ここだけは確かに高校とは趣が違います。なるほど、これが大学の教室というものか、と感心したのをよく覚えています。わたしは窓際の席に着き、試験が始まるをの待ちました。
わたしが受けるべき科目は以前述べたとおり二つ。人によっては朝から夕方までかかる試験も、わたしは二時間でパスできる仕組みでした。
やがて試験監督が訪れ、問題冊子とマーキングシートが配られました。
試験開始と同時に冊子を開きます。最初の問題から順番に解いていきました。すべての問題を解くのに三十分とかからなかったでしょう。残り時間は冊子の裏に落書きをして潰しました。試験終了の合図がかかったとき、冊子の裏は髑髏や天使といったモチーフでいっぱいになっていました。
わたしが受ける試験はちょうど昼休みをまたぐかっこうで組まれていました。 世界史のテストが終わり、さて昼はどうしようかと門の辺りをふらふら歩いていると、短髪に眼鏡をかけた、わたしよりもなお背が高い男の人に声をかけられました。自分も一人だから、近所のマクドナルドで一緒に昼食はどうかと。
これは何か危険な話なのだろうか。そう訝りましたが、悪い人には見えません。むしろ、誘いを断ったらその場でしゅんと落ち込んでしまいそうな気の弱い青年に見えました。これは、断りづらいな。そう思って青年の誘いを受けました。
われわれはハンバーガーを受け取ると、二階の席に陣取りました。青年はテリヤキバーガーのセット、わたしはチーズバーガーを一つ頼んだだけでした。マクドナルドまでの道行きではお互いほとんど喋りませんでした。そして席についても沈黙です。一体何のための誘いだったのか、この人は一人で昼食をとることに恥を覚える人種なのか、とわたしが疑念を膨らませ始めた頃、青年はようやく口を開きました。
――何歳ですか?
試験の昼休みにどうしてこんなお見合いのような問答をしなければならないのだろう――心中で嘆きながら答えました。
――十七。
――そ、そうですか。あ、私は十九なんですけどね。
私、と云うのがその人の一人称でした。変な人だな、と思っているとそこから始まったのが聞いてもいない身の上話です。
――高校は三年のときに辞めまして、そこからずっとフリーターなんですよ。ある意味では気楽ですけど、やっぱり下っ端じゃ辛いことも多いし、将来どうなるかわからないでしょう? それでいまからでも大学に入りなおそうかなって。来年には二十歳ですしやり直すなら今年が最後のチャンスでしょうし。つり橋が落ちる前に、向こう側に渡っておかないと。
つり橋とは大仰なことを云ったものだと思いました。大学に進学するのに十九も二十も違いはないように思えたのです。それはおそらく、わたしには十八というタイムリミットがすべてだったからなのでしょう。その先のことは、まったく考えていませんでした。
彼が話す間、わたしは相槌を打つでもなく、のろのろとチーズバーガーを口に運んでいました。
――あ、ピクルス残すんですか。解ります。あれ、邪魔ですよね。だからと云って、注文のときに抜いてくださいと云うのも気が引けるし……それで、何の話でしたっけ。ええと……まあ、いいか。とりあえず、お互い大学くらいは出ておいた方がいいということで。大学は受けるんですよね?
ピクルスよりもあんたの方が邪魔だ――そう云う代わりに、軽く頷きました。
――あの、よかったらアドレス交換しませんか?
大学へと戻る途中、青年にそう持ちかけられました。それが彼にとって思い切った提案であることは容易に解りました。おそらく普段はあまりコミュニケーション能力に秀でたタイプではないのでしょう。会場でも騒々しい若者に囲まれて不安な思いをしたのではないでしょうか。わたしを食事に誘ったのも、自分と同種の匂いを嗅ぎ取ったからだったのかもしれません。しかし、わたしの答えは最初から一つしかありませんでした。どこか安堵するような気持ちでこう答えます。
――携帯、持ってなくて……
勉強に行き詰っている。それは充分に自覚のあることだったので、高卒認定試験は心配でした。しかし、それがひどく簡単だったので拍子抜けしました。なんだ、どうにかなるもんじゃないかと。
次の試験はセンター試験です。それもきっとどうにかなるだろうと、楽観を覚えました。それが誤りだと気づくのは、その僅か数ヵ月後のことです。
センター試験の願書提出は十月上旬に締め切りを迎えます。
高卒認定試験が終わり、その時期が近づいてくるとわたしは徐々に焦りを覚えてきました。その焦りは、センター試験の過去問を繰り返し解いても消えませんでした。志望校がいまだ決まっていないうえに、センター試験に関してほとんど情報が入ってこないからです。
思えば、高卒認定試験のときは簡単でした。わたしはほとんど何もしていません。試験の願書も科目免除の申請も周りがお膳立てを整えてくれました。回ってきた書類に流れ作業のように必要事項を記入すれば、それで事態は円滑に進みました。しかし、今回はまるで動きがありません。ペンを構えて待っていても、書類は一向に回ってきませんでした。
全部、自分でやれ。いっそ、そう云われれていればどれだけよかったことでしょう。指示さえあれば、わたしは書類を取りに走ったかもしれません。しかし、それさえありませんでした。誰も何も云わず、わたしが受験生であることさえ忘れているようでした。
願書くらいは手に入れなくてはならない。
しかし、どうやって?
わたしにはその方法が解りませんでした。
自宅にインターネット環境でもあれば、それで調べることもできたでしょう。しかし、わたしはそういう点でも社会から完全に孤立していました。
そうしている間にも日付は進みます。九月が終わり十月に。いっそこのまま受験をやめてしまおうか。そんなことを思うと、高卒認定試験で出会った青年の言葉が頭をよぎりました。
「つり橋が落ちる前に、向こう側に渡っておかないと」
これはまさにつり橋なのだ、と思いました。渡るには勇気が必要ですが、そのままじっとしていては向こう側に渡れません。背後から迫ってくる闇に呑まれてしまいます。逃げろ、つり橋が落ちる前に……
しかし、そうやって自分をせきたてても誰かに聞くということができませんでした。
わたしはよっぽど母と相談しようかと思いましたが、それはやはり高いハードルでした。砂漠の生活は、わたしを単独で完結した存在として作り変えていました。わたしは、もはや、人と話すことさえままならなくなっていたのです。
一日、また一日と時間は容赦なく過ぎていきます。ぐらぐら、ぐらぐらとつり橋が揺れるのが見えるようでした。
そして、つり橋は落ちました。
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