中学校編
第11話 薔薇色に見えた日常
わたしが進学したのは、高速道路の高架沿いに広い敷地を持った地元の公立中学校でした。
わたしの部屋の押入れには今でもその中学校の卒業文集が眠っていることでしょう。そのちゃちな冊子の青い表紙をめくると、全ページに渡って上下二段に組まれた文集が始まります。文集と云ったところで、そう堅苦しいものではありません。原稿用紙にびっしり字を詰めてきた生徒もいれば、わたしのようにポエムとも単純な感慨ともつかぬ短文にイラストを添えて茶を濁す生徒も少なからずいました。
わたしの卒業時のクラスは三組でした。そこまでページを飛ばすと、派手なグループに属していたJという女子に割り当てられたスペース(判読の難しい丸文字が並んでいました)の下にわたしのスペースがありました。そこに描かれていたのは、空から舞い落ちる一枚の羽――
天使の羽。
それはわたしが当時お気に入りだったモチーフでした。筆圧が弱かったため印刷されたときに少し薄れ、輪郭が途切れ途切れになってしまったはかない羽。そしてその下にはやはりかすれた文字でこのようなことが書かれているのです。
自分の三年間はしあわせだった。
当時のわたしが何を思ってそれを記したのか――今となっては忘却の彼方です。しかし、もしもわたしに手放しに幸福と云える時期があったとすれば、それはたしかにその三年間の一部、十二歳から十四歳にかけての二年間に違いありませんでした。
友人関係、信仰、夢、そのすべての点で充実していたのは、わたしの人生を振り返ってもあの頃だけでしょう。
わたしたちの小学校卒業が迫ると、親たちはそわそわとし始めたように見えました。おそらく、わたしたちの進学する中学校は地元では不良の巣窟と恐れられていたからでしょう。その悪名に違わず、わたしが小学生の頃にも、この中学校の制服(オーソドックスな学ランでした)でたむろし堂々と煙草をふかす先輩たちの姿を何度か目撃したものでした。
そのような空気が伝わったのか、わたしたち子供も次第に落ち着かない気持ちになってきました。年上の兄弟がいる同級生からその中学校の話を聞く度に、どんな恐ろしいところなのかと不安を覚えたものです。
それがいかな神の気まぐれでしょう。わたしたちが入学した年度にはすっかり浄化されていたのです。
もちろん、中には素行の悪い生徒もいました(IやTもその一人です)。喫煙や、原付バイクの無免許運転といった非行はしばしば問題にされ、全校集会でも取り上げられたものですが、それらはあくまで一部の生徒、統計学的に発生しうる不良品の枠内に収まっていました。暴力沙汰やかつ上げの話も聞いたためしがなく、おおむね穏やかな学校と云うことができそうでした。これが本当に悪名高いK校なのかと、拍子抜けしたほどです。
もう一つ予想外だったこととして、人間関係の変化があげられます。わたしが親しくしていた(ことになっている)TやIはその少数の不良グループに属すようになり、小学校の卒業から一度として話すことなくわたしから離れていきました。また、タカ君や江川さんともクラスが別になり、その関係はぷつんと切れてしまいました。
わたしが進学した学校は二校の小学校から生徒を取っていましたから、クラスのちょうど半分はまったく見知らぬ顔でした。入学式に始めて教室に集められたときは、お互いの腹を探るような緊張感がありましたが、そのような空気もすぐにほぐれ、気が付けば教室のあちこちで小グループがいくつも形成されていました。終着駅に着いた電車から別の電車に乗り換えるようにして、人の流れがめまぐるしく動き回っていたのです。
不安はなかったと思います。今となっては信じられないことですが、当時のわたしにはいわゆる社交性というものが溢れんばかりに備わっていたのです。お得意の「道化」はここでも役に立ちました。わたしは別の小学校からやってきた同級生たちともすぐに打ち解け、気の向くままに教室の中を渡り歩いては行く先々で笑いの渦を起こすのでした。嫌われようはずがありません。
やがて最初の席替えが行われると、人間関係の流れは徐々に穏やかなものとなり、わたしもあるグループに腰を落ち着けることになったのでした。
それは市川という男を中心とするグループでした。市川は剣道部に所属する、喋るときに口元を隠す癖のある男で、その仕草がなんとなく井戸端会議のおばさんを思わせたものです。グループの中心と云っても、何か特別に強い個性の持ち主というわけではなく、云わばしきりのうまい司会者といった印象でした。
市川とは同じ小学校の出身でしたが、それまで接点らしい接点はなく、また他の面々も別の小学校の出身だったので、彼らとの付き合いはとても新鮮なものに感じられました。決して目立つグループではありませんでしたが、市川の机に集まって過ごす時間は、わたしにとってはそれは居心地のいいものだったものです。それまで、友人の顔をした捕食者に搾取されてきたわたしは、ようやっと自分の居場所を見つけたような充実を覚えるのでした。
充実と云えば、ここで信仰のことにも軽く触れておかなくてはなりません。なぜなら、諸々の不自由を背負ってでも、信仰とともに生きていくと誓ったのがちょうどこの時期のことだったからです。
教壇は他のキリスト教系の宗派がそうであるように毎週日曜に礼拝を開いていました。それまでは精々、同年代の子供と遊ぶために通っている、という程度の意識だった礼拝――しかし、わたしは次第に大人の信徒にも負けない熱心さで参加するようになりました。夏休みには、およそ一週間にも渡る修練会にも自ら進んで参加したものです。教義の理解度を問うテストでは満点を取ったこともありました(これはその教区でもトップなら、全国の中学生でも唯一、という快挙でした)。わたしの信仰は云わば親から押し付けられた古着のようなものでしたが、それを自分の意思でまとうことに決めたのです。
そして充実と云えば、もう一つ。夢のことがありました。
捕食者から解放されたことで、わたしの自由になるお金は格段に増えました。親からの小遣いをそのまま自分のものとして使える喜びは筆舌に尽くしがたいものがあったものです。
そうして自由になったお金を注ぎ込んだのが、漫画でした。これはわたしの人生にまったく新しい境地を開いたと云っていいでしょう。わたしはそれまで雑誌ならいざ知らず、漫画の単行本を買ったことがありませんでした。携帯ゲームのソフトやカードゲームなど友達との付き合いを維持するのに必要なものに投資するのが精一杯だったのです。漫画という個人的な娯楽にお金を割く余裕など到底ありませんでした。
それまでの反動だったのでしょう。わたしはこの漫画という新たな娯楽に熱中しました。小遣いの大半をその収集に当て、新刊の発売日にはいてもたってもいられず早朝のコンビニに駆けつけるほどでした。そして、それを自分でも描いてみたいと思うようになるのに、さして時間はかかりませんでした。
これまで述べる機会がありませんでしたが、わたしは幼少期から絵を描くのが好きでした。らくがき帳を買い与えられることもありましたが、それだけでは飽き足りずチラシの裏にサインペンを走らせたものでした。モチーフはそのときによってまちまちで、クワガタムシなど男の子らしいもののこともあれば、何の変哲もないテレビやケーキを、それがさも聖人たちの受難や歴史的な事件の一幕にも匹敵する芸術的価値を持っているとでも云わんばかりの熱心さを持って描くこともありました。
その熱を蘇らせたのが、漫画だったのです。
それはだれもが通る道なのでしょう。ドラえもんやアンパンマンといった子供向けのキャラクターをあえてシリアスなタッチで描いた短い漫画や、使い古された駄洒落にインパクトのある演出と絵を加えた一ページものの漫画を描いては友達に見せ、満足していました。
そうして毎日、絵を描いていると、不意に自分の将来が開けてきたような気がしました。
漫画家。
それが自分の天職のように思えたのです。
わたしはそれまで「好き」と「夢」を結びつけることができませんでした。それがこのとき初めて結びついたのは、絵を描くということが自分にとって何物にも代えがたいほどに「好き」だったからでしょう。
漫画家になる。そういう確信、あるいは決意がはっきりとしたかたちであったわけではありません。
しかし、もしもなれたら、という夢想はしばしばわたしを虜にしました。どんな漫画を描くだろう。そのようなことを考え、ノートに簡単な梗概やキャラクターの設定を書き綴ることもありました。自分のペンネームというものを考えたのもこのときです。都心の書店に赴いたときなどは、そこで漫画用の画材を買い込み、四つ切の画用紙に四コマ漫画などを描いてやはり友だちの評判を伺ったものでした。そうして、漫画漫画の生活を送っていると、漫画家という夢が次第に間近なものとして、すでに約束された未来のように思えてくるようになりました。
友人、信仰、そして夢。わたしの生活は充実していました。薔薇色でした。天国のラッパが聞こえました。それまではぼんやりと霞がかっているばかりだった未来さえ輝いて見えたのです。
それが中学生活最後の一年間で地獄に叩き落されるとは、誰が予見できたでしょう。
人生は地獄よりも地獄的である。
そんな芥川龍之介の名言を知ったのはずっと先のことでしたが、わたしはそれよりももっと早い段階でその地獄の境地に陥ってしまったのです。神なきゆえの混沌とも云うべき地上の地獄に……
人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与える苦しみは一定の法則を破ったことはない。たとえば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいである。しかし人生の与える苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食おうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外楽楽と食い得ることもあるのである。のみならず楽楽と食い得た後さえ、腸加太児の起ることもあると同時に、又存外楽楽と消化し得ることもあるのである。こう云う無法則の世界に順応するのは何びとにも容易に出来るものではない。もし地獄に堕ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟の間に餓鬼道の飯も掠かすめ得るであろう。況や針の山や血の池などは二三年其処に住み慣れさえすれば、格別跋渉の苦しみを感じないようになってしまいそうである。
芥川龍之介『侏儒の言葉』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます