第20話 こうして僕は学校を辞めることにした その1
雄弁は銀、沈黙は金ということわざがあります。その伝で云うなら、あのリストカット事件の後わたしが取った態度は「金」に違いありませんでした。物事を成すがままに任せ、まるで他人事のように静観を決め込む――
やったことと云ったら、退学届けに必要事項を記入しそれを学校に提出したことくらいでした。
リストカット事件の後、わたしはほとんど休学のような扱いになってしまいました。担任にはしばらく学校を休むように云われ、母もそれを勧めました。
興奮が冷めてくると、まずやってきたのはこれからどうなるのだろうという不安でした。あの事件以来、母も教師も、わたしを腫れ物扱い。触れようともしません。不意に訪れた静かな時間を、わたしは本を読んで過ごしました。それは心地よいといえば心地よい生活でしたが、判決を待つ未決囚のような不安があったのも事実でした。
わたしはこの静寂を破られることを恐れていました。授業中の教室で手首を切るという問題行動をとっていながら、わたしはまだ何のお咎めも受けていませでした。それがいつまでも続くとは思えません。いつかきっと、大人たちがやってきて静寂を破るでしょう。叱られるのか、懇々と説教をされるのか。具体的にどうなるかは解りませんが、とにかく何かしらの動きはあるはずです。わたしが置かれているのは嵐の前の静けさでした(尤も、静かなのはわたしに見えるところだけだったようです。後に知ることになりますが、大人たちはわたしの今後の処遇について頭を悩ませていたようでした)。
やがて冬休みが訪れ、そして年が明けました。その間も大人たちは何も云ってきません。三学期が始まってしばらくすると、ようやくと云うべきか動きがありました。
母が何かの書類を持って部屋に入ってきたとき、わたしは例によって読書の最中でした。来るべきときが来たか、と思いながらも本を閉じることもなく話に耳を傾けます。きっと愉快な話にはならないだろう。そういう予感がありました。いざとなったら、すぐに活字の世界に意識を飛ばすつもりだったのです。わたしは息を飲んで母の言葉を待ちました。
母が持ってきたのは、通信制の高校や高等学校卒業程度認定試験の資料でした。どうやら、担任のQ先生がインターネットからプリントしたもののようです。
退学。
いよいよ、その可能性が立ち現れたわけです。そのことについて何かしらの話があるだろうと身構えましたが、結果は拍子抜け。母はわたしにクリップ止めされたコピー用紙の束を渡し、それについて簡単な説明をすると、部屋を出て行ってしまいました。
お咎めはありませんでした。
いったい何が起こっているのか。この気味の悪い静寂は一体何なのか。そのとき、ようやく思い至ったのが、周囲がわたしに抱くイメージのズレです。
わたしは自分の意見を主張しないがために、誤解を受けやすいところがありました。あのリストカット事件に関してもその誤解が起こったのでしょう。大人たちはあの暇つぶしのリストカットに必要以上に深刻な意味合いを付加してしまったようでした。
わたしはしばしば意図的な奇行を演じてきました。「変人」というラベルを貼られることで、他人の目を自分の本質からそらすためです。奇行はわたしにとって日常茶飯事のものでした。そのことはクラスや教師の誰もが知っていたはずです。ですから、手首を切ったのだって、その奇行が行き過ぎただけのものとして処理されるだろうと思っていたのです。
それがどうでしょう、今回わたしが張られたラベルは「学校に適応できずに追い詰められた生徒」でした。「こわれもの」と云い換えてもいいかもしれません。大人たちのあの気味の悪い穏やかさは、つまり、「変人」ではなく「こわれもの」を扱う慎重さだったのです。
雄弁は銀、沈黙は金ということわざがあります。世間では「沈黙は雄弁よりも価値がある」という意味で広まったことわざですが、本来の意味はまったく逆だったそうです。このことわざが生まれた古代ギリシャでは、銀は金よりも価値あるものとして扱われていたのです。古代ギリシャ人にとっては、雄弁は沈黙よりも重要でした。
わたしもその考えにある程度同意します。
沈黙は、ただ誤解を誘うだけです。
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