第17話 残酷系 -goth その1-
二〇〇〇年五月三日。ゴールデンウィークの真っ只中、西鉄天神バスセンター行きの西日本鉄道の高速バス「わかくす号」の車内で事件は起きました。
「おまえたちの行き先は天神じゃない。地獄だ」
そう云って、運転手に刃渡り四十センチの刃物を突きつけたのは、当時十七歳の少年でした。
俗に云う西鉄バスジャック事件です。
日本のバスジャック事件史上、はじめて人質に死者を出した事件としても有名なこの事件は、前日に起きたやはり十七歳の犯行である豊川主婦殺害事件と並んで、あの年を席巻する「キレる十七歳」現象の先駆けと云っていいでしょう。
――すごいことになってるな。
中学三年生の当時、休暇明けがあけるのが待ちきれなかったとでも云わんばかりに、東野は事件について語り倒したものです。
前にも述べたとおり、わたしたちにとって一連の事件は、云わば、自分と同年代のスターに対するミーハーな興味と変わりませんでした。ゆえに――東野はどうか解りませんが――その熱狂が覚めるのも早いものでした。この事件への関心もそうですが、あの二〇〇〇年の熱狂をピークとして殺人に対する興味そのものも次第に薄れていったのです。殺人の物語は、わたしにとって気晴らしに読む小説も同然だったのでしょう。
それが変わったのは、高校に進学し砂漠の生活を送るようになってからでした。
高校に入ってから意識するようになったのが、いわゆるモラトリアムの残り時間でした。高校を出て就職するのなら、三年。大学に進むなら、七年。高校をやめれば……
社会は常にわたしに圧迫を与えました。その準備段階と云うべき学校でさえそうなのです。これが就職となれば、どうなるでしょう。それは想像するだに恐ろしい未来でした。
モラトリアムは長いに越したことはない。高校くらいはきちんと卒業して大学に進もう。そういう結論に至るのに、たいして時間はかかりませんでした。
学年きってのサボり魔だったわたしが、留年を避けることができたのは、そういうモチベーションがあったからに違いありませんでした。Wのスピーチに触発されたわけではありませんが、ここでやめるわけにはいかないと、意地でも学校生活に食らいついていくつもりでした。
出席日数はラインをぎりぎり上回る程度だったと思います。最後の最後、三学期にがんばって登校していなければ、そのラインを下回っていたかもしれません。ですので、ある日教室の黒板に「三組全員進級決定!」と書かれていたときはほっと胸をなでおろしたものです。
それでも、まったく無傷の進級というわけではありませんでした。案の定と云いますか、体育の単位を落としてしまったのです。そして、その不足分は卒業までに補修という形を持って取得しなおさなければなりませんでした。
もしも、その時期の早朝に■■高校の前を通りかかれば、体操服姿で学校の塀の周りを走る生徒たちの姿が見られたはずです。それは運動系の部活のトレーニングではなく、体育の単位を取りこぼした生徒たちの補習だったのです。その集団の先頭に近いところで走っていたのがわたしでした。
補習として選ばれたのがこの早朝のマラソンでした。授業が始まる一時間前には学校につかなくてはなりません。これはただでさえ寝坊しがちなわたしにはハードだったものです。学校の外を走らせられるというのも、わたしたちが置かれた状況を意地悪く暗喩したもののように思えました。それでも、ここでやめて社会に放り出されるよりはマシなのだと、肉体的な苦痛など社会の無秩序的地獄に比べればたいしたことはないのだと自分を鼓舞し、なんとか食らいついていきました。
それまで部活に所属することのなかったわたしにとって、早朝の学校は新鮮な世界でした。春先の早朝はまだ空気が肌寒く、人気のない通学路、がらがらに空いた駐輪所も同じ場所とは思えない寂寥さがありました。校舎にもまだ人影は少なく、階段や踊り場で吹奏楽部員が練習しているのを見かけるくらいでした。グラウンドでは運動系の部活がすでに練習を始めており、クラスでは大人しい印象のRがサッカー部のユニフォームを着てグラウンドを駆け回っているのには驚かされたものでした。わたしはそんな学校の風景を尻目に更衣室へと向かい、そこで体操服に着替えると、通学用に開かれた正門とは別の門の前に集まり、そこで他の生徒とともに体育教諭が来るのを待つのでした。
そんな慣れない生活にもなんとか「食らいついて」いけたのは、マラソンという競技の気楽さのためもあると思います。
わたしが体育を苦手としたのはその運動能力の低さそのものよりも、失敗したときに教師や同級生から受ける叱責――あの体育会系と呼ばれる「オラオラ」な空気感にありました。
わたしは筋力や敏捷性、反射神経などの基礎的な運動能力の以前に、リズム感覚や、他人の動きをトレースする能力に致命的なまでの欠陥がありました。幼稚園の頃はお遊戯の動きがうまくできず、小学生の頃はスキップができないことでふざけてるのかと叱責を受けました。水泳ではクロールの息継ぎができないため、十メートル前後で足をつくのが常でした。大縄跳びでは、わたしが入る順番になるとみんなが絶望的な顔をするのが解りました。球技などはそれはもう壊滅的です。ドッヂボールではボールをうまく受けられないため逃げに徹するしかありませんでした。バスケットにせよ、サッカーにせよ、ドリブルというものがどうしてもできませんでした。レイアップシュートの練習は何度やっても「走って投げてるだけやん」と云われました。野球には一時期熱中しましたが、ボールを狙ったところに放ることはできても、反対にそれをキャッチすることや、バットでミートすることは最後まで苦手のままでした(どうやらわたしには、コミュニケーションだけでなく、ボールをレシーブする能力にも欠陥があったようです)。
それが、走るだけなら誰に迷惑をかけることもありません。そもそも、走っている間は教師の干渉さえ受けることさえないのです。マラソンとは孤独な競技でした。その自己完結性がわたしには心地よいものだったのです。
また、マラソンで問われるのは純粋な体力。それだけだったのも大きかったと思います。走るフォームや呼吸のリズム、ペース配分といったテクニックは必要になってきますが、それも他の競技に比べればずっと少ないものです。がんばればがんばるだけ速く走れる分、わたしにはむしろ達成感があり、楽しく思えたほどでした。そのうち、わたしは集団を率いるかっこうで走ることになります。
これは高校を出てずっと経ってから気づいたことですが、わたしは身体を動かすこと自体は決して嫌いではないのです。もしも、教師の指導のあり方が違っていれば、それがために学校をサボり、単位を取りこぼしたりすることもなかったのかもしれません。わたしはそういう意味でも教育というものを恨まずにはいられません。自分がやったことへの後悔も、生まれません。
もしも、というなら他にもあります。たとえば、補修の条件がもっと融通の利くものであったならばどうだったろう、と。
補習が始まってしばらくすると、何人か脱落者が現れました。早朝、塀の周りを走るメンバーは徐々に減っていきます。わたしは何とか食らいついていました。一度でもサボれば、その時点でまたも単位をとり逃すことになるからです。息を切らせながら走るその背後から、「社会」が口を開けて追いかけてくるようでした。わたしは負けるもんかとますます足を速め、意地でも食いついてやるのだと、こんなことはこの一年で終わらせて、自分は学校の中に戻るのだとそう、自分を鼓舞するのでした。
しかし、それにもやがて限度が来ました。
補習のある水曜日の朝、目覚めるとすでに陽が高く上り、時計の針は午前十時を指していました。
それは意図的なサボりと違ってまったくの不可抗力でしたが、わたしは補修のある朝を寝過ごしてしまったのです。わたしは何かの見間違いだろうと時計の針を凝視し、自分が寝ぼけているに違いないと時計の読み方を習ったばかりの小学生のように文字盤を何度も確認しました。
それが動かしようのない現実だと気づいたとき、それまで積み上げてきたものががらがらと崩れ去る音が聞こえるようでした。
すべて、無駄でした。
もう今年は単位を取り直すことはできません。また来年、受験を控えながらも塀の外を走らされることになるのでしょう。しかし、今年できなかったことがどうして来年にできるでしょう。きっと自分はまたどこかで失敗する。躓いて転んで、逃げていく単位を追いかけることもできない。
何度やっても同じ。そんな気がしました。張り詰めていた気持ちが、それで切れてしまったのでしょう。わたしは学校に行かなくなりました。
学校を休むことは、難しくありませんでした。母がもとより現行の教育制度に疑問を持っていたのは先述の通りです。
わたしが望めば、それはもう簡単に学校へと欠席や遅刻の連絡を入れてくれるのでした。まさか、わたしがいじめられているとか体罰を受けているとか、そこまで想像していたわけではないでしょうが、わたしが覚える苦痛だけはいくらか伝わっていたのでしょう。以前、懐に忍ばせたカッターを没収されたのは、正解だったのかもしれません。我が家はおよそ会話らしい会話のない家庭でしたが、あの「リトル・フレンド」が何より雄弁にわたしの苦境を物語ってくれたのですから。
そういう意味で、母はわたしに甘かったと云えます。教団の教えを厳守するように云い含める一方で、世俗的な苦しみにはほとんど過保護と云ってもいい態度をとるのが常でした。それは、教団の教えを守ることになんら苦を覚えないわたしにはきわめて都合がよかったのです。のほほん生きてるだけで、手厚い保護が受けられるのですから。
登校拒否を続けていると、二日、三日と誰とも話さないで過ごすのが当然になりました。それが寂しいと思ったことはありません。一人でいる分には、気安いものでした。誕生日の教室で覚えたような、息苦しさもありません。
そもそもが会話の多い家庭ではありませんでした。母は妹につきっきりでしたし、父は遅くまで仕事でした(特に、父の存在感は希薄で、幼少期、単身赴任に出ているのを「死んでしまった」と勘違いしたことさえありました)。
その頃にはもう、携帯電話が相当に普及していましたが、わたしには無縁な代物でした。前にも述べたとおり、わたしには電話恐怖症のきらいがあるうえに、両親が子供に馬鹿高い機器と通信費を与えることに難色を示していたからです。友達からのメール、電話。そんなものが来るはずがなく、わたしは一人きりの家で、日がな一日活字に向き合っていました。ミステリー小説や実録犯罪もののノンフィクション、英語やドイツ語の辞書、世界地図、国語の便覧……
高校生活二度目の夏休みを迎えたのは、登校拒否を始めてから間もない頃でした。
「時間をやるから自分の生活を見つめなおせ」。そう云われているような気がしました。
補習は失敗した。それどころか、このまま学校を休み続ければ三年への進級さえ危うい。自分のモラトリアムは後どのくらい残っているのだろう。そんなことを考えることもありました。しかし、やがてそんな問いかけも無意味になっていきます。そのきっかけをもたらしたのは、一冊の小説との出会いでした。
乙一の『GOTH』です。
友人や家族との会話にリアリティを感じない主人公「僕」と、整った顔立ちを持ちながらクラスでは浮いた存在である森野夜。この二人の絆をつなぐのは、首を括りたくなるような陰惨な物語、猟奇と殺人の物語でした。わたしがそこに自分と東野の関係性を重ねたのは云うまでもありません。
社会との間に齟齬を覚える主人公像という意味では乙一の既存作を踏襲したものに違いありません。しかし、それまで自分と同年代の男女を主人公とした小説を読んでこなかった自分には、この造形は衝撃でした。映画、アニメ、漫画……今まで触れてきたどのような虚構もこの二人のような魅力的な主人公には出会わせてくれませんでした。そこに描かれるような心地よく体温の低い「青春」には出会わせてくれませんでした。二番目に収録されている短編「暗黒系」を読んだとき、わたしは「この二人は自分だ」と心中で叫んだものです。
後に本を三食の食事のように無節操に消費するようになるわたしですが、当時は違いました。わたしにとっては出会う一冊一冊が特別なご馳走、生涯付き合う友人のような価値を持っていたのです。ですから、ええ。『GOTH』もまたわたしに強い影響を与えました。
その影響の一つは刃物の携行でした。
主人公の「僕」はとある殺人鬼の部屋からナイフを持ち出します。自分もナイフがほしい――そう思うようになったのはきわめて自然な心理でした。と云っても、本物のナイフを持ち歩くのはやはり気が引けましたから、馴染み深いカッターナイフを家から持ち出すことにしました。
そしてもう一つが、殺人趣味の復活です。熱中したように、わたしも再び血なまぐさい殺人鬼たちの世界に舞い戻ったのです。
そのとき発見したのが、殺人者たちを人生の落伍者として自分に重ねる考え方でした。
殺人者。その多くが落伍者の人生を歩んでいました。明晰な頭脳を持ちながら、持病と貧窮のため自身が望むような教育が受けられなかった都井睦雄。高校をドロップアウトしてストーカーと化した猛末期頽死。自身、現在進行形でアウトサイダーへと転落していくわたしにとって、殺人鬼たちのストーリーは安い青春ドラマよりもよっぽど心に沁みるものでした。ですから、どうしても、それを悪と断じることはできませんでした。ふとしたことで燃え上がるわたしの義憤、正義感も、この殺人者たちに対しては寛容でした。
当時のノートを読み返してみると、夢野久作の猟奇歌にでも影響されたのでしょう、こんな短歌が残されています。
「助けて」と
殺すお前が
殺される俺より悲痛な叫びをあげる
わたしにとって、その種の殺人の物語に親しむことは、アウトサイダーの慟哭に耳を傾けることに他なりませんでした。世間に見向きもされなかった魂が、叫ぶ呪詛。憎悪。それはフランケンシュタインの怪物が自身の創造者に対して訴える悲痛にも通じる切実さがありました。それが胸を強く打ったのです。
わたしもこの世界が不条理なものに思えてしかたありませんでした。憎くて、呪わしくてしかたありませんでした。世界の窓口である学校という制度にも強い怒りが芽生えました。思えば、わたしはいつもこの学校だとか教育だとか云うものに振り回されてきたのです。どうして恨まずにいられるでしょう。
西鉄のバスジャック犯に対する見方が変わったのもこのときです。それは云わば、憧憬から共鳴への変化でした。
犯人の少年は当初、高速バスではなく母校の中学校に襲撃をかける予定だったと云います。それは、彼が中学校で苛烈ないじめを受けていた、その復讐という意味合いがあったのでしょう。少年は高校も入学してすぐにやめています。
世界への、学校への憎悪。孤独。疎外。ルサンチマン。復讐心。犯人の少年が感じたであろう絶望が次第にわがことのように思えてきました。
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