第22話 18―エイティーン その1

 人間にとって読書とはどのような意味合いを持つのでしょうか。


 ニーチェは読書とは他人の自我にたえず耳を貸さねばならぬことと云いました。これはわたしにとっても興味深い格言です。他人の自我というものほど、わたしの関心から離れたものもなかったからです。


 わたしにとって本とは興味深いギミックに満ちた無機質な玩具に過ぎず、そこに他人の声を聞き取ろうとしたことはほとんどありませんでした。


 後に他の読者家の声を聞くようになると、わたしはしばしば驚かされたものです。同じ作品を読んでいても、彼らはわたしがすっかり忘れてしまったような台詞やシーンを細かく覚えているばかりか、その感動を自分の言葉で表現できたのですから。それは、登場人物を盤上の駒としか考えられない自分には衝撃でした。自分の読み方がいかに浅いものだったかを知るのはその頃です。他人の自我に耳を閉ざしたままでは、小説の真の魅力には気づけないのだと。


 どうして、そうなってしまったのでしょう。どうして、そのような自閉的な読み方を身に着けてしまったのでしょう。その原因を探るにはやはり小説との出会いから振り返るしかないと思います。


 教室の喧騒が苦痛になり始めたのは信仰を失って間もない頃でした。これは友達ともクラスが別になり、砂漠へと一歩足を踏み出した時期でもあります。


 話す相手もなく、一人ぽつねんと座っていると休み時間の教室というものがいかに多くの言葉で満たされているかが解ります。それは自身も喧騒の一部だった頃には想像しえないほど不快なものでした。


 その頃にはもう、人間をまるで信じられなくなっていたわたしにとって、他人の言葉とは悪意ある銃弾に違いありませんでした。休み時間の教室は云わば銃弾の飛び交う戦場です。四方八方を飛び交うノイズの中に身を置いていると、それだけで体を蜂の巣にされるような苦痛を覚えたものでした。


 こんな空間にはいられない――わたしは自分の意識を喧騒から切り離す必要を覚えました。そのとき、白羽の矢が立ったのが他ならぬ読書だったのです。


 そういう意味で、わたしにとっての本とはiPodやウォークマンと同じと云えるでしょう。外界の雑音をシャットアウトし、他人の自我に耳を閉ざすためのツール。いまいる空間から自分を切り離し、独立した空間に閉じ込めるためのツール。


 それがたまたま読書という形をとったのは、校則上、教室に持ち込める娯楽が活字の本しかなかったという、ただそれだけの理由でした。



 しかし、読書の目的が他人の自我から意識を切り離すことである以上、その読み方も歪なものにならざるを得ませんでした。


 わたしが好んだのは、娯楽小説の中でも特に本格ミステリと呼ばれる小説ジャンルでした。綾辻行人や有栖川有栖の登場以降、この国で独自に発展しいまなお隆盛を誇る(少なくとも他国に比べればそうでしょう)文芸ジャンルです。


 本格ミステリはしばしばプロットの文学と呼ばれます。パズラーという異称もあります。心理描写の妙や、文学的な感動よりも精密機械に喩えられる構成の緻密さや、びっくり箱的なサプライズの演出、よくできたパズルのような推理の美しさに価値を見出すのです。その作品世界は云わば、人間の手を離れた無機質な箱庭。もちろん作家によって多少の違いはありますが、その重点が無機質な仕掛けにあることは変わりません。その無機質さは、わたしのような読み手にとってとても心地よいものでした。仕掛けとプロットにだけ着目していれば、それで充分楽しめたのです(もちろん、それは読書の興を自ら削ぐ読み方に違いませんが)。


 問題なのは、その読み方をミステリ以外のジャンルにおいても引きずってしまったことでした。


 たとえば、高名な文学作品に手を出したときです。わたしにもそれなりの数の小説(本格ミステリ)を読んできたという自負がありましたから、自分にはきっと「解る」はずだと文章とにらめっこするのですが、その成果はついぞ現れませんでした。その美点がさっぱり理解できないのです。きっと、その作家が肌に合わなかったのだと、別の作家に手を出しても同じです。仕掛けもなければ、引っかかりもない、主題さえも判然としない、こんな小説をいったい誰が楽しめるのだろうと首をかしげたものでした。


 この「解らなさ」はそのまま不安につながりました。そこで頼ったのが文庫本の巻末に収録される解説です。わたしはときに作品そのものよりも熱心に解説を読み込ました。親切なことに、文芸作品の巻末にはたいてい文芸評論家による丁寧な解説が収録されていました(逆に、エンタメ小説の解説で、タレントが筆を執っているのを見るとイラっとしたものです)。


 しかし、それもいま思えばろくに理解できていなかったのでしょう。細かい文章にはふむふむと頷くものの、そのより大きな視野での理解はさっぱり。「これこれのシーンはだれそれの葛藤を浮き彫りにしている」だとか「暗くよどんだ物語の中にあってかれこれのシーンはこの作品の救いになっている」だとかいう文章を理屈では理解できても、それは数学の問題に対する理解と同じで、自身の感覚としてフィードバックさせることができなかったのです。なるほど、文学作品にもミステリと同じように作者の意図した技巧が至るところにあるのだと漠然と理解しただけでした。そこに描かれている人間心理の機微だとか、人生の警句にはまったく興味が持てなかったのです。いえ、持っていたとしてもそれは生身の人間ではなくよくできた人形に対する興味でした。わたしにとって小説とは興味深いギミックに満ちた玩具という以上の価値を持たなかったのです。そこに息づく他人の自我にはまるで無関心でした。

 


 その事情が少し変わったのは高校二年生の頃でした。


 わたしが再び読書に傾倒し始めるきっかけとなったのが、乙一の『GOTH』だったという話はもうしました。


『GOTH』。あの作品が自分の中で画期的だったのは、「共感」という読み方を教えてくれたところにありました。わたしも、自分に近い年齢や考え方の人物にはかろうじて共感、あるいは感情移入できることを知ったのです。なぜ、もっと早くこういう本に出会わなかったのかと、自分の不運を嘆きました。しかし、それだけに目の前にはまだ見ぬ本との出会いで溢れていました。わたしはまだ学校に通っていた頃に図書室のパソコンを使いインターネットで本の情報を求めました。メフィスト賞なる文学賞の存在を知ったのもこの頃です。その賞には、年若くしてデビューした作家が少なからずいると云うのです。その年はちょうど北山猛邦と西尾維新がデビューした年でした。年を遡れば、他にも佐藤友哉、浦賀和宏と云った若い作家がいます。


 ファウスト系。後にそう括られることになる彼らの作品は登場人物もまた十代の若者が中心と聞き、わたしは本屋に走りました。


 結果として、わたしはそれらの作家にどっぷりはまることになりました。


『『クロック城』殺人事件』には自分の好きなものだけに囲われる心地よさを感じました。この人の書く作品なら何でも読んでみたいと思いました。


『クビキリサイクル』にはシニカルな語り手いーちゃんに心を鷲掴みにされました。夜を徹して読み終え、目覚めればすぐに次作を求めて本屋に向かいました。


『フリッカー式』には世界に皹を入れられました。読み終えてしばらく現実に戻って来れなかったのをよく覚えています。


『記憶の果て』は、その内容に反発しながらも惹きつけられずにはいられませんでした。続く作品を読み進めるうちにこれはとんでもない作家だぞと舌を巻いたものでした。


 その頃のわたしにとってはほぼ毎日が世界が変わるような衝撃で満たされていました。一日に二冊、三冊、四冊と貪るように読むことができたのはあの頃くらいのものです。今はたとえ暇ができてもそのような読み方はできないでしょう。もしも、他人の自我というものに熱心に耳を傾けていた時期があるとすれば、あの頃を置いてほかにはないはずです。


 尤も、それはあくまで読書に限った話でした。わたしはきらびやかな虚構に戯れるばかりで、みすぼらしい現実のことになどまるで注意を払っていなかったのです。リストカットの件で与えた誤解は放置したまま。大人たちと膝を突き合わせて今後のことについて相談しようなどという気もさっぱりありませんでした。やはり他人の自我には耳を閉ざしたままです。それはまさに後に知る「人生は一行のボオドレエルにも若かない」という格言を地で行くような生活でした。

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