第16話 僕は友達ができない その2
結局、わたしが原稿を書き終えたのは、本当にぎりぎりのタイミングでした。スピーチの授業も進み、もはや発表を控えた生徒はわたしを含む数人だけ。次の時間には、その全員が発表を終えていなければなりませんでした。
原稿はまったくと云っていいほど進んでいませんでした。白紙に近い状態です。しかし、何度も畳んでは広げ、欄外にメモなどを書き込んでいたので、いつの間にかぼろぼろになっていました。
やけくそになったわたしは、スピーチの授業が終わるその前日の夜に、勢いに任せるまま文を書き連ね、特に推敲をすることもなくそのまま学校に持っていきました。先生のチェックを受ける暇もありません。
四時間目、総合学習の時間が始まると、残された生徒の発表順が決められ、わたしは最後から二番目に発表することになりました。
一人、また一人と発表を終え、やがて順番が回ってきました。わたしは連夜の格闘でくたくたになった原稿用紙を持ち、壇上に上がりました。そして今にも消え入りそうな声で原稿を読み始めました。
「自分は、今のままでいいのです。青春なんて嘘っぱちを押し付けないでください。そんなの、この年になってサンタを信じてるようなものです。幼稚なんです。自分はサンタも信じたことがありません。青春も信じたことがありません。それで困ったことは一度もないのです。世間が、青春青春とうるさく言い寄ってくること以外は」
「うまく説明できた自信はありませんが、これで自分の発表は終わりです。ありがとうございました」
一年三組の教室があれほどまでに純粋な静寂に包まれたのは、あの時くらいのものだと思います。それも当然でしょう。わたしは原稿の冒頭で宣言したとおり、彼らが嬉々として語った「青春」の嘘を告発したのです。
わたしは原稿用紙を畳み、壇上を降りました。どうにか終わったという安堵。やりきったという達成感。張り詰めていた神経が一気に弛緩し、全身から力が抜けていくようでした。
この空気の中で発表しなければならないW――わたしの後に発表する女の子でした――は大変だな、などと、他人事のように思ったりしました。
Wは小柄な女の子でした。快活な印象はないものの、友達と話せば普通に笑い、クラスにも溶け込んでいるようでした。わたしにとってはたまに森博嗣や京極夏彦の文庫本を持ち歩いていたことで印象深い人です。そして、あのときのスピーチ――
以下に掲載するのはそのときのスピーチの全文です。手元に原稿があるわけではないので正確な文面は解りません。ただ、わたしの覚えている限りで再現を試みました。
わたしはもうすぐ十七歳になります。クラスのみんなより一つ年上です。それは去年、学校を休みがちで進級できなかったからでした。病気だったわけでも、大きな怪我をしたわけでもありません。単純に学校に来るのが嫌だったのです。
こんなことを言っていいのか分かりませんが、わたしは高校受験に失敗しています。この学校に入学することになるとは思わなかったのです。それでずっといじけた気持ちでした。なにもかもがどうでもよくなって、それで学校をサボるようになってしまったのです。
そうやって休み続けていると、お母さんや先生にとても心配されました。迷惑をかけてしまったと、今では反省しています。けれど、そのときは自分のことで頭がいっぱいでした。他人のことなんて考える余裕がなかったのです。
やがて留年が決まると、わたしはいよいよ退学することを考え始めました。それを思い直したのは、お母さんに怒られたのもありますけど、何より大きかったのは、ここで逃げたら後でもっと苦しい思いをすると思ったからです。わたしはたとえ辛い思いをしても、今度はちゃんと学校に通おうと思いました。お母さんに頼んでもう一度やり直すチャンスをくれるように頼んだのです。
二回目の一年生が始まると、わたしは積極的に人に話しかけることを心がけました。留年していることを話すと、みんな少し驚きました。けれど、わたしはそれをなるべく明るく言うように心がけました。中学時代の面白おかしいエピソードを話すように、です。そうするとどうでしょう、だんだん友達ができるようになりました。去年はあんなに退屈だった学校生活がとても面白いものに変わりました。自分の心持を変えるだけで、世界はこんなにも明るくなるのだと気づきました。留年したのは後悔していますが、あの苦しい時期がなかったら決して気づかなかったことだと思います。人は失敗しても、それをばねにすることができる。それもまたこの二年で学んだことでした。辛い思いもいっぱいしたけど、その分だけ大事なことに気づけたと思います。
わたしの毎日はいま充実しています。それを青春と呼ぶかどうかは分かりませんが、他に何も思いつかなくてこんなことを書きました。わたしは部活をやっているわけではありません。将来の夢もいまはまだありません。部活でがんばってる人や夢をしっかり持って進路を定めている人に対して、胸を張ってこれが自分の青春だと言い張る自信はありません。みんなの発表を聞いていると、その思いはますます強くなっていきます。けれど、わたしはこれから友達との関係の中で夢を、進路を見つけたいと思います。そしてそれが見つかったら、それを目標にみんなに負けないくらい努力するつもりです。
また留年さえしなければ、わたしは十九歳で卒業式を迎えるはずです。そのとき、これが自分の青春だと胸を張って主張できるようになっていればいいなと思います。
Wの発表はわたしの胸を射抜きました。わたしたちの発表は云わばコインの表と裏でした。わたしの発表は青春をツリーのてっぺんからぶんどり、ドブに投げ捨てるものでした。しかし、Wはそれを拾い上げ、丁寧に磨き上げてまたあるべきところに戻したのです。これでは、わたしの発表が「いじけた」子供の八つ当たりにしか思えません。いたずらをやんわりと咎められたような、いたたまれない気持ちになりました。そのせいか、Wもどことなく肩身の狭そうな表情をしていたのを覚えています。
それから間もなくして、わたしは十六回目の誕生日を迎えました。かといって何かが変わるわけではありません。わたしはいつもと同じように十時過ぎごろに目覚め、誰もいない家でのろのろと朝食を食すと、休み時間を狙って家を出ました。外はその冬一番ではないかという寒さで、何度引き返そうと思ったか解りませんが、一度巻いたマフラーを解くのも億劫でそのまま学校へと自転車を漕ぎ出しました。
いつも通り正門をくぐり、教室へと向かいます。教室のドアを開けると、ストーブに暖められた空気がわたしの体を包み込みました。しかし、それだけです。わたしにかかる声はありませんでした。
これが去年までなら、東野や市川の口からおめでとうの一言でもあったのでしょう。しかし、わたしにはもう友達がおらず、また挨拶をかけてくる同級生さえいませんでした。
尤も、それが不満だったわけではありません。わたしはストーブの利いた空間にいられるだけでも満足だったのです(わたしの部屋にはホットカーペットしかありませんでした)。それに、その日はちょうど暇つぶしに買ったジグソーパズル(絵柄はダ・ヴィンチの『受胎告知』でした)を休み時間に組み立てようと思っていたのです。その箱を開けるときは子供のようにワクワクしたものでした。東野と別れておよそ一年。そのころにはもうすっかり孤独を飼いならしていていました。実際、その日の昼休みまではそう確信していたのです。
わたしにとって昼休みとは、食事よりも読書の時間でした。鐘が鳴るなり、図書室にでも足を向けそこで読書に没頭するのが習慣になっていました。だから、その日教室に留まったのは、たまたまジグソーパズルという遊び道具があったからに他なりませんでした。周囲が机を寄せ合い、和気藹々とした食事の時間を過ごす中、わたしは背を丸め、小さなピースをピンセットでつまみ、それをあるべき場所へとはめ込んでいきました。何かがはじけるような音が聞こえたのは、バラバラになった名画がその姿を半分ほど取り戻したときでした。
パン!
というその音を聞いたとき、わたしには何が起こったか解りませんでした。犯人が解ったのは、思わず音の方を振り向いたときです。
見れば、教室の廊下側に女子の群れができていました。そのうち数人の手にはパーティー用のクラッカー。ドアの前には、友人を伴って入室してきたWの姿がありました。クラッカーの歓待を受けたのはどうやら彼女のようでした。続いて聞こえてきたのは、あの忌まわしい歌です。
――ハッピバースデートゥーユー、ハッピバースデートゥーユー。ハッピバースデーディア……
それはWの名前でした。見れば、輪の中心の机には三本の蝋燭が立った小ぶりなホールケーキがありました。
「わたしはもうすぐ十七歳になります」
人を二十三人も集めれば、その中で誕生日が同じペアが生まれる確率は五十パーセントを超えると云います。一年三組には四十人の生徒がいました。ですから、客観的に見れば、それ自体は決して不思議なことではないのでしょう。わたしとWの誕生日が重なっていたからと云って驚くことではありません。確率の上ではそうです。しかし、そのときのわたしは――十六歳になったばかりのわたしは衝撃に打たれずにはいられませんでした。
――えっ、Wさん、誕生日なん? おめでとう。
そんな声がWを囲む輪の外からも聞こえてきます。祝福の空気は次第に教室を満たし、そしてわたしを圧迫していきました。
Wの机にはバースデーケーキ。わたしの机には完成しかかったジグソー・パズル……
自分が何か、不条理な脚本に踊らされているような気がして、思わず席を立ってしまいました。一刻も早くこの場所から逃げ出したい――そんな思いが働いたのです。そうでなければ、この教室を満たす幸福の空気に溺れ、窒息してしまいそうでした。パズルを片付けるのももどかしく、わたしは水底から水面を目指すようにして教室を飛び出しました。
図書室に逃げ込むと、わたしはそれでも足りないとばかりに本棚の陰に身を隠しました。まるで、それが堅牢な城壁や盾となって自分を守ってくれるとでも云うように。しかし、それはかえってわたしに重圧を与えるだけでした。四方から本棚が迫ってきて自分を押しつぶそうとしているかのような息苦しさを覚えたのです。
それは一人でいるときには決して気づかない苦しみ、悲しさでした。部屋でぬくぬくとしていては決して感じることのない冷たさ、世間の厳しさでした。
孤独とはすなわち無です。誰の助けも受けず、裸一貫で生きていくことです。それそのものに苦しみはありません。しかし、ひとたび風に吹かれれば、人は嫌でも実感せざるを得ないのもまた事実でした――何か身にまとうものがなくては、寒さに凍えて動けなくなってしまうことに。
自分は一人でいたいんです。部屋に閉じこもって本でも読んでいればそれで満足なのです。それを無理に外に引っ張り出さないでください。みんながみんな、幸せになりたいと思っているなんて勘違いはさっさと捨ててください。人には、幸福を拒む権利があってもいいはずです。
一人で生きて生きたい。それは偽らざる本音、心の奥底からの悲願でした。自ら望んで捨てた人とのかかわり、自ら望んで足を踏み入れた砂漠でした。傍らに望むのは神だけでした。それはいまでも変わっていません。
しかし、そのときばっかりはその意思が砕けそうになるのを禁じえませんでした。砂漠。その道行きは思った以上に厳しいものだったのです。
十六の誕生日プレゼントはとても苦い、苦い思い出でした。
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