高校編

第14話 図書室亡命

「高校での遅刻は一年から内申に響く」と脅したのは、始業式の集会で壇上に上がった生活指導の教師でした。しかし、この脅しはわたしにはまったく無力だったようです。


 わたしの遅刻癖は治りませんでした。


 当時のわたしの一日はこのように始まります。目覚める時間はまちまち。そこからすぐに登校の準備を始めるかどうかもまちまちでした。登校時間の前に起きてもそのまま二度寝を決め込むこともあれば、苦手な授業を避けるため読書で時間を潰すこともありました。朝食は六枚切りの食パンが一枚。ジャムやチーズを乗せることもなく、軽く水に濡らしてそのまま口に放り込みます。お皿も使いません。電気代とジャム代と水道代が嵩むのを嫌ったわたしは、いつしかそういうスタイルに行き着きました。


 家を出る時間は、いつも休み時間に到着するよう調整していました。家から学校までは自転車で二十分と云ったところだったでしょうか。オフィス街の端にある校舎が見えてきたところで休み時間のチャイムが鳴ると、自分の計算は正しかったのだとささやかな満足を覚えたものです。わたしは教師がいないことを願って正門に回り、閉じられた門の脇にある小さな扉をくぐりました。すでにいっぱいになった駐輪場の隙間を見つけ自転車を停め、下駄箱で靴を履き替えます。そしてのろのろと階段を上がっていくのです。


 わたしの高校は三つの棟がドミノのように並ぶ格好で建っていました。一年生の教室は中央棟の四階にあり、これを上っていくのがやや骨でした。階段の途中で何人かの見知った顔とすれ違いますが、特に挨拶のようなものはありません。ようやく階段を登りきると、わたしは自分の教室がある左には折れずに右側へと向かいます。四階にあるのは一年生の教室だけではありません。わたしが向かう場所、四階の端に位置するのは、何を隠そうわが安息の地。すなわちこの学校の図書室でした。


 わたしには指定席がありました。雑誌のラックの手前。二つ並んだ椅子の一方がそれです。わたしはラックから『ダ・ヴィンチ』を取り上げ椅子に座し、鐘が鳴るまでの時間を潰すのでした。この場所が学校におけるたった一つの居場所だったのです。


 何もはじめからそうだったわけではありません。何もはじめからこのような規範から逸脱した生活を送っていたわけではありません。わたしもはじめは別の居場所を探したものでした。


 たとえば、入学した当初は同じ中学出身のメンバーで集まって登校しようと云う話がありました。


 ――一緒に登校せえへん?


 そう誘ってきたのは、Jという髪の長い男でした。彼とは小学生の頃から何度か接点がありましたし、またその穏やかな性格を好ましく思っていたものですから、特に断る理由も浮かばず、二つ返事で了承しました。


 待ち合わせ場所はJRの踏み切り前でした。始業式の朝、すでに集まっていた彼らと合流し連れ立って登校したときは、ああ、これが自分の高校での居場所になるのかもな、とぼんやり考えたものです。わたしはそのメンバーと必ずしも親しかったわけではありませんが、一度決めた以上はしばらくその取り決めを守ろうと思っていたのです。


 が、それも始業式の翌日から三日続けて遅刻したときには有耶無耶になってしまいました。その後、わたしは一度として誰かと連れ立って登校したことがありません。


 学校にもちゃんと登校しようと意気込んでいた時期がありました。 しかし、体育の教諭に理不尽な理由で叱責を受けてからは、その気もすっかり萎えてしまいました。わたしは次第に(体育の時間を中心として)学校を意識的にサボるようになりました。


 一度ついたサボり癖はやはりそう簡単には治らないものです。それどころか、次第にエスカレートする一方でした。わたしは次第に楽しみにしていたはずの授業、特に何の抵抗も覚えなかった授業までサボタージュするようになってしまったのです。


 それに加えて、罪深いのは、深夜帯でしか楽しめない娯楽でした。深夜に放送されるラジオ、アニメ。それらはいずれもわたしを魅了し、深い夜の底へと引きずり込みました(尤も、わたしの部屋にはテレビがありませんでしたから、アニメはラジカセで音声だけを拾って楽しむしかありませんでしたが)。さすがお笑いの本場だけあって、芸人がMCを務める地方局のラジオ番組はそれは楽しいものでしたし、アニメが見せる世界、物語はわたしにとってとても新鮮なものでした。就寝が遅くなれば、それが翌朝に響くのは当然の道理です。わたしは望むと望まずに関わらず、寝坊と遅刻を重ねるようになりました。


 そのときにはもう夜更かしという習慣はべったりと染みこみ、拭いがたいものになっていたのです。


 出席状況に難があるわたしでしたが、テストの点数だけは高い次元を維持することが出来ました(尤も、これは自慢できた話ではありません。わたしが進学したのは、自分の実力から一段も二段も落ちる学校だったのですから)。


 教師たちはそんなわたしを問題児として認識していたようでした。


 ――あんた、職員室でも話題になっとるで。


 そう云われたのは一学期の半ば、夏服に着替えて間もない頃でした。


 担任のZ先生がわたしを見かける度に、その遅刻癖を咎めるようになったのもその評判を気にしてのことかもしれません。何度か、その職員室に呼び出しを受けたこともありました。わたしがその「襲撃」を恐れて、ますます学校に行きづらくなるとは考えもしなかったようです。


 担任と云うなら、そもそも第一印象がいけませんでした。


 精神と身体の状態に問題がある。


 そんなことを生徒が紙に書いてよこしたら、教師はどう思うでしょう。この年頃らしいねじくれた自意識の表れだと笑うでしょうか。あるいは、実際にどこかが悪いのではないかと心配するでしょうか。いずれにせよ、あまりいい印象は持たないでしょう。しかし、それを書いたわたしにはそんなことも想像できなかったのです。


 わたしが一年生のときの担任はZという中年の女性教師で、授業では現代文と古典を担当していました。始業式から間もない頃、彼女はクラスにいくつかの項目が書かれたプリントを配り、簡単な自己紹介を書いて提出するように云いました。それを参考にして簡単な面談を行うというのです。わたしはそこに何を思ったのか例のいらぬ一文を付け加えてしまいました。


 云うまでもなく、面談ではこの一文を取り上げられ、どういう意味かと問いただされました。わたしは可能な限り素直に答えたつもりですが、担任にはそれが要領を得ない答えだったのでしょう。終始、いぶかしげな顔をしていました。このとき、お互いの印象は決定付けられてしまったのだと思います。彼女はわたしを受け答えに問題のある生徒とみなし、わたしは彼女をしつこい追及者とみなしたのです。


 学校にいると、常にZ先生に見張られているような息苦しさを覚えました。教室の喧騒はそれだけで圧迫になりました。どこにいても落ち着かないような気がして、流れ流れ、たどり着いたのが図書館という一種の孤島でした。そこだけは校内の喧騒から切り離された秘境。つかみ取り自由の知識に囲われた楽園。わたしが腰を落ち着けることができる唯一の場所。


 保健室登校と云う言葉がありますが、わたしの場合はこの図書室こそが学校における唯一の居場所だったのです。そして、最後の牙城でもありました。そこが陥落すれば最後、わたしにはいよいよ居場所がなくなるでしょう。


 高校に入って最初の期末テストが近いある日、わたしは昨夜遅くまで勉強していたのが響いて寝坊してしまいました。すでに二時間目が始まっている時間です。一時間目の美術を少し楽しみにしていたのでこれは自分としても不本意な寝坊でした。そこからは、いつもと変わりません。簡単に支度をすませると三時間目前の休み時間を狙って学校に向かいました。ノイズの飛び交う教室に入ると、鞄を置いてすぐにターン。図書室に入ると指定席に腰を下ろし、目に付いた新書をぱらぱらとめくり始めました。


 図書室に安息の地を見出してからは、いくらか気分も軽くなりました。もともと、学校の主目的である授業に対して苦手意識はないのです。問題なのは、体育と休み時間だけ。そこさえ凌げれば、わたしも心穏やかに学校生活を送れるはずでした。


 休み時間にはこの孤島に避難し、犯罪もののノンフィクションや、そのころ読み始めたミステリー小説で時間を潰す。そうすることではじめて精神のバランスを保つことができたのです。


 出席状況は徐々に改善しましたし、最初の期末テストが近づいているのもあって学校での勉強にも身が入ったものでした。適応するのは無理にしても、このまま枠からはみ出さずに三年間をやり過ごしていけばいい。そういう心持ができあがっていたのです。

 

 その日もそうでした。わたしは指定席に深々と座り、すっかり気持ちを緩めていたのです。ですから、図書室に入ってきたZ先生の小柄な姿にもまったく気づきませんでした。


 ――ここにいたんか。


 そこからはいつものお小言です。なぜ遅刻したのか。いくらテストでいい点が取れても出席日数が足りなければ進級はできない。エトセトラ……


 Z先生から解放されたとき、わたしが真っ先に感じたのは、「ここも安全ではない」という思いでした。


 外部の侵入を許さない聖域。知識の城。それが汚された――


 自分はもう以前のようには安心してここに居座ることはできないだろう。学校で唯一の居場所を失ってしまったのだ――


 ああ、その時の絶望、息苦しさと云ったら!


 学校にはもはやわたしの逃げ場所はありませんでした。

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